津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

藤崎八旗宮秋期例大祭の「随兵祭り」

2008-09-13 15:54:49 | 歴史
 藤崎八旗宮秋の例大祭の勇壮な飾り馬を追う「随兵まつり」、今年は9月21日に行われます。「お間違えのないように」 数人の方に「15日ですよー」と言いまくってきましたので訂正です。

かっては9月15日開催と決まっていたのだが、何時の頃からか不定期になった。9月15日が祝祭日(敬老の日)になって喜んでいたら、思わぬ事に「老人会」からクレームがついた。「敬老の慶事とお祭りが重なって見にいけない」という訳だ。故に今年は21日・・です(汗)今年も60数頭の飾り馬が奉納され、終日街中は賑う事だろう。今年は藤崎八旗宮のお膝元「鳥居元」が奉納からはずされた。お膝元と言う事で例年一番奉納が許されていたが、原因は何か詳しくは伝えられない。勢子の不祥事ではないかと聞く。羽目をはずさず楽しくおやりに成る事だ。(写真は熊本市政だより掲載のものを使わせていただきました)
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大名妻子の江戸引越し

2008-09-13 14:54:34 | 歴史
 忠利夫人の江戸定府が何時の時期なのか、未だ調べがつかない。

 元和二年のものとされる二月十七日付け、内記(忠利)宛て三齋の書状がある。
(熊本県史料・近世編(一)p308 御書附并御書部--御父子様御連枝様御書通之部)より抜粋
  一、諸大名妻子を江戸へ引越申様被申越之就夫大炊殿へ其方手前之談合趣承候事
  一、其方家中之人質替々ニ詰候様可被仕候由加様之儀我々所へ不及被申越候此地
    ニ被居候時より此思案之由承及候事



 また年代不明(前後の文書から元和二年と考えられる)の八月十日付け、三齋側近・魚住傳左衛門宛忠利書状には次のようにある。(p399--抜粋)
    拙者下屋敷拝領仕度之由大炊殿を以申上候へハ可被下候由被仰出候 其刻喜
   之助殿を被召出候處ニ我等頼も不仕候つれとも喜之助殿被申上候ハ内々妻子を
   も引越可申覚悟ニ付而下屋敷なとも拝領仕度存之由被申上候 左様ニ御座候へ
   ハ何れも妻子引越申候間旁以来年女共引越申候ハてハいかヽニ候間當年引越可
   然之由いつれも被申候間先内々用意仕候へと申遣候 然共来年ニ差延候重而相
   談跡より可申遣と存候 此等之趣可然様御披露所仰候


 この周辺の文書を調査して「お引越し」の時期を特定したいと思う。


    

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江戸証人のこと-- 1 (続)

2008-09-13 12:36:07 | 歴史
 忠興と五男・興孝の仲違いについて
【文書2】
    寛永十六年歟御家譜と八代御出之日限相違再孝
          尚/\此状う土より申入候已上
内匠殿より飛脚参候間乍次申候 正月四日熊本を出八代へ御見舞申一段御機嫌能下々迄色々御馳走之御振廻にて候つる 仍而同名刑部事中を御たがひ候て御誓文ニて御直り候ましきとの儀ニ付而左候へハ人しちニ進上被成候刑部三齋様と中たがひニ落着候へハ公儀へ人しちニ上ヶ被置候而も役ニ不立儀ニ候間立允を替りニ江戸へ可被召連と御老中へ御談合候へハ尤との被仰様ニ候 上様へハ不被得御意候由之御物語ニ候故我等よきとも悪キ共可申わけニて無之故謹而居申候 又我等へ御談合之被仰様ニ而無之候 今度御数奇屋にて御懇比之御意之旨一々御物語ニ而候つる 又江戸へ早々御下向候而御詰候次第江戸中如何可申候哉無心元計ニて我等一段無事ニ候 十二月十五日之書状も相届候 不急儀共ニ候間熊本より返事可申候 恐々謹言 
                         越
    正月六日                  忠利(御判)
        肥後殿
          進候

 翌日付けの書状が有る。これには江戸参勤の日付などが書かれている外、殆ど正月六日付け書状と同様内容である。忠興と興孝の仲が、最悪の状況であることを窺がわせる。
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