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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

雑感・・岩間六兵衛と、奥方・海津

2008-02-13 11:51:32 | 歴史
 岩間六兵衛の先祖附は非常に面白い。奥方・海津に関する記述が数ページに及んでいるが、五百石物成を頂戴し六兵衛(三百石)よりもセレブで、「大御老女」として忠利・光尚・綱利に仕えた実力が伺える。六兵衛は細川家にとっては「大恩人」と言っても過言ではない。それは、六丸(綱利)誕生の経緯である。光尚は、六丸生母清高院を、屋敷から下がらせよう(離縁)とした事がある。六兵衛は清高院の懐妊を告げ諌めるのだが、何故か光尚は「流産させよ」と命じる。六兵衛は改めてこれを諌め、自らが預かり六丸の誕生を迎えた。そして、何故か六丸は三歳迄六兵衛の屋敷で過ごす事に成る。正室の子ではないにしろ、嫡子の扱いとしては首を傾げざるを得ない。「丸」と命名された「」の御字についても、兵衛の興味深い記述がある。六年後光尚は生母・保寿院の後を追うようにして亡くなるのだが、「御國返還」を幕府に申し出て、藩は大騒動となる。無事に六丸の遺跡相續が決定するのだが、先のような光尚の言動を思うと、「六丸」への相續を拒みたかったのではないかとさえ思える。一方六兵衛・海津の評価はさぞかしであったろう。後、清高院の派手な振る舞いが始まり、綱利長じての同様の行いが松井興長を苦しめ諫言に至って行く。長生きをした海津の胸中は如何であったろうかと想うのである。六兵衛は、母と共に苦労をした幼い時代を、六丸に重ねたのかもしれない。六兵衛の祖父は武田信玄であり、六丸の祖母は将軍秀忠の養女である。
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直訴の結果

2008-02-13 10:08:27 | 些事奏論
 カテゴリーに「些事奏論」という項を設けてみた。この言葉は、筑紫哲也の「多事争論」に引っ掛けた私の造語で、かってこのサイトに設けていたBBSで看板にしていたものである。「中々いいじゃないか」と自画自賛している。・・さて・・
 最近腹が立つことが多すぎて、どこかで鬱憤を晴らさなければ脳の血管が破裂しそうである。カテゴリーを一つ追加して「安全弁」としようと思った次第である。

 それがいつの事であったか確認する気にもなれないが、あることで市長に直訴した。市長の後援会事務所にメールを送ったのだ。市長がメールに目を通されたかどうかは分からないが、大変恐縮するような返事をいただいた。関係部署から返事をさせるとの事であった。・・・・一年以上経過した・・・・振り上げた拳の下ろし様がない。今一度直訴に及ぼうかともおもうが、役所の対応などはこんなものだろうと諦めている。

 「藩校サミット」を前にして、掃苔マップを作ろうと想っているのだが時間がない。熊本をお尋ねいただく観光客の皆さんに、もう少し分かりやすい案内板などの設置をお願いしたいのだが・・・「内膳家や刑部家、小笠原少齋家のお墓がどこにあるか」くらい勉強してよ、観光課さん。    

 
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岩間六兵衛なる人-3

2008-02-12 17:05:21 | 歴史
2/10のブログ「お天気に誘われて」で岩間六兵衛について、先祖付けに有る記述をご紹介したが、大間違いをしてしまったので、訂正をさせていただく。
 
 1、父親は武田信玄嫡男・太郎義信で童名千代丸
 1、義信自害の後、弟信清が預かり嫡男分として養育、武田六兵衛正成と称す
(正)義信自害の後、晴信(信玄)弟・信清(信実カ)に預けられ、嫡男分として養育、武田六兵衛正成と称す
 1、天正三年五月信清、三河■■城で討死
 1、六兵衛若年にて母召連甲州へ立返り奥平九八郎を頼る
(正)六兵衛若年にて母召連甲州を立退き奥平九八郎を頼る
 1、奥平九八郎肝煎にて塩治監物の養子となる
 1、塩治監物牢人、のち監物、六兵衛共々小笠原兵部大輔を頼る
 1、塩治監物、大阪御陳に於いて討死、
 1、監物実子は小笠原右近将監に召し出された為、
     六兵衛は岩間の名字を譲受け岩間六兵衛と名乗り、
     兵部大夫御嫡・大學の御守となる
 
