さきに「ふじという女性」を書いたので、(2)としてつづきとしたい。
齢を重ねるということは悲しいことで、「藤」なる人物をど忘れしていた。
東大の金子先生から、「忠興側室松之丸のことです」とご連絡いただき、メールを読みながら赤面してしまった。
郡宗保と娘・松之丸(藤)については何度も/\取り上げてきたのに・・・・・・・・・・・
そしてガラシャ夫人が「藤を正室として迎えないように」と言い置いたとする出典は、「子共の事ハ我為に子なれは忠興君の為にも子也、改め言におよハす、三宅藤兵衛事を頼候也、此上にいはれさる事なから藤を御上へ御直し不被成様ニとの事なり」(綿考輯録・刊本212頁)とのご教示もあわせて頂いた。
こちらはといえば、冷や汗物であった。
この文章はよく承知している。しかしながらここに登場する「藤」は前段の三宅藤兵衛に掛かっていると理解してきた。
改めてよくよく読んでみると、ご指摘のとおりである。私の勉強不足が露呈してしまった。
言い訳がましいが、「ガラシャの遺言に三宅藤兵衛を重臣として迎えないように」という解釈がある。その出自明智氏により、細川家に災いをもたらされない為とされている。「 藤を御上へ御直し不被成様ニ」がまさにそうであると思い込んでいたし、今もって三宅氏のご子孫が家訓として多くを語られないということもあるのだが・・・・大間違いであった。
「藤」なる人物は、「 郡主馬宗保か娘を乳母隠し置、後織田信澄の傍に召仕ハれ候を、明智光春の内方へ被遣、亦忠興君の御前様へ被遣候、おこほ殿を産たるお藤是なり、後松の丸殿と云う」とあるように、織田信澄(織田信長に殺された弟・信行の子)に嫁したガラシャの姉の元にいた人物であり、その後はガラシャ夫人に仕えた人物である。
なぜガラシャはこのような具体的な表現をしたのであろうか。藤(松之丸)が古保を生んだのはまさしくガラシャが三土野に隠棲させられた時期にあたる。
自分が人里はなれた三土野に送られた時期に、子をなしたことが受け入れられないのだろう。
強烈な忠興に対する抗議のメッセージである。その後忠興は松之丸を女・古保の嫁ぎ先である家老松井興長に預けることになる。 寛永六年六月十九日豊前小倉にて死去、ガラシャの死から29年後のことである。