徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

3月の動画視聴ベスト10

2021-04-16 10:22:49 | Web
 YouTubeから4 月のクリエイター向け「マンスリー・ニュースレター」がメールで届いた。その中に「アナリティクスを見る」というボタンがあったのでクリックすると、YouTubeのチャンネル・アナリティクスのページが開いた。アナリティクスというのはアクセス解析サービスのこと。ふだんはあまりアナリティクスを見ることはない。開いたページに先月のチャンネル動画視聴ベスト10が掲載されていた。こんなランキングを見たのは初めてだ。それが下の図なのだが、これを見ると、どんな動画が見られているかがよくわかる。これからの動画投稿の参考にしたい。 


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今日は阿国忌

2021-04-15 21:10:22 | 歴史
 今日4月15日は「阿国忌」。阿国歌舞伎の創始者であり、今日の歌舞伎の祖とされている出雲阿国(いずものおくに)の命日とされている日。しかし、実際には生没年不詳で、お国の出自や経歴についても、確実な史料が少なくはっきりしていません。
 江戸時代初期に書かれた史書「当代記」には、慶長12年2月の出来事の中に「廿日、國と云かふき女、於江戸にをとる、先度の能のありつる場にて勧進をす、」と記述されています。この1週間前に観世・金春の勧進能が、江戸城本丸と西の丸の間に設えられた能舞台で行なわれており、「かぶき踊り」も同じ舞台で行なわれたことがわかります。しかし、その時の演目など具体的な内容はわかっていません。これが江戸歌舞伎の始まりで、その後、お国の模倣者たちが続々と江戸へ下りました。
 江戸城での勧進歌舞伎から3年後、加藤清正に招かれた阿国歌舞伎が熊本へやって来ます。江戸前期に書かれた「續撰清正記」によれば、太夫は「八幡の国」を名乗っていますが、この人物が江戸城で踊ったお国と同一人物かどうかはわかりません。ただ、「出雲阿国」という名前が定着するのは、ずっと時代が下ってからのことで、「八幡の国」というのは八幡社への信仰が厚かった清正公を慮って、熊本だけで名乗った名前だったのかもしれません。


出雲阿国(画:森田曠平)


 今から18年前、歌舞伎発祥の年とされている慶長8年(1603)から四百年を記念し、関西楽劇フェスティバル協議会が主体となって「阿国歌舞伎」の復元上演が京都で行われました。そのプロジェクトの中心メンバーでもあった歴史学者の笠谷和比古氏が、日経新聞に「阿国再臨 京の夜彩る」と題して寄稿した、阿国歌舞伎について分かりやすくまとめた解説をご紹介します。

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熊本と地震のはなし。

2021-04-14 16:03:26 | 歴史
 今日で平成熊本地震の前震から5年。熊本に大地震は無縁という思い込みが何の根拠もなかったことを思い知らされた。やはり歴史は勉強しておくものだとつくづく思う。
 10年ほど前、熊本城北側・不開門(あかずのもん)下の石垣にある補強工事の跡に違和感を感じ、市当局に問い合わせたことがある。市当局の回答は
 「昭和初期に城壁下部が膨らんできて崩壊の危険性があったため、当時の陸軍が応急的に補強工事を行なった所である。田尻市長(86.12~94.12)の時代に改修工事を行なうべく城壁内部等の調査を行なったが、城壁一部だけの改修で崩壊の危険性を防止することは難しいことが判明した。上には五間櫓や不開門等、国指定の重要文化財が乗っており、迂闊に手を出せない状態。妙案がないまま今日に至っている。」
 ということだった。
 これも過去の地震の影響によるものだったのだろうが、石垣は100年も前から、地震による崩壊の危険性の警告を発していたのだろう。今回の熊本地震で、石垣中心部の「V字崩壊」や石垣内部で免震の役割を持つと信じられてきた栗石の「液状化」とその圧力による「はらみ出し」などのことを知った。
 過去、熊本では次のような大きな地震が起きている。

  元和5年3月17日(1619.5.1)肥後・八代
  寛永2年6月17日(1625.7.21)熊本
  宝永4年10月4日(1707.10.28)熊本
  明治22年7月28日(1889)熊本
  明治27年8月8日(1894)熊本県中部
  昭和16年11月19日(1941)日向灘
  昭和50年1月23日(1975)阿蘇山北縁
  平成28年4月16日(2016)熊本
       ※参考資料:熊本県の歴史地震(今村隆正氏講演より)

 なかでも明治22年の熊本地震では、今回と同様、熊本城の石垣が大きく崩れている。そして不気味なのはその5年後に、震源は異なるものの再び熊本は地震に見舞われている。この時、ちょうど五高の教師として熊本(坪井西堀端)に在住していたラフカディオ・ハーンは友人の東京帝大教授バジル・ホール・チェンバレンへの手紙で「阿蘇が爆発して地震が頻発し、庭で夜を明かした…」と書き送っている。

