津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■松平春嶽夫人来熊、御母・顕光院様御見舞も御逝去

2024-07-20 13:38:31 | 歴史

 今日は熊本史談会例会で、会員の田邊元武氏が「細川家砂取別邸の江津花壇から熊本県立図書館への歴史 」を取り上げられる。
その主題となる場所こそが、かっての細川家砂取別邸のあった場所である。
そして奇しくも今日という日は、その屋敷の主であった顕光院(細川齊護夫人・浅野安藝守齊賢女益姫)が亡くなられた日である。
娘の勇姫(松平春嶽夫人)が江戸から汽船に乗って来熊し、生母の御見舞の誠を努めて熊本を離れた翌日に死去された。
そして報を受けて途中で引き返されている。葬儀のご様子は知る由もないが、勇姫様は最後のお別れをされることになる。
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大名夫人の江戸定住は「大名證人制度」の名残だが、文久年間には参勤交代と大名夫人の江戸定住が緩和され、夫人たちは帰国することになる。
肥後藩も同様で、まず故・斎護夫人顕光院と長男(慶前)室・鳳臺院が駕籠を前後にして帰国した。
顕光院は安藝浅野家のご出身だから帰国途中に実家に立ち寄られている。
その後、韶邦室・峯姫が数日遅れで帰国、藩では南関口に郡代・中村庄左衛門が出迎え、お伴の女中衆が驚くような歓待ぶりであった。
夕暮れの道には赤々と松明がもやされ、これも一同を驚かせている。
顕光院と鳳臺院は二の丸御殿、峯姫は花畑邸に入られた。のち、顕光院は砂取別邸、鳳臺院は二本木邸に移られる。
顕光院の最晩年、娘の勇姫がお見舞いの為に来熊されたが松平家の記録に一連の勇姫様の行動が書き残されている。
以前にもご紹介したが再掲する。

一、五月廿八日御簾中様御儀本日午前第七時真崎御邸御発車、白川県下熊本表江御出立被遊候、正二位様御同車新橋停車場迄御見送被遊候、正四位様・
   御前様・信次郎様・細川正四位様・細川従四位様・津軽従四位様神奈川駅迄御送被遊、藤沢御泊迄中根新被遣、 明朝之御発駕見上ケ罷帰、御機嫌
  奉申上候 但シ東海道通り神戸御乗船、下之関江御着船、夫小倉へ御渡り、陸通り熊本表江御着被遊候 正二位様より左之御哥被進相
成候 君のかへり
  給ふを    としゆきてとくかへりませ何となくいまたわかれの袖のむら雨

       朝な夕な我菴崎に待乳山ひとり千秋のこちこそすれ
一、六月五日御簾中様御道中無御滞、本日熊本県江御着被遊候旨電報 相達候条、細川様御直書ヲ以被仰進、御安慮被遊候
一、七月六日 細川正四位様御家従板垣信康 右熊本県昨日着、顕光院様・御簾中様より之御伝言旁、尚御 機嫌為申上出頭
一、七月十日熊本表電報、顕光院様御容躰去る九日朝より余程御不出来故、御簾中様御発途御日延相成候旨、委細御使者ニ而被仰越 候旨被仰遣候
一、七月十八日熊本表より御家従山田喜一と申者到着参上、顕光院様御容躰委細申上、且御簾中様御発駕御日延御願被遊候条言上、御両君様御同坐御
  取被遊候

一、七月十九日御簾中様御儀、本日熊本表御発駕被遊候旨電報相達候
一、七月廿日熊本表之電報細川様為御知 顕光院様近日御快ニ付、去ル十九日御簾中様御発途被遊、其後幾許之御不出来ニ而極々御気遣ニ寄、細川御両所
  様ニも為御看 病急々御下県御願相成り候ニ付、御簾中様にも御引返し願置候 との御主意ニ候 同日六時到着熊本より之電報細川様為
御知 顕光院様御
  儀十九日午後五時過俄之御不出来、廿日午前一時 御縡切恐入候ニ付、細川御両所様速ニ御下県奉願候条、御簾中様ニハ御途
中より御引返シ被遊候御
  儀、佐野久電報ヲ以申上 候 顕光院様御様子御替り、依而御途中御引返被遊候ニ付、御日延御願御差出可相成様との御
事也

 

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