 「言いわけ」
 1、信清の名が有った為、単純に義信の弟と思い込んでしまった事
 1、その信清なる人は兵庫頭を名乗り、没年が天正三年である事

 ここで「間違い」に気附いて、武田兵庫頭を調べたところ、天正三年(1575)に亡くなっているのは、信玄の弟兵庫頭信実らしい。処がこの人が信清を名乗ったとは考えにくい。それは同時代に、義信弟・信清(1560~1642)がいたからである。六兵衛の勘違いではなかろうか。義信の没年永禄十年(1567)からすると、母に連れられて甲州を離れたのは10歳くらいの頃だろう。記憶も定かではなかったろう。
 「教訓」先祖附にも間違いはある(だろう)
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藩校時習館・・7 教授と助教

2008-02-12 09:05:32 | 歴史
 藩校時習館は宝暦五年の開講以来六人の教授がいる。五人については順次ご紹介したが、六代目の片山豊嶼は史料がなく未だUPできないでいる(謝)
ここでは、六人の教授と十九人の助教を、その就任時期と合わせてご紹介しておきたい。

 教授
  ■秋山儀左衛門(玉山) 宝暦五年~宝暦十三年
  ■藪 茂次郎(孤山)  明和三年~寛政二年
  ■高本慶蔵(紫溟)   明和八年~文化十年
  ■辛嶋才蔵(塩井)   文政四年~天保十年
  ■近藤英助(淡泉)   天保十二年~嘉永五年
  ■片山喜三郎(豊嶼)  文久元年~文久二年 (嘉永三年~安政四年 訓導)

 助教
  ■藪 茂次郎(孤山)  宝暦十三年~明和三年 二代教授
  ■草野雲平(潜渓)   明和三年~天明六年
  ■池辺平太郎(蘭陵)  安永八年~天明二年
  ■高本慶蔵(紫溟)   天明六年~天明八年  三代教授
  ■大城多十郎(壷梁)  享和二年~文化八年
  ■辛嶋才蔵(塩井)   文化元年~文政四年  四代教授
  ■安野形助(南岳)   文化八年~文化十二年
  ■大城準太(霞萍)   文政四年~文政十三年
              天保三年~天保五年
  ■近藤英助(淡泉)   文政六年~天保十一年 五代教授
  ■池辺謙助(丹陵)   天保十二年~弘化二年
  ■山口仁九郎(東流)  嘉永二年~安政六年
  ■柏木文右衛門(後凋) 嘉永六年~安政二年
  ■簗瀬騏兵衛(徳翁)  安政三年~文久元年
  ■沢村武左衛門(西陂) 安政 (詳細不明)
  ■加賀山権内(素江)  文久元年~慶應三年
  ■井口呈助(岱陽)   慶應三年~慶應四年
  ■福田十郎右衛門    慶應四年~明治三年
  ■木村徳太郎      明治二年(助教当分)
  ■中津海平之進(主静) 明治二年~明治三年
                 以上
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藩校時習館・・6 五代教授・近藤淡泉

2008-02-11 22:01:15 | 歴史
近藤守敬(英助) 御備頭御留守居大頭組御小姓頭支配御奉行所触御物頭列 
           学校法御奉行触・時習館訓導 百五十石内五十石御足高
               延享三年二月~文化二年十月 秋田詫摩郡代
               文化二年十月~文化五年四月 宇土郡代
               文化五年四月~文化六年十月 野津原鶴崎郡代
               文化六年十月~文化六年十一月 菊池郡代
                   細川斎護公御書出(文政九年)
       
 名は昌明、字は子中、通称英助、淡泉と号す。藩に仕へ禄七百石、初め医員となり。後寛政十二年時習館訓導となり、数年にして郡代に転じ、更に府学時習館に入り天保十二年教授職に任ぜられ、六教授の一人たり。三代に仕へて服職六十年、恪勤精励終始一の如し。嘉永五年九月十三日没す。年七十九。春日萬日山に葬る。
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藩校時習館・・5 四代教授・辛嶋塩井

