第十二子喜和姫(禰々-香厳院)は、対馬の宗義如に嫁いでいる。宗孝と同腹の二歳年下の妹である。先にご紹介した安藤信尹室も同腹の妹(二歳年下)であり、江戸に在っては心安らぐ仲であったろう。
義如(ヨシユキ)は対馬府中藩(10万石格-石盛がない)八代藩主、享保元年生まれで同十七年家督、朝鮮貿易の不振や二度にわたる大火などによりご多分にもれず財政逼迫の藩政を強いられた。宝暦二年国許で疱瘡に罹り37歳で亡くなっている。宝暦四年喜和姫も後を追うように亡くなった。35歳。
第十五子・姫が丹波国柏原藩主織田信舊(ノブヤス)に嫁いでいる。元文四(1739)年四月の事だが延享三年(1746)に二十四歳で亡くなった。翌年延享四年姫の兄・細川宗孝が殿中で旗本板倉勝該に乱心による刃傷に及ばれ後日落命するのだが、このとき「幕命ヲ奉ジテ速カニ騒ギヲ鎮メ万端奔走」し「細川家別状ナク相済」んだのは、実にこの信舊のお蔭であると細川家記は記す。
さて織田家において嫡流に一番近いのが二男信雄の流れであろう。その子・高長は一時期長岡主膳信友と名乗り細川家家臣・薮政一(12,000石)の女婿として細川忠興の下にあった。細川妙庵(幸隆)亡き後豊前竜王城を預けられていたという事実はあまり知られていない。綿孝輯録は、「織田信雄の二男也、豊前ニ御呼被成、藪内匠か壻ニ被成、妙庵主御卒去後竜王城御預被置候処、今度御立退(慶長十六年)、無程公儀ニ被召出、織田出雲守(一ニ出羽守)高長と改、従四位下侍従ニ叙任、弐万石被下候(以下略)大和松山藩初代藩主・・四代目以降柏原藩主」と記している。
父信雄の遺領について、天童藩織田信昌と相続を争い細川忠利・前田利常の応援をうけて幕府の裁定を得て、大和松山の宇陀藩藩主となった。(31、000石)。
高長・長頼・信武と続いたが、信武代に「宇陀崩れ」という家内の騒動で信武は自裁、嫡男信休が二万石減封されて丹波の柏原に転封される。その孫信舊に細川宣紀の娘(岑姫)が嫁いだという訳である。
織田家と細川家の因縁は是にとどまらず、後年宇土細川家11代立則の弟・信則が養子として入ったが、残念ながら若死にをした。
信長---信雄---高長・・・・・・・・・・・・・・・・・・信旧・・・・・・・・===信敬(宇土細川家11代立則弟)
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薮政一 ---女 細川宣紀---岑姫





