徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

高校総文祭パレードは…

2020-05-28 17:27:23 | イベント
 今日は本来であれば、熊本県高校総合文化祭の劈頭を飾るパレードの日。上通から新市街までのアーケードを、マーチングバンドやバトントワリング、郷土芸能のパレードが練り歩き、熊本に初夏を告げる元気な音が響き渡るはずだった。毎年これを観るのが楽しみだったのでコロナが恨めしい。他県では第2波の兆しも見られるようだが、何とか今年中には抑え込んで、来年再び見ることができることを願うばかりだ。


玉名女子高校吹奏楽部のマーチングバンド


天草拓心高校郷土芸能部のハイヤ踊り


   【動 画】


2014年 バトントワリング・マーチングバンド


2015年 マーチングバンド


2014年 郷土芸能
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よへほ節のはなし。

2020-05-27 20:26:25 | 音楽芸能
 今年の山鹿灯籠まつりは8月16日の千人灯籠踊りのほか、15日に予定されていた大宮神社での奉納灯籠おどりやおまつり広場での灯籠おどりなども中止されるという。今年はもう過去の映像で我慢するしかないようだ。
 ところで、山鹿灯籠おどりで主に踊られる「よへほ節」は、今日、野口雨情の作詞として紹介されるが、元山鹿市立博物館長の木村理郎先生によれば、実は野口雨情が作詞した「山鹿小唄」と山鹿市民グループが作った「山鹿温泉小唄」を合成して出来上がった唄だそうだ。昭和初期、かつての温泉町の輝きを失いつつあった山鹿の町を再興させたいと願う町の旦那衆が、明治初期からお座敷唄として唄われていた「よへほ節」を、ご当地ソングとしてリメークしようと大作詞家・野口雨情に依頼した。その一方では町興しの市民グループも新しいご当地ソングを作っていたので、この二つをうまく組み合わせて新しい「よへほ節」が出来あがったという。下の2曲が「ビフォー&アフター」なのだが、その趣きの違いが面白い。


現在の「よへほ節」


お座敷唄だった頃の「よへほ節」
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明治時代の熊本市内四大寺

2020-05-26 20:08:52 | 熊本
 国立国会図書館デジタルコレクションの古い資料を見るのが好きで、日頃よく利用させてもらっている。今日は、明治42年3月に熊本で行われた「清正公三百年祭と熊本」という資料を見た。過去何度か見ているのだが見る度に新しい発見がある。
  今日、「おや!」と思ったのは「清正公三百年祭」公式ガイドブックの観光案内に「市内四大寺」と称して、当時の熊本市内の四大寺院を紹介していた。その四つとは
 西光寺(細工町二丁目)、順正寺(川原町)、延壽寺(川原町)、阿弥陀寺(細工町三丁目)
とあった。いずれも今日も存在する立派なお寺ではあるが、はたして今、市内観光名所として特筆するかと言えば「?」だ。110年の時の流れを感じさせる。


2015年10月12日 西光寺で行われたはつ喜月若さんの名取披露
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本妙寺仁王門100年

2020-05-25 20:30:05 | 熊本
 今年は本妙寺の仁王門が落成して100年の年だという。しかし、仁王門は4年前の熊本地震で損壊したまま、いまだ修復のメドも立っていない。
 小中学校の親友の家が本妙寺の門前町にあったので仁王門は常に身近な存在だった。しかし、もっと幼かった頃、祖母から「行ってはいけないところ」と言われていた。それは戦前まで参道沿いに喜捨を求めるハンセン病患者や貧困者が大勢たむろし、アジールと化していたからである。しかし、戦後はそんな風景もなくなった。清正公の命日前夜である7月23日に行われる頓写会(とんしゃえ)には毎年10万人を超える市民が集まった。出店も立ち並んで、熊本の夏を代表する風物詩となった。
 江戸時代中期、まだ神仏習合の時代。医師の橘南谿(たちばななんけい)が書いた紀行文「西遊記」に、そこは清正公を祀る大社であると書かれている。宗教宗派を超越して尊崇を集め、熊本はもちろん全国各地から大勢の参詣者で賑わっていたようだ。
 仁王門の下をくぐって参詣する日が再びやって来るのはいったい何年後のことだろう。


本妙寺仁王門 1919(大正8)年9月着工、翌年3月落成。 総工費7万数千円。 鉄筋コンクリート造りで正面約13メートル、奥行き約6メートル、高さ約15メートルの八脚門。


