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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

芦村十郎左衛門と成田十左衛門

2012-06-27 16:03:30 | 歴史

 天草島原の乱に於いて長崎奉行榊原職直とその子・職信は鍋島勢の目付けとして手勢を出した。旗本であるため手勢は精々1,800程であったと言うが、日ごろ誼のある忠利が加勢の為に家臣を付けた。芦村十郎左衛門もその一人である。
ご承知のように2月28日総攻撃と決められていたが、前日の27日鍋島勢が抜け駆けをし、これが切っ掛けとなって幕府軍が場内になだれ込み双方に多大な死傷者を出したこの戦が終結した。
榊原職信は18歳であり芦村十郎左衛門が付き従った。榊原親子が鍋島勢一番乗りとして場内に入るのだが、その手助けをしたのが牢人・成田十左衛門である。戦においては軍律が一番重要視される。鍋島家は当然のことながら、目付けの榊原氏もお咎めを受けることになる。しかしながら勝利の切っ掛けともなったこれらの行為は罪を得ることはなく無事に済んだ。

                   http://www17.ocn.ne.jp/~ya-na-ka/sakakibaraMotonao.htm

芦村十郎左衛門はこれを切っ掛けとして加増され千石の大身となった。牢人成田十左衛門は後年、榊原職直の申し入れにより細川家家臣となる。(300石)

細川勢においてこの状況を的確に判断、押し出しを命じたのは若き光尚である。この指示こそが大勝利への第一歩であった。 

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上田久兵衛顕彰碑

2012-06-27 13:22:09 | 徒然

 禅定寺にある高祖父「上田久兵衛顕彰碑」である。先にも記したが、この顕彰碑は久兵衛が命に代えて、町を戦火から守り抜いた川尻の町民の皆さまの浄財で建設がなされた。その名簿が私の手元にあり、これを見ていると本当に皆様の気持ちが痛いように伺える。一人ひとりの皆様の手を握り、御礼を申し上げたい気持ちにさせられる。久兵衛が罪を得て斬首されてから135年、私はあと15年生きて150回忌をこの碑の前で行いたいとひそかに考えている。生きる励みにもなるというものだ。

コメント (1)
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