2008-02-11 21:58:12 | 歴史
辛嶋才蔵 御鉄炮三拾挺頭・惣教支配・時習館教授 三百石内二百石御足高
     
 名は和雄、一名憲、字は伯彝、才蔵と称し、エン井と号す。幼にして穎悟、数歳にして句讀を受け大學を背踊す。長じて草野潜渓に学ぶ、後時習館訓導となり又江戸にして大府の命を蒙り經を昌平黌に講ず。藩臣此の栄典にあずかるもの薩(摩)の赤碕海門、芸(洲)頼春水等数人のみ、後進んで時習館教授となる。所謂六教授の一人也夙に程朱を信し、忠君憂国の念終始一の如く、又親に事へて孝養を極む。
天保十年二月廿三日没す。年八十六。墓は万日山。
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好奇心

2008-02-11 16:59:13 | 徒然
 ミーハーな私は「猫の下ってこうなっていたのか」を覗いて見た。目からウロコだねー。
    http://www.ideaxidea.com/archives/2008/02/post_354.html

 このブログは、現在大変な事になっているみたいですよ。
あなたも好奇心がムズムズして来たでしょう。・・・どうぞご覧あれ・・・
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藩校時習館・初代教授・秋山玉山・・・外伝

2008-02-10 22:35:51 | 歴史
 秋山玉山の実方は山中氏、儀左衛門(玉山)は又吉の子であり、秋山友安の養子となった叔父(又吉弟)需庵の許に、養子として入った。

   山中与三左衛門----宇兵衛----助左衛門--+--又吉----儀左衛門
                (与三左衛門)      |
                       秋山友安----+==秋山需庵==儀左衛門

 秋山家の先祖附によると、中山与三左衛門は備前牛窓の人とある。大坂玉造に住まい浪人していたが、「秀林院様御逝去之砌■茂御屋敷被相詰居申候」とある。「急ニ京都江御女中被■返候事御座候付 与三左衛門儀伏見迄付添罷越候様ニ与被仰付・・・」 用事を済ませて急ぎ大坂に帰ったらお屋敷は焼失していたというのである。

 玉山の曽祖父殿は、ガラシャ夫人に仕えていたのだ。先祖附をてにしてちょっと興奮してしまった。ガラシャ夫人についての史料が少ない中、この事実は大変貴重なものである。(新発見だー・・・)
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お天気に誘われて

2008-02-10 17:42:10 | 徒然
 今日の熊本は大変よいお天気、風は冷たいが太陽サンサンで温度もウナギのぼり、西日が入る私の部屋は現在18℃(暖房ナシ)で、靴下なしで過ごしています。午前中、このお天気に誘われて図書館行き、またまたコピーを80枚ほど、主に「藩校サミット」の勉強をと思い関係史料や、関係人物の先祖附など・・・思いがけず其の史料の中に曽祖父の名前を見つけ感激、先祖附にない事実を知りびっくり。

 岩間六兵衛に関する史料が三通りあることを先にご紹介したが、確認の為に先祖附をコピー、現在訓下中。概略は次の通り

 1、父親は武田信玄嫡男・太郎義信で童名千代丸
 1、義信自害の後、弟信清が預かり嫡男分として養育、武田六兵衛正成と称す
 1、天正三年五月信清、三河■■城で討死
 1、六兵衛若年にて母召連甲州へ立返り奥平九八郎を頼る
 1、奥平九八郎肝煎にて塩治監物の養子となる
 1、塩治監物牢人、のち監物、六兵衛共々小笠原兵部大輔を頼る
 1、塩治監物、大阪御陳に於いて討死、
 1、監物実子は小笠原右近将監に召し出された為、
     六兵衛は岩間の名字を譲受け岩間六兵衛と名乗り、
     兵部大夫御嫡・大學の御守となる
 
  そして兵部大輔秀政女・千代姫(台徳院御養姫)の細川忠利への輿入にあたり、付人
 として細川家に入ることになる。   これが真実だー・・・・
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熊本県立美術館「人間国宝三人展」