仁王門落成後間もない頃の絵はがき


頓写会の賑わい(熊本地震前)
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お稲荷さんとおキツネさん

2020-05-24 18:18:17 | 歴史
 稲荷神社の主祭神は、商売繁昌・五穀豊穣の神様である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)という名の女神だという。そしてその使いがおなじみ白いキツネ。加藤清正が熊本城築城の際に城の守護として勧請したという熊本城稲荷神社もそれは同じ。しかし、この神社にはもう一つ別のキツネ伝説がある。
 加藤清正が羽柴秀吉の小姓として仕えていた近江長浜の時代、侍同士の喧嘩の仲裁に入った清正の見事な振舞いに、二匹の兄弟キツネが感服。将来を見込み、二匹のキツネは霊狐として清正を守護することになった。清正が24歳の時、秀吉から肥後北半国19万5千石を与えられ、肥後国に入るが、二匹のキツネも一緒にやって来て、兄のキツネは「清藤大明神」として花岡山に、弟のキツネは「緋衣大明神」として茶臼山に祀られたと伝えられる。
 今日も熊本城稲荷神社境内に祀られている「緋衣大明神」がそれである。

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出町のはなし。

2020-05-23 19:04:52 | 熊本
 熊日新聞の連載コラム「私を語る」は昨日から、上通町の古書店、舒文堂河島書店の店主・河島一夫さん。この古書店は熊本にいた頃の夏目漱石が足しげく通った店として知られている。第2回目の今日のコラムに注目すべきことが書かれていた。河島さんの曾祖母は出町の米穀商・塩津家から嫁入りされたとのこと。能楽師・塩津清人さんは曽祖父の甥にあたるという。塩津家は現在、清人さんの長男哲生さんと、その息子圭介さんが能楽師として東京を拠点に活躍しておられる。中学で僕の1級上だった哲生さんや圭介さんが出演された舞台は何度か拝見したことがある。新聞を読んだ後、散歩のついでに出町の事情に詳しい曽我薬局を訪ねた。曽我さんは母を通じて旧知の間柄である。曽我さんはまだ新聞を読んでおられなかったが、塩津家や昔の出町の話に花が咲いた。僕らが子どもの頃は大久保醤油(現フンドーダイ)の工場があっていつも醤油の匂いが漂っていたこと。江戸時代の京町番所の遺構として残っていた外堀のこと。昭和時代の町制変更で出町の範囲が狭くなってしまったこと等々。昔の出町の風景が懐かしくよみがえってきたひと時だった。


今日の出町の様子


塩津圭介さん「道成寺」を披く
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御田植祭は中止か!?

2020-05-22 20:37:28 | 熊本
 全国各地の御田植祭が中止となるニュースが伝わって来ますが、熊本でも毎年6月上旬に行われる熊本城稲荷神社の御田植祭の実施が危ぶまれています。熊本城稲荷神社の御田植祭は、舞踊団花童のメンバーが早乙女を務めるのが恒例となっており、もし中止となれば彼女たちの元気な早乙女姿も見られないことになり残念です。
 そこで、2014年から2019年までの御田植祭の様子を写真と動画で振り返ってみました。


早乙女の身支度を整えます


田圃に入る前に五穀豊穣を祈ります


赤緒の草履を脱いでいよいよ田圃に入ります


神田のしめ縄が張られた区域に一列に並んで後退しながら苗を植えて行きます


田植の儀が終わり田圃から上がります


田植の儀の前に舞を奉納します
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はこべら

2020-05-21 19:31:50 | 文芸
 平成29年(2017)に他界された規工川佑輔先生の奥様から1冊の本が送られてきた。それは先生のノートに書き遺された2008年から2014年までの作品を、奥様がまとめられた歌集だった。先生にとって第五歌集となるこの「はこべら」は先生の遺作となった次の歌から採られた歌集名であることが奥様のあとがきに書かれていた。

 県道を渡れる脚を持たざれば春野にはこべら踏むこともなし

 平成29年の暮、奥様から喪中はがきをいただいた時、この歌が遺作として書き添えられていた。先生の最晩年は身体がご不自由で、自らの足で歩くことはできなくなっていた。そんな身の上を、自虐的なニュアンスを込めて歌われたものと思う。先生のご自宅近くを通る県道長洲玉名線を横切ると田園地帯が広がっている。その畦道には春になると七草のひとつ「はこべら(ハコベ)」が咲き乱れ、先生の少年時代はおそらくその畦道が遊び場だったのだろう。
 この歌を読みながら、僕は少女詩人・海達公子が幼い頃に詠んだ一つの詩を思い出した。それは「すみれ」と題する可愛らしい詩だった。

 あしもとのすみれ ふまんでよかつた

 海達公子を愛し、生涯をかけて顕彰し続けた規工川先生は、最後の最後まで公子のことを忘れることはなかったに違いない。はこべらの歌を詠まれた時も、公子のこの詩が念頭にあったのかもしれない。