 10年前、市当局が心配していた「五間櫓や不開門等、国指定の重要文化財」はことごとく崩壊した。自然の猛威の前には人間の思惑など儚いものである。


違和感のある不開門下石垣の補強工事跡(2011年頃)


ラフカディオ・ハーンの坪井西堀端の家の前にあった地蔵堂
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幸若舞「敦盛」についてのQ&A

2021-04-13 12:33:13 | 伝統芸能
 YouYubeにアップしている「幸若舞 敦盛」(下の動画参照)について次のようなおたずねが寄せられました。
【Q】
 これが幸若敦盛の正しい型なんですかね?桶狭間の戦いの前に信長公と濃姫が舞ったとされていますがこの映像に二人の姿を重ね合わせると胸が熱くなります。

 そこで、かつて各種文献などで調べたことを、自分自身の知識を整理する意味でまとめてお答えすることにしました。

【A】
 幸若舞とは室町時代前期、越前の桃井直詮(幼名幸若丸)によって始められたという曲舞(くせまい)の一種。いくつかの流派が生まれましたが、明治維新後、そのほとんどが途絶えました。唯一、筑後の大江村に伝わった「大頭流幸若舞」が辛うじて今日まで残っています。
 おたずねの織田信長が舞った「敦盛」は越前幸若舞と思われますが、今日伝わる大頭流幸若舞と同じなのかどうかは不明です。信長が「敦盛」を舞ったことが文献に見えるのは信長の近習だった太田牛一が、信長没後20数年経ってから著した「信長公記」のみといえます。
 「信長公記」の首巻に二ヶ所記述が見えますが、それは概ね次のような内容です。

 尾張の天澤という天台宗の高僧が所用で関東へ下る途中、甲斐國で武田信玄に会った。信玄は、信長の人となりをたずねたが、その中で、信長の数寄(風流の嗜み)をたずねた。天澤は「舞と小歌を好まれる」と答えた。信玄が「幸若大夫を呼んでいるのか」とたずねると天澤は「清洲の町人友閑という者を呼んでおられる」さらに「信長公は敦盛の一番しか舞われない。人間五十年下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、と謡いながら舞っておられる」と答える。

 もう一ヶ所は、永禄3年(1560)5月19日早朝、信長は鷲津砦・丸根砦が囲まれたとの臣下の注進を聞くと、「敦盛」を舞い始めた。「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と謡い舞った後、「法螺を吹け」「具足をもて」と命令。具足をすばやく身に着け、立ちながら食事をすると、兜を被って出陣された。この時付き随ったのは小姓衆五騎であった。

 信長と幸若舞に関する記述は上記のものしかないと思われます。映画やドラマにおいて、信長が「敦盛」を舞うシーンは能舞のように振付けられたり、濃姫の舞も脚色されたものと思われます。

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藤の季節

2021-04-12 22:18:53 | 日本文化
 桜が慌ただしく咲いてそして散って行ったかと思えばもう藤の季節。
 監物台樹木園の藤棚はどんな具合かと、通りがかりに受付のおじさんにたずねてみると、今年は咲きが悪いんだそうな。そういえばわが家の近くの道端に咲くヤマフジもほとんど咲いていない。遅れているのかそれとも今年は咲かないのか。
 今週は藤崎八旛宮の「藤祭」。藤崎宮鎮座の際、勅使が挿した藤の鞭に芽が生じ枝葉が繁茂したという言い伝えに由来する祭りである。 
 藤の花を詠んだ句を二つ

  念仏に季はなけれども藤の花(正岡子規)
  禰宜の子の烏帽子つけたり藤の花(夏目漱石)


2019年 藤祭(藤崎八旛宮)


はたして今年の咲き具合は?

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2021陸上シーズン開幕!

2021-04-11 20:14:57 | スポーツ一般
 トラック&フィールドの2021年シーズンが始まった。本来ならば今年はオリンピックイヤーだからもっと盛り上がるところだが、イマイチ気分が乗らない。熊本では毎年、「金栗記念選抜中長距離大会」でシーズンが始まる。今回は女子中長距離で日の出の勢いの田中希実選手が1500mに出場するので見に行きたかったが、ライブ配信があるというので家で観戦することにした。予想どおり、他選手を圧倒するラストスパートを見せつけた。大会新こそならなかったが、シーズン初めとしては上出来の快走といえるだろう。
 来月初めには「熊本県陸上選手権兼国体一次予選」も控えており、県内のアスリートたちの中からもオリンピアンを目指すニュースターが出現してほしいものである。
※写真は優勝した田中希実選手と後方は2位の卜部蘭選手
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熊本地震から5年

2021-04-10 21:07:32 | 熊本
 まもなく熊本地震発生から5年が経過します。(前震:4月14日、本震:4月16日)
 復興のシンボルとされている熊本城天守閣は修復工事が終わり、26日から一般公開が始まりますが、復興はまだまだ道なかば。手付かずのままの重文建造物群の解体・復元工事や広範囲にわたる崩落石垣の積み直しなど、厄介な工事がこれから始まろうという段階です。完了するのは20年後ともいわれています。
 民生の方を見ましても、18万人を超えていた避難者は徐々に減りましたが、現在もまだ9000人近くの方が不便な避難生活を強いられているといわれます。しかし、一方では既に風化が始まっており、民生の復興にはまだまだ時間がかかりそうです。

