徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

熊本と長崎

2024-07-21 20:25:32 | 熊本
 先日、久しぶりに熊本県立図書館へ出かけた。ついでに電車通りをはさんだ向かい側の「ジェーンズ邸」を見て、図書館へ戻ろうと横断歩道の信号待ちしていると、公務員風の中年男性が横に並んだ。「暑いですね~」と声をかけた。男性はうなづきながら僕の方をじっと見て「お元気そうですね~、散歩ですか」と言った。一瞬「ん?」と思ったが、おそらく男性には僕がかなりの高齢に見えたのだろう。後期高齢者には違いないが、他人からそういう風に見られているのだと認識を新たにした。男性は続けて「熊本はこの辺にも名所旧跡が多いのでいいですね」と言う。熊本の人じゃないのかと思って「どちらのご出身ですか?」とたずねると「長崎です」。さらに僕が「長崎のどちらですか?」と聞くと「長与です。ご存じですか?」と言うので「知ってますよ!」と答えると、嬉しそうに「ご存じですか!」と微笑んだ。その時、信号が青に変わり、男性はやって来た電車に乗るのか、「お元気で!」と言いながら横断歩道を駆け出した。
 長崎も随分行っていない。会社員の頃、高校や高専のリクルートで長崎県内も何度か回ったことがある。長与は知っているなどと言ったが、長崎市からどこかへ移動する時に通っただけだ。長崎は熊本に勝るとも劣らない見るべきところが多い県。いつかじっくり見て回りたいものだが、同じ肥州なのに有明海をはさみ近くて遠い。

ジェーンズ邸
 ジェーンズ(Leroy Lancing Janes)とは明治4年、廃藩置県直後の熊本県に招かれて若者の教育をしたアメリカ人である。ジェーンズが教鞭をとった熊本洋学校からは多くの人材が育った。このジェーンズ邸は、当時ジェーンズ一家が住んでいた家で、もともと、現在の熊本県立第一高校がある熊本城域にあったもの。水前寺成趣園の東に移築されていたが、8年前の熊本地震で倒壊し、水前寺成趣園南側に場所を変えて再建されたもの。

 長崎の唄といえばまず思い出すのは「長崎ぶらぶら節」。この唄が大好きになったのは、吉永小百合さん主演の映画(2000年)を見てから。映画に描かれていたように長崎丸山の芸者愛八と郷土史家の古賀十二郎によって発掘された古謡だが、元歌は江戸時代中期に江戸の遊里で流行った「やだちゅう節」といい、もともと秋の実りを寿ぐ「豊年唄」だったそうである。この「やだちゅう節」が長崎に伝わり、様々な歌詞をつけて歌われるようになった。その数50近くにもなるという。

今日も暑かった!!!

2024-07-20 20:39:38 | 
夜の月
 今日、熊本は気温が34℃まで上がったとテレビで言っていたが、街中のアスファルトの上の体感温度はそれをはるかに超えていたと思う。熱中症にでもなったらいけないので散歩もしばらく控えている。日が暮れてから恐る恐る歩いてみた。道路の熱気が冷めていないのですぐにやめた。美しい月が東の空に上っていた。明日が満月らしい。


新坂の「漱石ポイント」から見た月
 明治29年4月13日、第五高等学校の英語教授として熊本へやってきた夏目漱石は池田停車場(現JR上熊本駅)に降り立ち、人力車に乗って薬園町の菅虎雄宅へ向かう途中、新坂のこの辺りで、眼下に広がる熊本市街を見下ろして「森の都だなぁ!」と言ったと伝えられる。

涼感 
 涼しげな音楽を聞きたくなって選んだのがこれ。一昨年4月、熊本市で開催された「第4回アジア・太平洋水サミット」の記念ソング「水と花と夢と」。

作詞:古賀鈴 作曲:麻生朱里 編曲:藤川いずみ・志娥慶香


真夏の風景寸描

2024-07-19 19:41:46 | 季節
 今日は午前中かかりつけ医に定期的な受診に行った。この医院でも新型コロナの感染者が急増しているらしい。コロナが5類になって医療費の公費負担がなくなったが、自己負担診療ではたして感染拡大を食い止められるだろうか。

 明日から熊本市内の小中学校は夏休み。今日は終業式が行われたらしく、家路につく子供たちの顔はいつもより生き生きとしている。宿題もたくさんあると思うが、夏休みは成長のチャンス! 自分のことを言うのもなんだが、小学3年だったと思うが、母の実家に長期滞在し、近くの菊池川の砂浜で日がな一日を過ごしていた。ある日、川の流れに乗って泳げるようになっている自分に気付いた。それがきっかけとなって水泳にハマり、人生の大きなターニングポイントとなった。