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太宰府天満宮の惨状

2020-05-20 20:40:49 | ニュース
 外国人観光客に人気のある太宰府天満宮の最近の様子をNHKのニュースが伝えていた。名物の梅ヶ枝餅を売る店が一部で営業を再開したそうだが、外国人の姿はなく、例年、国内外から1000万人が訪れていた参道は閑散としている。太宰府市によると太宰府天満宮を訪れる外国人観光客向けの大型バスは、去年は月に2000台を超えていたが、ことし3月はわずか5台、4月はゼロだったという。
 梅ヶ枝餅を売る店も、感染リスクを避けるため、販売は持ち帰りに限定しているそうだ。このほかの店では営業時間を短縮する店や、20日の営業再開を見送る店もあり、しばらくは厳しい状況が続くようだ。
 わが長男が太宰府市内のホテルに勤務しているが、宿泊客が激減、極めて厳しい経営が続いているようで、先行きは予断を許さない。
 一昨年10月に太宰府天満宮に参詣した時は、ここは中国か!と思うほど、中国語が飛び交い、中国人観光客で賑わっていたのがウソのような光景がテレビ画面から見てとれた。


閑散とした参道の風景


一昨年10月に訪れた時の風景
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「山鹿をどり」の中止は残念!

2020-05-19 21:12:44 | イベント
 昨年、一昨年と行われた「山鹿をどり」もコロナ禍の煽りを受け今年は中止となった。湯の町山鹿の名物行事として定着することを期待していただけにやむを得ないこととはいいながら、ここで停滞は残念だ。コロナが一日も早く終息し、来年は第3回が開催されることを願ってやまない。


2018年4月 第1回山鹿をどりにおけるお練り。人力車に乗る本條秀太郎さんや京都の芸舞妓さんたち。


2019年5月 第2回山鹿をどり 会場の八千代座は満員の盛況


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市川崑監督 幻の名作

2020-05-18 18:59:51 | 映画
 行定勲監督が自身のフェイスブックに「菊池映画祭2016」における中井貴一さんとのティーチインの映像をアップされた。その時上映された市川崑監督の名作「その木戸を通って」に関連して、主演の中井貴一さんから市川監督の人となりや美的感覚、映像表現などについて貴重な証言があり興味深かった。僕は学生時代、市川崑監督の「東京オリンピック」の追加撮影にエキストラ参加した経験があり、当時のことを思い出しながら、なるほどと思うことが多かった。
 この「その木戸を通って」については11年前にその感想をブログに書いており、一部再編集して再掲してみた。

 市川崑監督(2008年没)の幻の名作と言われる「その木戸を通って」をやっとDVDで観ることができた。何しろ16年も前にハイビジョンで撮影され、BSで1回放映されたきりだったらしいが、昨年11月、初めて劇場公開されたものだが、熊本では劇場公開されなかったようだ。2002年に山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」を観た時、それまでに観た時代劇にはない新しさを感じたものだが、その約10年も前に、既にこんな時代劇を作っていた市川崑の凄さをあらためて感じた。原作は山本周五郎の短編小説。時代劇と言ってもチャンバラがあるわけでもなく、ある城勤めの武士と一人の女とのミステリアスな出逢いと別れを淡々と描いている。しかし、その格調高い叙情性と映像美には引きずり込まれてしまう。基本的には、この作品の5年ほど前に市川監督が作った「つる -鶴-」と同じ、男の永遠の願望である「鶴女房」型の物語だと思う。


映画「その木戸を通って」の中井貴一と浅野ゆう子
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肥後の苔寺とわが父

2020-05-17 20:40:13 | 
 明後日は父の没後20年。立田山へ墓掃除と墓参りに行った。三方を無縁墓に囲まれ、低木や竹笹に雑草が繁り放題でわが家の墓地にも侵入してくるのでまずそれらを排除するのが大変。おそらく無縁墓はどんどん増えていくだろう。
 父は明治44年、熊本県飽託郡黒髪村大字下立田(現在の熊本市中央区黒髪4丁目)に生まれた。そこは立田山麓、旧藩主細川家代々の菩提寺である泰勝寺の南側に隣接した地だった。泰勝寺を管理していた長岡家に幼い頃から伺候していた父にとって、泰勝寺は遊び場であり、勉強の場でもあった。父は7歳になるまでこの地で暮らした。僕が父に連れられてこの地を初めて訪れたのは昭和26年、5歳の頃だった。当時は人家もまばらな里山の雰囲気を残していたが、今では集合住宅などが立ち並び、あの頃の面影はない。
 墓参りを済ませた後、泰勝寺跡(立田自然公園)に立ち寄ってみた。コロナ騒動でしばらく休園していたが3日前から再開したという。受付で手を消毒した後、氏名と連絡先を聞かれた。四つ御廟へのお参りは今年は初めてだったかもしれない。細川家初代藤孝(幽斎)公夫妻と二代目忠興公とガラシャ夫人、それぞれの御廟に手を合わせ、コロナウイルスの早期終息も合わせて祈った。
 熊本地震以後、通れなくなっていた園内の歩道もほとんどが通行できるようになっていた。季節は初夏、緑も深くなり、茶室仰松軒の苔庭を眺めていると、かつて「肥後の苔寺」と呼ばれた泰勝寺の苔庭の美しさはいかばかりかと思われた。