>> あれから5年 <<


地震から2ヶ月後の天守閣の様子。鯱鉾や瓦が落ちるなど痛々しい姿の大小天守。(2016年6月17日)


修復工事もほとんど終わり、天守閣は地震前と同じ雄姿を見せている。(2021年3月23日)



地震で崩れ落ちたマンション。(2016年4月18日)


マンションは解体撤去され、跡地には和食系外食店が。(2021年4月10日)
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「よかよか」はなし。

2021-04-09 21:08:09 | 日本文化
 今週末の中央競馬、春のGIレース「桜花賞」に熊本県産馬の「ヨカヨカ」(3歳牝馬)が出走する。競走馬の98%が北海道産で、九州生まれの競走馬が中央競馬の重要なレースで走ること自体が珍しいといわれるなか、「ヨカヨカ」はこれまで快進撃を続け、ついに最高の舞台に昇り詰めた。いよいよ11日、「ヨカヨカ」は熊本県民の夢を乗せて走る。



 ところで「ヨカヨカ」というのは熊本や九州各地で「よしよし」という意味で使われる言葉だが、元はと言えば、「よい」の連用形「よかり」がつづまった言い方。だから「よか」というのは九州以外の地域でも使われる。一例をあげれば、明治から昭和初期にかけて関東一円で見られた「ヨカヨカ飴屋」という飴売りは九州由来というわけではない。明治から昭和にかけて活躍した作家・長谷川時雨が、同じく作家の田沢稲舟のことを書いた短編に次のような一節がある。明治24年頃の神田神保町の風景を描いているようだ。

 書生たちが見おろしていたのは、ヨカヨカ飴屋が来ているからだったが、飴屋は、錦子を見ると調子づいた。
 ヨカヨカ飴屋は二、三人連れで、一人が唄うと二人が囃した。手拭で鉢巻きをした頭の上へ、大きな盥のようなものを乗せて、太鼓を叩いているが、畳つきの下駄を穿いた、キザな着物を東からげにして、題目太鼓の柄にメリンスの赤いのや青いきれを、ふんだんに飾りにしている、ドギツい、田舎っぽいものだった。
 ドドンガ、ドドンガと太鼓を打って、サイコドンドン、サイコドンドンと囃した。錦子が通ると錦子に呼びかけるように、
 ――お竹さんもおいで、お松さんも椎茸さんも姐ちゃんも寄っといで。と
いやらしく言って、
 ――恋の痴話文ナ、鼠にひかれ猫をたのんで取りにやる。ズイとこきゃ――と一人が唄うと、
サイコドンドン、サイコドンドンとやかましく囃したてた。

     ▼サイコドン節の熊本バージョン「肥後の俵積出し唄」
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マンボ・イタリアーノ

2021-04-08 21:41:44 | 音楽芸能
 おエライ先生方が盛んに「マンボウ、マンボウ」とおっしゃっていたが、ちょっとふざけた感じとか、漁業への風評被害につながりかねないとかクレームをつけられると途端に「マンエンボウシ…」とおっしゃり始めたようだ。
経過を見ていると滑稽そのもの。別に茶化すわけじゃないが、ついつい僕らの若い頃流行ったラテン音楽の「マンボ」を連想してしまう。なかでもソフィア・ローレンが出演したイタリア映画「殿方ごろし」における「マンボ・イタリアーノ」のダンス場面を思い出す。

 今日はオリジナルのローズマリー・クルーニーのバージョンを聞いてみた。


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藍の海

2021-04-07 15:13:31 | 熊本
 先日の熊日新聞に、舞踊団花童が上天草市のPR特命大使に就任したというニュースが載っていた。上天草市は天草四郎「生誕400年」記念事業の一環として、天草四郎ミュージアムで2018年から定期公演を行っている舞踊団花童に、上天草市が四郎生誕の地であることの情報発信を期待しているようだ。花童には「藍の海(川原一紗 作曲)」という天草四郎をテーマにした舞踊もあり、上天草市のイメージアップにつながれば喜ばしいことだ。

 上天草市の中で最も熊本に近い大矢野島はわが亡父にとって思い出の地。昭和10年頃、まだ20代なかばの父が赴任した上村小学校(現 上小学校)の思い出を書き残しているが、貧しい家の少女たちが、中国や東南アジアなどに売られて行った「からゆきさん」の風習が残っていたことやクラスの4分の3の生徒が弁当に「かんちょ(さつまいも)」を持ってきていたことなどを書き記している。
 また、わが家の十五代の先祖が細川忠利軍の一員として島原の乱に従軍し、戦死しており、上天草市はわが家にとって因縁の深い土地でもある。




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