 今日は世界的なシステム障害のニュースが飛び交っていた。ファーストフードチェーンのマクドナルドのレジが作動しない不具合に始まって、ウィンドウズパソコンが昼過ぎから自動的に再起動がかかるという異常が発生。幸いわが家のパソコンは異常がなかったが、国内外でこの影響とみられるトラブルが相次ぎ、航空便などにも障害が発生したようだ。ネットでつながったシステムはいったんこういうことが起きると甚大な影響を及ぼすので怖い。


学生時代のお気に入り音楽

2024-07-18 19:54:13 | 音楽芸能
 2008年7月のブログを見ていたら、「学生時代のフェイバリット・ソング」と題して下の3曲をあげていた。この3曲が大好きだったことはよく憶えているが、学生時代から60年が経ち、後期高齢者となった今でもその気持ちは変わっていないのだろうかと聴いてみた。最近のポップスで感動したことのない僕には、1周廻って新しく聴こえる。聴いている間は学生時代の街の風景や友の顔などが浮かんできて、ひとときの学生気分にひたっていた。


① 愛なき世界(1964年)ピーターとゴードン
 ピーターとゴードンはいわゆるリバプールサウンドの一員。この曲はレノン&マッカートニーが作った。ピーターの妹とマッカートニーが恋仲だったため提供したといわれる。


② マジック(1965年)ラビン・スプーンフル
 当時はイギリスのリバプールサウンドが世界を席捲しつつあったが、その一方でアメリカンポップスを代表するグループの一つとして、新鮮なサウンドを作り続けていた。


③ 赤ずきんちゃん(1966年)サム・ザ・シャム&ザ・ファラオズ
 独特のサウンドで人気のあったアメリカのバンド。1967年の映画「夜の大捜査線」で監督のノーマン・ジュイソンはこの曲を使いたかったらしいが、高額な使用料を要求されて断念し、ほとんどパクリのような「Foul Owl on the Prowl」という曲を使った。

最近のトピックス

2024-07-17 21:26:58 | Web
 最近の個人的トピックスといえば、一つはYouTubeマイチャンネルの登録者数がいつの間にか1万人を超えていたことです。2008年12月に初めて投稿してから16年。始めた時はこんなに多くの方に登録していただけるとは想像もしませんでした。登録していただいた皆様に深く感謝申し上げます。
 二つ目は昨年12月にYouTubeに投稿した「お座敷小唄/芸者ワルツ(リマスター版)」が、投稿後7ヶ月にして視聴回数11万回を数えたことです。この動画は12年前に投稿していたものですが、昨年暮れに見直して画質の悪さが気になり、幸いオリジナル映像が残っていたので画質の精度を上げて再投稿したものです。まさか再投稿版がこんなに多くの方に見ていただけるとは驚きでした。
 また、多くの方からコメントもいただきました。好評価が多いのですが、中には「年端も行かない女児に芸者のマネをさせる」ことへのお叱りもいただきました。12年前も同じようなご意見はいただいておりました。それから12年経ち、しかもメンバーの多くが既に舞踊団を卒業した現在、今さらとは思いますが、あえてご説明させていただきます。この舞踊団花童の主宰である中村花誠先生のお考えは、この舞踊団の本旨は「歌舞伎舞踊」であり、それを基本として育成を図っておられました。しかし、当時は年間200回を超える公演があり、会場も観客層も様々であり、普段日本舞踊とは縁のない方も多く見に来られました。そこで先生は1公演で10数曲の演目を、「歌舞伎舞踊」「各地の民謡」「端唄・俗曲」「童謡」そして誰でも知っている「歌謡曲」などをバランスよく配したプログラムを組んでおられました。この「お座敷小唄/芸者ワルツ」は歌謡曲の中の一つとして演じられたものです。しかし彼女らの踊りは先生の厳しい指導を受けた基本的な所作です。「三つ振り」ひとつとっても誰でもすぐにできるものではありません。そうした点も踏まえていただきあらためてご覧いただければ幸いです。


八丈島の歴史と民俗

2024-07-15 18:02:34 | 音楽芸能


 NHK-BS「英雄たちの選択」は「島々の歴史を探る旅シリーズ」第一回の今夜は八丈島。関ヶ原の戦いに敗れた宇喜多秀家が徳川家康により島流しにされてから流刑地になった八丈島。江戸時代におよそ1,900人が八丈島へ流刑になったという。流人たちは島でどんな人生を歩んだのか。最初の流人・宇喜多秀家と最後の流人・近藤富蔵の生き様を通して、流刑の実像と八丈島の歴史を検証していた。

