津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

北関始末實記・・その16

2009-11-22 20:15:11 | 歴史
  勘右衛門自刃・・・思いがけない結末

  此程ハ諸方を流浪して大敵を持たる身なれ者
  用心にハ臆病なるかことく心ハ剛なれとの傳に任せ長崎を出し
  以来各姓名を改勘右衛門ハ佐山宗宅と改惣髪二なり筑波少助ハ下
  田弥兵衛市野権内ハ守田三太夫瀬戸源七ハ高木甚兵衛と相改む
  三月十一日之晩方より臼杵より迎之船三艘参り一艘ハ勘右衛門乗船に侍
  拾人乗来り弐艘ハ用心船にて足軽大将壱人宛に大筒小筒の足軽拾
  人宛乗来り濱ノ手裏御門より入られ御城内ハ足軽大将組の足軽を率
  し取かこみてそ入にけり御城内稲葉右京亮景通君御家督御入城之
  年にて候処に如此の武功の他国者御家を頼入来り殊ニ肥州ハ御縁の御国なれ者

  景通君不斜御悦也御馳走ハ云に計りなし昼夜四度宛の御饗応
  御料理美を尽され御家老後藤市郎右衛門に御預けにて万端心を付
  可申旨被仰付馳走人ハ中小姓三宅甚左衛門徒故障武雄富左衛門其外料理方
  壱人荒仕子五人所々之番足軽六人交代して相勤る小遣に坊主壱人昼夜
  被詰る勘右衛門被召置候所ハ御城二ノ丸也
一、三月十六日景通君ハ勘右衛門被召置候所に御入被成御懇意の御意也當地
  者何之支もなき事緩々と暮さるへし先に成てハ又住所之宜敷所ニも移
  すへし不自由ニも可有なれ共先々心安ク落着可被居殊に細川家訳之
  有る衆なれ者よ所と可見様なしと身に余りたる有難き御意成り源七小助
  権内三人之者共をも被召出御目見へ被仰付御直の御意に何連も去秋ハ
  不慮之殊能取合せ働候段御聞被成御感心被成候段御直に詳成御意
  冥加之至たり中にも森田三大夫下田弥兵衛か其節の働高木甚兵衛
  前後之智勇別而夫々に御意にて御感心被成候御一老之粟屋五右衛門

  を始御家老列座にて五右衛門右三人か働き其後勘右衛門方々被仕候内
  之奉公之儀御取合せ被申候へハ其後段々御懇意云盡しかたし
  かくて其年も暮翌年に成り春過夏立て秋も半過る頃或夜
  勘右衛門源七ニ語りけるは/人間ハ皆一度ハ死せて不叶殊珍からす
  我等如此安楽に被召置御厚恩難有事身に餘り海山共天地共云
  舌にかないかたしされとも去秋以来の事をつくづく思ふに人間一生
  夢のことくなる世の中に去秋はあまたの人を殺し其上に身の置所なき
  まゝに諸方を流浪し一類中の心遣にも成其方共迄艱難を懸る事
  我々身つの無分別故なり只今者當地殿様の御恩にて身一つ
  者安楽なりといへともまた例の敵ともうかがひ来り當御地殿様の
  御心遣ニも罷成事なとあらハ迷惑無此上候得者あはれ早く病死
  にてもいたし度事也
/とよその様に咄にて其よる八月晦日自害して夜
  着引かふりて臥して有三人の家頼共驚ひて早々此段を後藤市郎

  右衛門方へ相達す景通君へ早々達御耳乍上何とそ療治の仕様ハ有
  間敷かと被仰出候市野権内は此事達のため八代江早々罷越ス勘右衛門
  死骸を者臼杵の御城下の法花寺に葬送し普光院浄心居士
  と号す一七日に當ル日法花寺にて勘右衛門茶湯被仰付茶湯料御施
  被成後藤市郎右衛門に御代番被仰付相勤申候
一、右相済候て源七小助を御前へ被召出御懇意之御意にて後藤市郎
  右衛門相伴にて御料理被下候て被仰出候は源七・小助・源内とも直に
  當地に御留置度思召候得とも八代佐州より用事有の候間先々返し
  可申旨申来候に付被差出筈に候被下江被仰遣筋も有之候間無程
  又御逢可被成との御意なり御次にて道中着に可仕旨にて御紋付
  ちりめん袷羽織同小袖被為拝領道中要用として白銀五枚宛被為
  拝領候市野権内ハ先達而八代江罷越居合不申候二付源助手前より
  右拝領の品々相渡す
一、勘右衛門遺骸法花寺にて火葬仕遺骨者源七・小助持帰り
  菩提所禅定院へ納なり
一、瀬戸源七・市野権内・筑波小助肥後江着姓名を本名に復し
  右三人の者共ハ長岡佐渡・山名十左衛門召仕可申旨肥後太守君より被仰
  付両家江仕イ候なり

            北之関實録終

  実は未だ完了していません。追加なる記事が4ページほど残されています。これを終わらせて完了とします。
   現在の進捗率90%といった所です。

  
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