津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

長岡の御称号

2011-03-24 22:21:27 | memo

 藤孝が桂川西に領地を得るのは、元亀四年(天正元年)七月のことである。

               今度彼対信長彼抽忠節誠以神妙之至ニ候
               仍而城州之内限桂川西地之事一職申談候
               全領地不可有相違之状如件
                   元亀四
                      七月十日        信長朱印
                         細川兵部大輔殿

 この桂川を限りとする西の地を領地としたときに、この地が旧都にて城州の名所歌枕の地である所から、御称号を長岡と改められた。

【長岡の都は桓武天皇延暦三年に奈良の京を移され十三年に及ひて今の平安京に遷都あり、此所樫木原の南より山崎の北迄南北長き岡山なれは長岡と号るもの歟、捴名を西の岡と云て東之方桂川を限り西は丹波の山に至、南は山崎、北は嵯峨を境とする由、城地は青竜寺村・神足村ハ勿論上野村迄も御郭内にて有之たるとなり】 綿考輯録・藤孝編p72~

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幽齋と麝香の縁は・・

2011-03-24 18:48:57 | memo

 細川幽齋と麝香の結婚の期日ははっきりしないが、この結婚は将軍義晴の命であった。

 沼田家記(綿考輯録・藤孝p5)
      上野介光兼将軍家近習之時分依台命光兼息女幽齋様ニ御嫁娶御座候
      其訳ハ幽齋様御妊胎之時分将軍家より上野介江御内意御頼之趣有之
      奉補育候由依之以後右御嫁娶之台命御座候由云々
      御嫁娶之年月知不申候

 藤孝が誕生の前、沼田光兼が築山弥十郎と共に、将軍義晴から生母の世話役を
 おおせつかったことは、築山家記にも記されている。
      天文二年十二月朔日、船橋宣賢様之御息女御着帯ニ付
      義晴公より沼田上野介と築山弥十郎貞俊御附被成・・・

 

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