2008-02-09 10:25:19 | 熊本
 熊本県立美術館・本館では「人間国宝三人展」(2/7~3/30)が始まった。漆芸家の高野松山、増村益城、肥後象嵌の米光太平のお三方である。これは是非拝見したいと思っている。わが家には松山先生御作の「硯箱」がある。昭和28年の大水害に見舞われたおり、辛くも残った物の一つである。多分これも水に浸かったのだと思うが、漆蒔絵のあの光沢がまったく失われてしまった。おまけに、長男が小さい頃これを踏みつけてしまい、上蓋が壊れてしまった。父母が結婚祝に頂戴したもので、何とか補修できないものかと考えて来たが、そう思うままで今日にいたった。この「硯箱」を携えて、出かけようと考えている。学芸員の方にお見せして、修復の手立てなどもお尋ねし様かと思う。もう一つ壊れかけた漆が掛けられた竹細工の「文箱」もあるのだが、これは正体が分からない。益城先生の御作ではないのかと、密かに考えているのだが、鑑定をお願いし様と思っている。

 熊本県立美術館には、いよいよ4月25日(金)、待ちに待った「細川コレクション永青文庫」展示室がオープンする。熊本城の「本丸御殿大広間」の復元も完成し4月20日から一般公開である。色々楽しみな熊本の春である。
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志水宗加殿散財

2008-02-09 08:42:42 | 歴史
 寛永元年九月十四日「舟難破シ供替ノ家中多数水死ス」という、一大事故が起きている。詳細な場所の特定はないが周防沖加室とされる。志水宗加の多額の銀子も沈んでしまった。福岡県史・近世史料編・細川小倉藩(一)「日帳」から、事故の顛末を追ってみよう。

■9/20 今度御供替被上候舟之内、弐そう破損仕候、志水牛介・林加兵衛、歩之御小性衆弐十壱人、御鉄炮衆四人、其外下々相果候由、村上八郎左衛門(景広)大阪より罷下候、則式部殿へ夜ル之九つ過ニ被集候て、談合ニ候、牛介舟ニハ米田左兵衛(是次)・神谷半七被乗候、左兵衛・半七ハ身斗やう/\別の舟へ乗候てたすかり被申候、左候て、舟ハ弐艘共ニ見え不申候由候間、舟尋旁々御早舟壱艘・小早弐艘、御船頭(岡田)茂兵衛・(橋本)勘左衛門・(三宅)清兵衛三人上せ可申由ニ候事
■9/21 かむろ(加室、周防大島郡)へ九端凡(帆)ノ御舟・小早弐そう、合三艘、御船頭勘左衛門・も兵衛 (ママ) 御奉行ニ友田次郎兵衛被指上せ候間、今日七つ時分ニ出候へと、被申付候事
■9/22 歩之御小性衆乗申候舟そこね申候、たすかり申候御小性十弐人、九人ハ果申候、今橋三右衛門右之舟ニ乗申候へ共たすかり、使ニ参申候事
■9/25 上方ニ上せ申候小早ノ御船頭角(加来)久二郎罷下候、かふろ(加室)ニ而御鉄炮衆七人、松岡久左衛門者壱人のせ下申候事

■9/29 式部殿・與左衛門殿・利斎登城、今日宗加(志水清久)所へ見廻ニ参候へハ、今度ノそこね舟ニ、(志水)牛介ニ被言伝候銀子過分ニすたり申候、半分ほとハあかり申候、残る分を所ノ者かけ候て見可申之由候、然ハ、銀子二百め余入申候、此入目ハ宗加より出可申候、御船頭之内かうしやなる者壱人、小早ニ而被仰付可給哉との儀ニ候、いかヽ可有之哉と御奉行衆へ談合、被指上せ可然由ニ究候て、(鏡)善右衛門ニ被申付候、御船頭ハ太兵衛か弥右衛門か可然之由候、御加子被是入目之儀ハ、重而惣銀より出候か、又宗加より出候か、重而可有沙汰之由候事

