松井右近(入江右近)なる人がある。松井を名乗るが代々家老の松井家とは関係ない。
忠興二男・興秋の生害(元和元年六月六日)にあたり、介錯役を務め行方知れずになったとされる。
「初五郎作 後松井右近と改、但馬国主前野但馬守高麗陳之時取来られしもの也、御息出雲守禿童にして御つかひ候しが、秀次公叛逆御一味の由にて前野氏中村式部少輔ニ御預之時出雲守殿より異国者ニ而候可愛からせ給へと忠興君へ被仰進候者也」と綿考輯録は紹介している。関が原の戦では、忠興の下で「首一つ」の手柄を挙げている。
そんな右近の娘の縁邊についても、三齋や忠利は心を砕いている。
山路太左衛門なる人がある。この太左衛門に嫁がせようという訳だが、「熊本県史料・近世編(一)」に其のあたりの事情がわかる文書が有る。(p691)(p406)
一 松井右近女共山路多左衛門遠親類之由候幸ニ候間此女多左衛門所へ遣度候
但其方ニさし相候ハヽ不及申遣間敷候 御返事次第ニ候 此儀多左衛門ニ
一切不申聞候間さたなき様ニ可被仕候事
一 多左衛門事於同心此方へよひよせ可進候可被得其意候 恐々謹言
(元和九年)五月三日 三齋 (御判)
越中殿 進之候
一 松井右近女之事山河(ママ)太左衛門ニ可被遣由此方ニ申定儀少も無御座候
何時ニても被召寄可被仰聞候 太左衛門ハ散々相煩候て湯ニ入申候事
九月四日 (忠利)
魚住傳兵衛殿
元和九年と言えば、右近の行方が分からなくなってから三年である。
興秋は天草に逃れたとする説がある。系図なども残されているが、真実の程は分からない。右近も共に天草に住み着いたかもしれない。
忠興にすれば、自ら自刃を申し付けた興秋の死は、一代痛恨事であったろう。その側近・右近の遺族の処遇もまた気に掛けていた事をうかがわせる史料である。
忠興二男・興秋の生害(元和元年六月六日)にあたり、介錯役を務め行方知れずになったとされる。
「初五郎作 後松井右近と改、但馬国主前野但馬守高麗陳之時取来られしもの也、御息出雲守禿童にして御つかひ候しが、秀次公叛逆御一味の由にて前野氏中村式部少輔ニ御預之時出雲守殿より異国者ニ而候可愛からせ給へと忠興君へ被仰進候者也」と綿考輯録は紹介している。関が原の戦では、忠興の下で「首一つ」の手柄を挙げている。
そんな右近の娘の縁邊についても、三齋や忠利は心を砕いている。
山路太左衛門なる人がある。この太左衛門に嫁がせようという訳だが、「熊本県史料・近世編(一)」に其のあたりの事情がわかる文書が有る。(p691)(p406)
一 松井右近女共山路多左衛門遠親類之由候幸ニ候間此女多左衛門所へ遣度候
但其方ニさし相候ハヽ不及申遣間敷候 御返事次第ニ候 此儀多左衛門ニ
一切不申聞候間さたなき様ニ可被仕候事
一 多左衛門事於同心此方へよひよせ可進候可被得其意候 恐々謹言
(元和九年)五月三日 三齋 (御判)
越中殿 進之候
一 松井右近女之事山河(ママ)太左衛門ニ可被遣由此方ニ申定儀少も無御座候
何時ニても被召寄可被仰聞候 太左衛門ハ散々相煩候て湯ニ入申候事
九月四日 (忠利)
魚住傳兵衛殿
元和九年と言えば、右近の行方が分からなくなってから三年である。
興秋は天草に逃れたとする説がある。系図なども残されているが、真実の程は分からない。右近も共に天草に住み着いたかもしれない。
忠興にすれば、自ら自刃を申し付けた興秋の死は、一代痛恨事であったろう。その側近・右近の遺族の処遇もまた気に掛けていた事をうかがわせる史料である。