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観音坂のはなし。

2020-05-16 18:30:07 | 歴史
 毎週土曜日の楽しみ「JIN -仁-」今日の再放送は第6話と第7話だった。ドラマの中に勝海舟や坂本龍馬が登場するのを見ながら、今から156年前、僕がいつも散歩をする観音坂を彼らが通ったことを思い出した。文久4年(1864)2月、勝海舟は坂本龍馬らを引き連れて熊本城下を訪れたことが「海舟日記」の中に記されている。海舟は幕府の全権を受け、長州攻撃を目論む米・英・仏・蘭の4ヶ国との交渉のため鶴崎から豊後街道を通って長崎へ向かう途中、熊本城下へ入った。観音坂は豊後街道の一部であり、必ずここを通ることになる。彼らはこの後、新堀御門から城内に入り、二の丸を通り抜け、新一丁目御門を通って新町の御客屋に入った。
 その4年前、万延元年(1860)10月には肥後細川藩11代の韶邦(よしくに)公が初入部しており、その様子を描いた大分県鶴崎剣八幡所蔵の行列絵図が有名だ。その中には観音坂を上る様子も描かれている。散歩しながら、歴史上の人物たちは何を見、何を思いながらこの坂を上って行ったのだろうという思いがわいてくる。


京町から内坪井へ下る急坂・観音坂


昔、上り口に観音堂があったことからその名が付いた。


万延元年十月韶邦公初御入部御行列画図・観音坂下の図(大分県鶴崎剣八幡所蔵)



大名行列の様子を唄った「肥後の殿様」
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千人灯籠おどりの中止

2020-05-15 21:19:06 | イベント
 予想はしていたものの、今年の山鹿灯籠まつりの目玉、千人灯籠おどりが新型コロナウイルス感染防止のため中止されることが決定した。やむを得ないことではあるが、熊本の代表的なまつりで国内外に人気があるまつりなので残念だ。なお、町衆の奉納灯籠や神事は規模を縮小して行われるという。
 昨年、テレビ東京で放送された「Youは何しに日本へ? 2時間スペシャル」でオーストラリアのクーマからやって来た山鹿市との交換留学生たちが、インタビュアーに「ランタンフェスティバル(山鹿灯籠まつり)が楽しみ」と答え、千人灯籠おどりの風景が紹介されたが、その時使用されたのが下の映像。2011年の千人灯籠おどりの様子だ。
 山鹿灯籠まつりといえば、毎年作成される鶴田一郎さんのポスターが欠かせないが、今年はどうなるのだろう。
 右は昨年度のポスター。

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一生に一度は善光寺詣り

2020-05-14 22:16:41 | 日本文化
 昨夜、BS朝日の「ザ!モノシリスト」という番組を見た。この番組は5名の出演者が自分の雑学知識をクイズ形式で出し、その後解説を加えるというバラエティ番組。昨日の話題の中で一番興味深かったのは、出演者の一人、青江覚峰というお坊さんが出した「真っ暗な状態になった時、人は最初にどんな動作をするか?」という話だ。青江さんは座頭市の例などを引きながら、人間はまず上を見上げると説明していた。人間は真っ暗な状態になるとまず光を探すのだが、光は上からさすものだとDNAに刷り込まれており、上の方に光を求めるのだという。そんな状況におかれた経験が無いのでその説が正しいのかどうかわからない。それに近い経験と言えば、番組の中でも話題になった信濃の善光寺のお戒壇巡りである。一度だけ行ったことがあるが、本来ならば死出の旅路の装束で「南無阿弥陀仏」と唱えながら巡るものらしいが、レジャーランドのお化け屋敷さながら、連れとキャーキャー言いながら巡ったような有様で、何かを悟るようなディープな体験にはほど遠かった。
 ところで熊本にもかつて善光寺があったことは今ほとんど知られていない。善光寺は仏の功徳随一ということで全国に勧請され、肥後国にも建武(14世紀)の時代に創建されていたらしい。今の熊本市中央区琴平本町にある琴平神社の所が善光寺の跡だ。琴平神社は善光寺の別所として江戸時代から存在していた。明治初期の廃仏毀釈によって善光寺は廃寺となり、琴平神社だけが残った。
 下の熊本民謡「ポンポコニャ」は江戸時代末期に作られたといわれるが、歌詞の中に「善光寺」が出て来るので、当時は広く知られた存在だったことがわかる。


信濃の善光寺

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