津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

幻の「八代細川藩六万石」

2008-09-25 09:59:27 | 歴史
『部分御舊記』(熊本縣資料・近世編第一 p289)に、正源院宛忠利書状(抜粋)として次のような文書がある。

「我等弟立允事人質之為替と江戸へ三齋御下候 御目見させ被成度由に付て心得之由返事申候 又重而立允身上之事は先ツ三齋御一代は此中のことくにて江戸ニ居三齋後は知行都合六萬石に可仕由約束仕埒明ケ申候 (略)」

 舟田義輔氏の研究論文『宇土細川支藩成立の前後』の、系譜「5-細川立孝」の欄に、【寛永十六年六月廿二日三齋死後は隠居料分を加えて立孝の家督を六万石に決める(部分御旧記による)】とあるが、上記文書のことであろうか。

 忠利が亡くなり、当の立允が亡くなり、三齋の悲願とも云うべき八代藩の立藩の思いは頓挫する。三齋が亡くなると「薩摩を抑える軍事上の拠点」として、八代は松井家に委ねられ、三齋の家臣団も解体されてゆく。そして新に立允の子・宮松(行孝)を以って、宇土支藩・三万石が誕生するのである。

 


 
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