津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■黒鍬衆は隠密にては非ず

2024-03-19 07:05:53 | 歴史

 「くまもと城下の地名」を読んでいたら、小崎龍也先生の解説がある。
   ・江戸城に黒鍬組がおかれた。
   ・日頃は城内の庭や庭木、道路の整備・・一方では「隠密」仕事
             ⇩
       その人たちが住んだのが黒鍬町
 その黒鍬町は、細川邸下屋敷がある白金の隣町・白金1丁目に大きく広がっていた。(㉒目黒白金図)

隠密と言えば服部半蔵が居る。吉宗が将軍になったときは、紀州から連れてきた者を御庭番としてこれを大いに使ったと言われている。
黒鍬衆=隠密というのはいかがだろうか?

 私は小崎先生のお説にはいささか異議を唱えたい。黒鍬衆の発案者(?)は、松井康之だと言われている。
綿考輯録には、天正十八年松井康之が、「荊棘が生い茂り、堀溝多く、石高くして難儀なりしに」、鍬を数多持ち込んで云々とある。
そして、「此時より陳具に多くの鍬を持せられ候後ニ家康公も御感にて畝鍬之衆を御定被成候由」とある。
私は、黒鍬衆=工兵だと理解している。石垣の整備や道路・河川の整備、新地開発などが仕事であったろう。
小崎先生が言われる島原城に忍び込んだ隠密の話は、「忍びの者」であって、これは暫くの間は氏名も明らかであったが、のちには無くなっている。
後に「外聞」という役職があるが、是は隠密とは言えず、各地を回る情報収集者とでもいうべきか。その仕事のことを「立ち聞き」といったようだ。
熊本の黒鍬町は、上通郵便局の裏手の路地あたりをいう。多くの「工兵」が住んだのであろう。
さぞかし、日焼けしたたくましい人たちが行き来していたのであろう。

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2 コメント

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黒鍬町 (柴田)
2024-03-19 21:33:57
弊ブログのネタにさせていただきました。
Unknown (津々堂)
2024-03-20 16:16:13
恐れ入ります。お手柔らかにお願い致します。

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