■9/晦日 友田次郎兵衛か室より被罷下候、神谷半七歩之御小性衆罷下候、其外破損之様子、か室にて仕置旁之儀、書物具ニ御座候、御奉行衆へ被渡候事
■10/5 今度破損舟之御船頭衆ノ吟味を被仕、書物を上ケ候へ、■■明日之便ニ、江戸へ言上可仕之由、鏡善右衛門・糸川長左衛門・(橋本)勘左衛門ニ被申渡候事
■10/6 今度はそん仕候御舟御船頭ノ衆せんさく之儀、鏡善右衛門、御舟頭三人ニ被申渡候へハ、今度之そこね申候御舟之儀は、あわち(樋口淡路)罷下候まてハ、御待被成候て可被下之由申候ニ付、其分ニさしのへ被申候事
■10/26 今度かむろにて、破損舟之御船頭両人、ともニしちへやへ入置、穿鑿可仕旨被仰下候ニ付、両人共ニしち(へ)屋へ被入置候事
■10/27 御供衆破損舟之御船頭両人穿鑿ニ、瀬崎猪右衛門・町市丞しち(へ)屋ニ参候事、両人共ニ書物仕上ケ候事
■10/28 御船頭助太夫、理右衛門穿鑿ニ猪右衛門・市丞参候、書物仕上ケ候、一昨日ノ書物ニ無相違候事
■11/12 加室にて破損仕ル御舟ニ乗合、身から斗助候かちの御小性十二人、御鉄炮衆十人の分ハ、来年ノ御借米本がし・増がしともニすて被遣候間、新敷之さしかミ相調、御家老衆へ遣候事
■11/13 一、林加兵衛せかれニ御ふちかたの儀、少右衛門ニ申渡候事
一、(志水)牛助せかれニ、牛助知行無相違被遣候通、被成御書、則其旨高田角左衛門・山路太郎兵衛(ママ)ニ申渡候事

 志水宗加の沈んだ銀子がどうなったのか、記録は残されていない。水中埋蔵金になっているかもしれない・・・?


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春の便り

2008-02-08 13:51:47 | 熊本
 昨日のTV、そして今日の新聞が、一足早い桜の開花を報じている。通称「てんすい桜」すでに三部咲きになって、玉名市天水町の草枕温泉「てんすい」の玄関を飾っている。「啓翁桜」という早咲きの桜らしいが、生花用に品種改良されたものらしい。天水町の特産品として人気が高まっているという。草枕温泉、あの夏目漱石の小説「草枕」の舞台となったところである。

   www.kusamakura.jp/contents.cfm?id=195
   www.kusamakura.jp/web/maedake/kusamakura_bettei_top.html
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早春賦

2008-02-08 11:21:33 | 徒然
 昨日の事だ。女の子が歌を歌っている。「はるはなのみのかぜのさむさや・・・」早春賦だ。二階の窓から見下ろすと、小学校二・三年位の女の子の後ろから、幼稚園児らしい男の子がちょこちょことついてくる。「■■ちゃん、『はるはなのみの』って何ね」と聞く。私は女の子が何と答えるだろうかと、俄然興味が沸いた。しばらく間を置くと「今日は寒いけどもう春なんだよ。本当は春は暖ったかいんだけど・・・まだほんとの春じゃないとたい」なんと素晴らしい答えではないか。鼻につんと来るものがあった。弟らしい男の子は「なのみのなのみの」と呪文でも唱えるように口を動かしている。スキップしながら駆けて行く姉弟のかわいらしい姿が、まさしく「春」だ。視界から二人の姿が消えると、思わず口笛を吹いている自分に気づいた。

   1.春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど
     時にあらずと 声も立てず 時にあらずと 声も立てず