 僕が八丈島に行ったのは36年ほど前の東京勤務の頃に一度きり。会社の水泳仲間とダイビングをするのが目的、往復飛行機で一泊二日の旅だった。日中はほとんど海の中でろくに観光もしていない。したがってそんな八丈島の歴史を知る由もなかった。

 八丈島はその昔、「女護ヶ島」ともいわれ、美しい女性ばかりが住み、男性が足を踏み入れると二度と島を出られないという伝説も残っている。八丈島の代表的民謡に「八丈ショメ節」(東京都無形民俗文化財)という唄がある。盆踊りや宴会などで即興で歌われた唄で、何百という歌詞があるというが、多くの島ことばが使われていて、その中に「めならべ」という島言葉がある。「女童」あるいは「美並」とも書いて若い娘のことだそうだ。前述の流人・近藤富蔵が書き残した「八丈実記」には「めならべ」とは「美並」と書くという一節もある。

▼ショメの由来
「ショメ」という囃子ことばの語源は「塩梅」、「潮目」、「処女」、「所望」など諸説あるらしい。


森田曠平 「八丈のめならべ達」


2014年10月25日 熊本城本丸御殿「秋夜の宴」
 【立方】花童くるみ・花童文乃
 【地方】唄と三味線:本條秀美と本條秀美社中  鳴物:中村花誠と花と誠の会

百人一首の絵札

2024-07-14 16:45:53 | 日本文化
 大河ドラマ「光る君へ」を見ながら、ふと梅林天満宮(玉名市津留)のことを思い出した。梅林天満宮は承平6年(936)太宰府天満宮より、没後33年目の菅原道真公の御分霊社をいただいたことがその起源とされている。紫式部や清少納言が登場する「光る君へ」は今、11世紀に入る前後、つまり梅林天満宮の創建から60~70年が経過した頃の物語だと思われる。
 毎年秋、11月25日に行われる梅林天満宮例大祭はほぼ毎年見に行っているが、参拝した後に必ず見るのが拝殿の長押に貼られた百人一首の絵札である。そしていつも一番注目するのが紫式部と清少納言の歌(下図)。百人一首に選ばれるという事は二人の代表作なのだろう。これらの歌が選ばれた理由などを調べてみたい。


梅林天満宮例大祭において太宰府天満宮より派遣の巫女舞。向こうの拝殿の長押に百人一首の絵札が見える。



廻り逢ひて見しやそれともわかぬまに 雲がくれにし夜半の月かな
【解説】
 「久しぶりに会って、昔の友だちかどうかわからないうちに、雲に隠れる夜更けの月のようにあわただしく帰ってしまいましたね」という意味。幼なじみとのつかの間の再会を、月になぞらえて詠んだ歌です。紫式部の代表作は、『源氏物語』と『紫式部日記』。若くから和漢の学に秀でていました。



夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ
【解説】
 「夜の明けないうちに、(中国のことわざのように)鶏の鳴き声をまねしてだまそうとしても、逢坂の関は通しませんよ」という歌。男性の言い訳に対し、相手の言葉を使って一矢報いるべく「私は関所を通さない=会いません」と伝えたのです。作者は『枕草子』の著者でもあります。

※解説は学校向けコンテンツ「NHK for School」から引用

忘れ得ぬ大先輩

2024-07-13 22:51:32 | 友人・知人
 社会人時代にお世話になった方は数多いが、中でも僕たち夫婦が結婚式を挙げる時、実質的な仲立ちの労をとっていただいたNさんは特に忘れられない。Nさんはもともと労働省系のお役人だったのだがワケあって退職し、創業したばかりのブリヂストン熊本工場に人事労務担当として転職して来られた方だった。社員は入社仕立ての僕ら若手ばかりで、総務部門のリーダー的存在だった。特に僕は人事労務担当に配置されたので公私にわたってお世話になった。仕事の面でもちろんいろいろ教えていただいたが、アフター5も仕事以上にみっちり仕込んでいただいた。週末の夜はNさんが僕ら若手を数人ひきつれて熊本の街へ繰り出すのがお決まりになっていた。下通あたりを歩いているといつも何人もの人がNさんに頭を下げた。わけを聞くとNさんは「戦後間もない頃、職安で仕事を世話した連中だよ」と言った。ある店の店主の証言では、Nさんは本当に親身になって仕事を探してくれたと感謝していた。
 Nさんが僕らを連れて行くのは普通の飲み屋ばかりではない。今でいうゲイバーのような店もあった。実はそこのママさん、といっても旧日本陸軍の猛者だった人なのだが、やはりかつてNさんにお世話になった人だった。そして最後の締めは二本木の「トルコ風呂」(今のソープランド)というのもお決りだった。当時は赤線が廃止されてもう10年以上経っていたが、いつも行くなじみの店はかつて二本木遊郭の妓楼だったところで、Nさんはその頃から通っていたのだろう。いつも行くとまず二階の部屋にみんなで上がって、ビールやおつまみを持って来させてしばらく談笑した。その後、めいめい風呂に降りて行くという段取りだった。
 あれから50年。そのNさんも亡くなって20年以上過ぎた。あの頃のNさんや仲間の顔を最近しきりに思い出す。

