津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■元禄十二年三月六日、北の関より山名重左衛門宛綱利書状

2023-03-06 07:14:38 | 歴史

       大君綱利君于山名十左衛門賜書写
          今朝南関江旅行北関至先年其方義藤田父子
          令誅戮無比類働申場所今見様存候其邑
          老村女マテ感心申候天下静謐ノ節家老職
          其方ヲ持申事世上無上稀有之事ト存候謹言
             三月六日   越中 綱利 御判
                      山名十左衛門殿

先に綱利の参勤出発の日は三月四日が多いとご紹介した。
上の文書は元禄十一年(1698)のもので、この年も同様に四日の出発だが珍しく豊前街道を始めて通っている。
五日は山鹿に泊まり温泉を楽しんだのかもしれない。そして25年ほど前、山名(三淵)十左衛門が藤田助之進父子を柳川藩領の「北の関」で誅伐した場所に至り、感激の躰で文を認めて送っている。
三淵家は家祖・幽齋公の実方の家である。弟・好重を初代として十右衛門・重澄は4代目である。妻は松井寄之(忠興6男)女・国である。
この事件は、従兄弟の前川勘右衛門の婚約問題のもつれに端を発して、離国する相手方の藤田助之進父子と山名(三渕)一族の誅伐事件である。
熊本の島田美術館の前館長の島田真祐氏は、この事件を宮本武蔵と絡めて小説「身は修羅の野に」をものにされた。

事件の大意は細川綱利自らの家譜に詳しい。

   延寶元年癸丑(1673)七月廿三日前川勘右衛門重之筑後國北関ニテ藤田助之進父子ヲ討果ス 是ヨリ先キ両人江戸在勤ノ節助之進
   娘ヲ
勘右衛門妻ニ遣シ度由ニテ粗其約ヲ固メシカ歸國ノ後前川一類ノ故障ニテ破談セシカハ助之進コレヲ恚ミ悪口セシヲ勘右衛門
   聞テ討果スヘシト云遣ス 助之進ヨリ噯ヲ入レ一旦和觧ニ及フト雖共勘右衛門噯ニ託シ臆シタリトノ唱ヲ受終ニ暇ヲ請フ 七月十九
   日願ノ通暇ヲ遣ス 依テ従兄弟山名十左衛門重澄カ知行所山鹿郡高橋村ニ退去ス 藤田モ同日暇ヲ取ラセタレハ同人
本國播州へ歸
   ラントテ縫殿助ヲ初メ妻子家従ヲ纒メ七月廿三日南関口ヨリ出ル時前川カ許ニ人ヲ遣シテ若意趣ノ言フヘキアラ
ハ北ノ関ニ相マチ
   テ面決セント言贈ル 十左衛門ハ藤田カ立退ク由ヲ聞付テ前川カ許ニ馳付ケ此事ヲ聞キ前川ト共ニ藤田ヲ追
テ北関ニ至リ先ツ使ヲ
   以テ藤田ヲ留ム 藤田丘ノ上ニ在テ主従十人計鉄炮ヲ構へ待懸ル 前川カ家士西郷祐道其子平十郎壻諸左
衛門山名カ家来加々美横平
   主ノ矢面ニ立ツヘシトテ砂烟ヲ蹴立抜連テ蒐ル 藤田主従一同ニ炮發セシカハ祐道諸左衛門砲玉ニ
中テ伏ス 平十郎肩先ヲ討セ少
   モヒルマス進ミ戦フ 十左衛門此隙ニ岸陰ヨリ跳上リ鑓ヲ擧テ助之進ヲ突伏セ其方先頃士蓄生
ト悪口セシハ武士ニ似合サル雑言ナ
   リ真ノ武士ノ擧動斯ノ如シ 山名十左衛門見知リタルカト喚リテ止メヲ刺ス 縫殿進馳セ
来リ左ノ方ヨリ拂切ニ切付シヲ弓杖一丈
   計リ飛徐ケル時家来共押隔散々ニ戦フ十左衛門又討テ蒐リ縫殿ヲモ突留ル 藤田カ家来
皆働キテ死ス 此日申刻ヨリ事始リ酉下刻
   ニ場ヲ揚ク 山名カ手ニ討死一人手負八人前川カ手ニ討死三人手負二人アリ其後勘
右衛門所々漂泊セシカ翌三月豊後臼杵城主稲葉
   右京亮ヲ頼ミシニ右京亮懇ニ待遇アリシカ八月晦日勘右衛門密ニ家来ヲ本意ヲ
告ケ自殺セリ 十左衛門ハ追々知行五千石ニ至リ家
   老職トナル 元禄十一年三月綱利旅行ノ節北ノ関ヨリ十左衛門ニ書ヲ與フ
 
其略ニ曰先年藤田父子殺戮働ノ場所今見ルカ如シ心ナ
   キ邑老村女マテ感心セリ天下静謐ノ時家老職ニ其方ヲ持スル事世上希有
リト云々

お時間がある方は以下をお読みください。 

北関始末實記・・その1    

北関始末實記・・その2

北関始末實記・・その3

北関始末實記・・その4

北関始末實記・・その5

北関始末實記・・その6

北関始末實記・・その7

北関始末實記・・その8

北関始末實記・・その9

北関始末實記・・その10

北関始末實記・・その11

北関始末實記・・その12

北関始末實記・・その13

北関始末實記・・その14

北関始末實記・・その15

北関始末實記・・その16

北関始末實記・・その17(追加-1)

北関始末實記・・その18(追加-2)

 

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