津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

いま一人の先祖召出しの恩人、清田石見

2011-03-28 11:21:41 | 歴史

 いま一人の先祖召出しの恩人は、清田石見殿である。大坂の陳に於いては功名第一の鑓働きをし、忠興はその働き振りを「鑓つき申候者共、一番ニ七助」をあげ「七助鑓ハさきをつきまげ申候」と称え、後日「御饗応、御褒美被下候」と綿孝輯録は記している。「知行二千五百石・御腰物(直綱)-清田七助(乗栄後号石見)鑓を合高名は無之」と記録に留められた。 

 三齋の江戸や京への上下には、槙嶋云庵(雲庵とも)と共に清田石見がお供している。祖は清田掃部鎮忠、その妻は大友宗麟女ジェスタ(元・一条兼定室)とされる。詳細を知りえないが、ジェスタは長崎で殉教したと伝えられる。父の主計鎮乗・入道寿(素)閑の代に細川家に仕官した。一方石見は、忠興四男立孝・五男興孝の生母圓通院(幾知)の兄(弟?)であり、忠興妹伊也(初・一色義有室、吉田兼治再嫁)の女婿(米田家臣中山宗俊覚書より)という立場もある。石見・幾知の母親は元切支丹信者で勤談跡覧によると、寛永十三年改宗した(転切支丹)とされ、その後の宗門を改める為、詳細な系図が認められ残されている。隠居後の忠興に仕えていたが、寛永三年忠利に附属せしめられた。
「清田七助を殿様ニ御奉公申候へと、三齋様御意ニて、(吉住)半四郎御使ニ被参候、則七助も同道ニて、今日被罷越候而、御礼相済候、知行も前々のことく、三齋様より付遣候事」とある。(日帳五月八日) 又幕府に対し證人を上げるべき家臣・八家の中にもその名を留めているが、誰が證人として江戸へ赴いたかははっきりしない。

 石見の行政官としての顔は伺えないが、戦場を縦横に馳せ巡った猛将の存在は忠利の元でも重きをなしたのであろう。
島原一揆にも出陣したが、流れ矢にあたり負傷した。傷を癒す為の温泉療養を願う資料なども散見される(*細川家文書・御印之物、寛永十八年二月)。 後知行地・菊池に在宅し病死している。

 嫡子外記は病身の故を以って家督は次弟主馬に譲り帰農した。主馬室は沼田延之女・国、二男は沼田延春の養子となった(元春)。石見家は先祖付けによると、主馬乗治--石見弟(寿閑四男)左近右衛門--主馬の子・源左衛門と引き継がれた。

 石見の次弟・与三右衛門は、忠興により細川刑部の目付けを仰せ付けられ、後代々刑部家家臣である。姉・幾知の子・刑部の面倒を見たという事である。

 石見の伯父(父鎮乗兄)五郎太夫は中津や八代に於いて、忠興の側近として働いた。ご子孫のお宅(富合町釈迦堂にある)に「ふるさと生活資料館」が平成十七年開設され、諸資料が公開されている。

 細川宗家、宇土細川家に幾知を通して清田家の血が脈々と生き続けている。

コメント (1)
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