津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

佐々木小次郎はいたか

2012-06-08 15:00:50 | 徒然

 

この記事を拝見して、私は改めて福田正秀氏の「宮本武蔵 研究論文集」(平成15年12月19日 合・歴研発行)を読み返している。
氏は「加藤清正妻子の研究」の初巻・続巻の著者でも在られるが、一級史料その他を丹念に紐解き現場を訪ねられ、小説・講談の世界にあった矛盾を解き明かしておられる。吉川英治によって宮本武蔵は全国区の人となったが、小説の世界が定着しこの小次郎の存在なども、実在した人のごとく取り扱われている。
諸史料から対決自体が行われたのは事実だろうが、32年後に建立された手向山碑文の記述ではいささか傍証にかけるし、言い伝えによる信憑性は如何なものか。しかしながら歴史はロマンである。真実が解き明かされることはあるまいが、映画やTVで小次郎のツバメ返しの技を拝見するのも一興であろう。 

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ふじという女性(2)

2012-06-08 08:44:28 | 歴史

さきに「ふじという女性」を書いたので、(2)としてつづきとしたい。

齢を重ねるということは悲しいことで、「藤」なる人物をど忘れしていた。
東大の金子先生から、「忠興側室松之丸のことです」とご連絡いただき、メールを読みながら赤面してしまった。
郡宗保と娘・松之丸(藤)については何度も/\取り上げてきたのに・・・・・・・・・・・

そしてガラシャ夫人が「藤を正室として迎えないように」と言い置いたとする出典は、「子共の事ハ我為に子なれは忠興君の為にも子也、改め言におよハす、三宅藤兵衛事を頼候也、此上にいはれさる事なから藤を御上へ御直し不被成様ニとの事なり」(綿考輯録・刊本212頁)とのご教示もあわせて頂いた。
こちらはといえば、冷や汗物であった。
この文章はよく承知している。しかしながらここに登場する「藤」は前段の三宅藤兵衛に掛かっていると理解してきた。
改めてよくよく読んでみると、ご指摘のとおりである。私の勉強不足が露呈してしまった。
言い訳がましいが、「ガラシャの遺言に三宅藤兵衛を重臣として迎えないように」という解釈がある。その出自明智氏により、細川家に災いをもたらされない為とされている。「 藤を御上へ御直し不被成様ニ」がまさにそうであると思い込んでいたし、今もって三宅氏のご子孫が家訓として多くを語られないということもあるのだが・・・・大間違いであった。

「藤」なる人物は、「 郡主馬宗保か娘を乳母隠し置、後織田信澄の傍に召仕ハれ候を、明智光春の内方へ被遣、亦忠興君の御前様へ被遣候、おこほ殿を産たるお藤是なり、後松の丸殿と云う」とあるように、織田信澄(織田信長に殺された弟・信行の子)に嫁したガラシャの姉の元にいた人物であり、その後はガラシャ夫人に仕えた人物である。

なぜガラシャはこのような具体的な表現をしたのであろうか。藤(松之丸)が古保を生んだのはまさしくガラシャが三土野に隠棲させられた時期にあたる。
自分が人里はなれた三土野に送られた時期に、子をなしたことが受け入れられないのだろう。
強烈な忠興に対する抗議のメッセージである。その後忠興は松之丸を女・古保の嫁ぎ先である家老松井興長に預けることになる。 寛永六年六月十九日豊前小倉にて死去、ガラシャの死から29年後のことである。

コメント (2)
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