津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

忠興が得た加藤家改易の情報(二)

2012-06-10 16:52:45 | 地図散歩

寛永九年五月廿三日書状(959)
    一 加藤肥後子息豊後事ニ付 道家左近右衛門所より爰元之様子申遣たる由候 其後横山清十郎を上せ 一ツ書にて申候
      左様之事未其元へ不聞以前之状と見へ申候 卯月廿七日之書状も参著候 はや肥後昨日廿二日巳之下刻品川迄著被
      仕候間 右両通之返事ニ不及事
    一 爰元之様子具ニ申度候へ共實正之事一切不聞推量ニ色々様々申候事ハ數多候へ共 それハ不及申遣候 菟角稲葉丹
      後殿(正勝) 次ニ榊左衛(榊原職直)之状之内可為必定候間可被得其意事
    一 如右肥後品川迄被著 あれニ逗留と相聞候 安藤帯刀(直次)雅楽殿(酒井忠世)へ昨日廿二被参 肥後品川迄著候へ共
      公儀はゝかり先品川ニ被罷在之由被申候ヘハ 雅楽殿さして取相もなく委細承候 其由可申上と計被申たる由候 是ハ其
      座ニ居申候ものゝ口にて候事
    一 加藤右馬允(正方)事 加々爪(忠澄)ニ被為預置之由候事
    一 當地肥後屋敷へも 御目付之衆切手にて無之候ヘハ出入不成候事
    一 身上相果候躰と見へ申候へ共 わけを存たるもの意つぁ位無之ニ付つもりも成不申 とかく爰元之様子見究候て佐分利
      兵太夫可上候間可被得其意事
    一 其方なとも當年中ニ當地へ参府之由候 定而九十月之比たるへく候哉 其迄ハ我等も當地ニ可在之と覺悟仕候事
    一 此外之儀種々様々の儀申候へ共無實正候 其子細は御年寄衆之内にても彼加豊後内之もの口上直ニ尋御聞候衆之外
      わけを存もの一人も無之候間世上より申候事ハ何も推量と可被心得事
                              (以下略)
          (目付衆の市中観察は厳しく島津邸の出火を家士に先んじて発見通報するほどだと記している。) 

寛永九年五月廿四日書状(960)
    一 加肥後當地著之様子飛脚三人上せ申進之候つる 今日廿四正宗(伊達)・北國之肥前殿(前田常利)・嶋大隅殿(島津
      家久)・上杉弾正殿(定勝)・佐竹殿(義宣)被為召 加肥後無届と御直ニ被仰聞 此中ニ取沙汰仕候書物二ツ右之衆へ
      御見せ被成 御代始之御法度ニ候間 急度可被仰付と御諚之由候 其時伊掃部殿(井伊直孝)加様之義は急度被仰付
      候ハて不叶儀と被申由候 如此ニ候間今朝之内可為切腹と存候事
                              (中略)
    一 未品川ニ被居法華堂在之へはいられ候由候 又當地屋敷へ被参候とも申候 此二色未知候 大略品川之寺ニ被居候と
      申か可為必定と存候事
    一 右之儀五人へ被仰聞候時 子息豊後事ハ何共御意なく候つる由候 定而むす子事迄御意ニ不及と思召候而之儀たるへ
      きと右五人之衆被申たる由候事
    一 今度之書物之事 豊後ハ不被仕との沙汰も御入候 左候とても親切腹之上ハ 生てハ不被居儀たるへきと何も申之由候事
    一 紀伊國大納言殿(徳川頼宣・室清正女瑶林院)より安藤帯刀(直次)御付置 御肝煎之由候 此様子しかと不承届候 萬々
      兵太夫上候時可申候 

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江戸時代の天皇

2012-06-10 09:51:38 | 書籍・読書

 

        江戸時代の天皇 (天皇の歴史)
 

               講談社

 

 

 

戦国時代末期に政治的・経済的に力を失っていた天皇(朝廷)は、織豊政権の援助を受けながらその命脈を保ってきた。
徳川政権時においては幕府の介入が著しく、政治的には無力と成っていく。しかしながら禁裏における伝統文化の再構築に勤め、其の権威を高めていく。
宝暦時代竹内式部らによる尊王論の萌芽をみ、その伏流が明治維新への活力としてつながって行く。
江戸時代を理解するうえで天皇ー朝廷ー公家の世界を勉強しなければと思い読み始めたが、これがなかなか面白くはまり込んでしまった。
ご一読をお勧めする。
 

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