津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

先祖召出しの恩人

2011-03-26 17:02:16 | 歴史

 周防で浪人を余儀なくされた我が先祖は、二人の男子が三齋公のお召しにより豊前へ下った、その折肝煎りをいただいたのが清田石見と槙島言庵両人であると我が家の先祖附は記している。兄・長五郎については「福岡県史・近世資料編--細川小倉藩(三)」の元和九年閏八月七日の「御用覚書之帳」に、「磯部長八郎(知行高弐百石)此地罷越居候儀 此中不存候而 何も御小々性衆御目見ニ被罷出候せんさくニ付 しれ申候事」とあった。

その言庵槙島昭光について、綿考輯録は次のように記す。

 (天正元年)七月、義昭公信長との和順破れ宇治槙島に楯籠給ふ 上野清信・飯河山城守等を先として、宗徒三千七百五十余人なり
 槙島城は一色信濃守輝光居城なり 槙島に在城故称槙島氏其子槙島孫六重利この時の城主也 玄蕃頭昭光と申候 後秀吉公・秀頼公につかへ大坂にても無二の士なり 虚名を蒙り候へとも無程御赦免有之大坂落城已後忍て豊前に来候間忠興君より家康公に御断有て無役の知行千石被下剃髪の名言庵(云庵・雲庵とも)と云 今の槙島多次郎祖なり 槙島家記に槙島玄蕃頭儀幽齋様・三齋様御懇意被思召上候訳ハ、幽齋様公方義昭公江御奉公被遊候時分玄蕃頭ハ将軍家執権職を勤め義昭公今出川の館を修造有し砌、幽齋様御家人と上野清信か家人を論争の事有 其後清信右之儀を鬱憤に含ミ幽齋様御逆心有之旨を讒す 義昭公御信用あり 依而玄蕃頭幽齋様御逆心之旨を諌、しかれ共讒口猶不止と云々 京乱之節幽齋様御家人屏裡にて旗を振、敵を招き御逆心之体と見申由横目言上す
其節玄蕃頭義昭公の御前に居候て幽齋様兼而之御忠誠何事に依て唯今御別心可被遊哉と申上玄蕃頭直に攻口に参御様子見届御別心無御座むねを言上す 其節幽齋様急難御遁れ被遊候よし、右体の訳を三齋様委御存知被成玄蕃頭儀至て御懇意被仰付候 右義昭公御逝去已後太閤様・秀頼様江御奉公仕候 秀頼公御生害以後正覚院と申寺中に浪人仕居候を、三齋様・加藤左馬介殿御両名にて権現様江御免之儀御願被遊、正覚院江三齋様直ニ御出被遊御国江被召寄候旨申伝候 右上野清信其後逆心仕義昭公より御征伐被仰付、郡大和守・槙島玄蕃頭両人ニ而討果申候と云々 以下略(綿考輯録・藤孝編p69~70)  

 慶長二年八月廿八日昌山公(足利義昭)薨、六十一歳、秀吉公より其旧臣槙島玄蕃頭昭光に命し、等持院に御葬送、霊陽院殿昌山道休大居士一ニ道桂昌山と号せらる。(綿考輯録・藤孝編p189)

 我が先祖のお墓も在る禅定寺に槙島雲庵は眠っている。一説に136歳という。
このような人の肝煎りにより召出しが在ったと事を、私は密かな誇りとしている。

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雑感・一被災者として

2011-03-26 09:54:46 | 徒然

                 再生を願うように、「はなニラ」がまた健気にきれいに咲きました。

 何度も書いたことだが私は昭和28年の熊本大水害で被災した。小学校六年生だった。からくも生き残ったが今でもトラウマとなっている。その後高いところへ高いところへと転居して今に至っている。

 鴨居(床上1.8㍍)まで水が上り、前の道は急流と成り避難が困難になったころ、当時大学生だった従兄弟が駆けつけてくれて、命からがらの脱出を図った。
翌日すっかり水が引くとお向かいの家三軒が流出、我が家といえば家の中はがらんどうに成り、あちこちの木材など流失物が家を覆い、後では襖や障子の立て付けが上のほうで7・8ミリ隙間が開くほどに家が傾いてしまった。その後傾いたままのその家で10数年を過ごした。

 翌日は晴天だったように記憶している。流失したお向かいの家は、見事といっていいほど何もかもが流されていた。昔の家は基礎というものが無かったから。柱の下のいくつかの礎石が残されただけである。
出水(いずみ)町という地名のその場所は、その名前の通り1メートルも掘れば清冽な水が湧き出した。そのお宅の突き井戸の跡からは地上の大惨事を全く知らぬげに、清らかな水がこんこんと湧き出ていた。忘れられない強烈な印象である。

 当時はトイレといえば汲み取り式であり、水は潤沢であり煮炊きは薪がわりの流木が沢山有り、現在の様な不便さは感じられなかった。
小学校の仲間が沢山死んだ。校庭の中央に在る榎木の下で夏休み前の暑い日に、慰霊祭が催うされた。何本もの橋が流失、熊本市内の膨大な量のヘドロは熊本城の堀を埋め、あちこちの低地を埋め立て現在は住宅地になった。お住まいの若い方たちは、そんな歴史もご存じない。熊本城のお堀も旧に復することも無いのだろう。

 東北の被災地で屈託も無く遊んでいる子供達も、この恐ろしい経験は一生忘れられないものになろう。家族を亡くされた方は又一段である。暖かい支援の手が差し伸べられ、その辛さが少しでも和らぐことを心から願わずには居られない。

 自然は無常である。怒りのもって行きようが無い。しかしながら原発の危険性を我々はいやというほど知った。効率のみを追求する現代の生き方を反省しなければいけない。
やがてやってくるであろう東海・南海地震にたいして、今回の災難は教訓と成りうるのだろうか。九州も最近地震が多い。             

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