二本木遊郭ゆかりの「東雲節」

暑中お見舞い申し上げます!

2024-07-12 19:28:55 | 日本文化
 暑中お見舞い申しあげます。
 各地で続く猛暑の一方、豪雨災害のニュースもありますが皆さまいかがお過ごしでしょうか。
 激しい気候の変化に既に夏バテ気味の方もいらっしゃるかと思いますがどうぞご自愛くださいます
 よう願いあげます。
筆者 敬白

 今日はお盆の墓参りを済ませてきました。わが家の墓地は三方を放置された無縁墓に囲まれ、笹や葛が侵食してきて除去に大変な手間がかかってしまいました。無縁墓の増加は社会問題になりつつあると聞きますが今のところ手の出しようがありません。
 それはさておき、「暑中お見舞い申しあげます」と聞きますと、われわれの世代はすぐにキャンディーズ のヒット曲を思い出します。今から16年前、妻とともに薄命の少女詩人・海達公子のルーツを探して徳島県美波町を訪ねた時、温かく迎えていただいた郷土史家の真南先生のお話で、公子の父親は美波町阿部地区の名家・喜多條家の出であり、有名な作詞家喜多條忠氏(2021年没)も同じ一族であることを知りました。
 喜多條忠氏が作詞したのは「暑中お見舞い申し上げます」の他、かぐや姫の「神田川」、「妹よ」、「赤ちょうちん」。キャンディーズの「やさしい悪魔」、柏原よしえの「ハローグッバイ」、梓みちよの「メランコリー」などがあります。公子のルーツを訪ねた旅先で不思議な縁を感じたものです。


ハーンが見た雨乞太鼓 ~宇土の雨乞い大太鼓~

2024-07-11 16:55:17 | 熊本
 先日、近場の親戚にお盆の挨拶回りをした。とにかく暑い日で車内はがんがんクーラーを効かせて走った。松尾町の坪井川河口辺りで車窓から百貫港が見えた。ふとラフカディオ・ハーンが明治26年7月20日、ここから長崎を目指したことを思い出した。クーラーもない人力車や船を乗り継いで、さぞや暑かったことだろう。長崎のベルビューホテルの暑さに耐えかね早々に熊本へ戻る途中、三角の浦島屋で甘美なひと時を過ごした後、美しい女将が手配した人力車で宇土半島の海岸沿いを一路熊本へ向かうのだが、その途上の村々で行われていた「雨乞い太鼓」を目撃したことが「夏の日の夢」に書かれている。

—―車輪が回転する鋭い音も、ドーン、ドーンと腹に響くような音にかき消されるようになった。ある村のはずれにさしかかったとき、私は開けっ放しの納屋の中で裸の男たちが、たくさんの太鼓を叩いているのを見た。
「オーイ、車屋サン!」と、私は叫んで、「アレデス。アレハ何デスカ?」と訊ねる。車屋は、停止もせずに走りながら、叫んで答えた。
「どこでん、今は、同じこつばやっとります。もうずいぶんなとこ、雨が降っちゃおりまっせんけん、雨乞いばしよるとです。そんために太鼓ば打ちょっとです。」
 他のいくつかの村も通り過ぎたが、そこでも大小様々な太鼓を見たし、音も聞いた。そして、水田の遙か向こうの、見えない村々からも、あちこちの太鼓の音が山彦のように響き、こだましていた。――

 この年、熊本は旱が続いていたため村々で「雨乞い」の太鼓を叩いていたものらしい。「夏の日の夢」を読むとおそらく赤瀬か網田あたりの村を過ぎる時だったと思われる。今日では稲作にかかわる「雨乞い」は廃れてしまったが、「宇土の雨乞い大太鼓」として当時使われていた大太鼓が国重要有形民俗文化財として保存されているという。

   ▼「宇土の雨乞い大太鼓」を使った演奏