津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川輝經について

2011-03-22 12:14:19 | 歴史

 忠興の養父とされる細川輝經についてしらべている。昨日図書館に出向き佐田文書の「細川輝經公」をデジカメ撮影をした。(和綴じの原本であるためコピーが出来ない。)これは松井家旧記という文書の抜書きであるらしい。何故松井家文書にこの記述があるのかというと、これは輝經の奥方が松井廣之女・清光院(康之・姉)であることによる。清光院の娘かどうかは判らないが、藤孝の弟・三渕好重に嫁いだ。
このように深い縁戚関係でつながれているのだが、養子関係は現実的には履行されていない。しかしながら忠興は、「私は大外様と申物ニ罷成候而幽齋と別家ニ罷成候 如是段々ニ御座候故三淵系図も又幽齋系図も私為には入不申ニ付一切不存候事」と言い切っている。(齋藤佐渡守宛て寛永十八年十二月廿日御書 抜粋)
 
                        +---藤孝(幽齋)----忠興
                        |
                        +---三渕好重
                             ∥
                        +-----●
                        |
                 細川輝經---+=================忠興
                   ∥
              +--清光院
              |
      松井廣之---+--康之     

 輝經について細川家の資料によると
       四郎、小四郎、中務大輔、陸奥守、大外様衆、従四位下、大外記衆
       将軍義輝ニ仕へ御供衆タリ、薙髪後意齋、卒年不詳、宗賢榮久院トス
       室松井山城守廣之女
 ja.wikipedia.org/wiki/細川輝経

綿考輯録によると幽齋の田邊城籠城のとき、敵に内通の疑いあって後自殺とする。
このことが災いしての事かとも考えられるが、これは慶長五年のことであり上記御書と整合しない。
自殺についてはウィキペディアもこの記事に準じて紹介している。
昨日から綿考輯録を読み返しているが、記載されている頁を見つけ出せないで居る。      

 

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