   2.氷解け去り 葦は角ぐむ さては時ぞと 思うあやにく
     今日もきのうも 雪の空 今日もきのうも 雪の空

   3.春と聞かねば 知らでありしを 聞けば急かるる 胸の思を
     いかにせよとの この頃か いかにせよとの この頃か

               【作詞】吉丸一昌 【作曲】中田章



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武田信玄の孫、岩間六兵衛なる人--2

2008-02-07 20:25:50 | 歴史
 慶長十四年(1608)忠利、豊前中津にて婚姻 (23歳)-千代姫(13歳)
   岩間六兵衛、小笠原秀政の命を以って千代姫の付人として細川家に入る
 慶長十七年(1612)武蔵・小次郎舟島にて戦う
 元和元年(1615)大阪夏の陣
         忠利、嫡子六丸(光尚)誕生、九月十八日豊前中津 (30歳)
 元和七年(1621)忠利、家督相続す (35歳)
 寛永九年(1632)忠利、肥後十二郡・豊前三郡五十四万石を賜る(46歳)
         十二月六日小倉発、九日熊本入城(三齋・八代入城)
   同年十二月五日書状にて、小笠原忠眞の「岩間六兵衛を返すべし」の要請を断る
            (大日本近世史料・細川家史料)
 寛永十一年(1634)光尚、烏丸光賢女と婚姻 (15歳)
 寛永十四年(1638)十一月島原一揆勃発、翌年正月二日光尚出陣す(19歳)
 寛永十七年頃岩間六兵衛をして、宮本武蔵の仕官を勧誘する(二天記)
 寛永十八年(1641)忠利歿、光尚遺領相続(23歳)
 寛永十九年(1642)光尚、綱利生母(清高院)に御暇を下されんとす。懐妊の旨を報告するも
   流産致さすべきの御意、岩間六兵衛諫言しこれを預かる。
(綿孝輯録)
 寛永二十年(1643)正月八日、綱利江戸にて誕生
 寛永二十年(1643)阿部一族を誅伐する (25歳)
 正保二年(1645)忠興(三齋)十二月二日八代に薨ず 殉死五人 (83歳)
 正保三年(1646)光尚、立孝の子宮松に宇土益城三郡のうち三万石を内分す。
        (宇土支藩)松井佐渡守興長を八代城代とす。(28歳)。
 正保四年(1647)正月、岩間六兵衛歿
 正保四年(1647)葡国カリアン船長長崎入津防禦として出兵  
         壱万千三百一人 大小船合四百三拾二艘
 慶安二年(1649)十一月廿四日・忠利室保寿院、江戸にて卒す(53歳)
         十二月廿六日・光尚江戸にて卒す、殉死十一人 (31歳)
 慶安三年(1650)六丸(綱利)四月特例を以て遺領相続


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武田信玄の孫、岩間六兵衛なる人--1

2008-02-07 14:45:25 | 歴史
 忠利夫人千代姫の入輿にあたって、小笠原家から付人として細川家に入り家臣となったのが岩間六兵衛である。武田信玄の孫であるとされる。この人については、三つの説があって私の頭を悩ましている。

(一)武田信玄嫡孫之由、甲州没落之時幼年にて母つれて立隠れ、兼て小笠原殿御懇意故育置れ候由、武田六兵衛と申候、今度(千代姫入輿)御附被仰付候事御断候得は、秀忠公より一通り六兵衛を御旗本並に被召直、其上ニ而御輿入の御供可仕旨御諚二而御請申上候、此節より岩間と改候と也 (綿考輯録・巻二十八)

(二)源正成・武田六兵衛、岩間と改 武田晴信入道玄孫義信子 武田勝頼臣岩間大蔵左衛門正頼養子、武田家没落後小笠原兵部大輔に仕、慶長十九年保寿院入輿の時付人、忠利より三百石拝領 正保四年正月二十五日江戸歿 妻梅津江州伴城主伴周防孫
           (花岡氏監修 肥後藩・主要系図より)

(三)細川家臣。六兵衛。武田信清男。武田氏滅亡の後、塩谷監物の養子となる。監物は小笠原秀政に召抱えられ、正成は秀政男忠真に附属せらる。そののち、秀政女千代姫が徳川秀忠養女として細川忠利に嫁ぐに際して、これに附属せられ、細川家臣となり、岩間六兵衛と改称す。元和九年頃、江戸詰衆、二百石、外に合力米百石。
           (大日本近世史料・細川家史料・・人名一覧より)

   1、父親は誰か。
   2、養子先は岩間氏か、塩谷氏か 
 三者三様の説であって交わる事を知らない。(三)についても承知していたのだが、東大史料編纂所がこの説を採っておられるのが驚きだった。綿孝輯録と明らかな違いがある。

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