津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■北の関事件、藩主の裁定

2017-02-01 08:58:08 | 熊本地震

 筑後領北の関で、前川勘右衛門とその助っ人が藤田助之進一家を誅罰するという事件が起きたのは、延宝元年七月二十三日である。
縁談のもつれというなんともしまらない原因だが、名門三渕家(前川家)の面目を立てるための私闘ともいえる。
延宝二年二月一日藩主綱利は、「この事件は法のてらすべきものなきため、既往は咎めざるも向後は注意すべし」と諭したという。
三渕家は細川藤孝(幽齋)の実家である。細川家に連なる一族の不祥事だから、このような大甘の裁定となってしまう。

この事件は他藩領で行われ、勘右衛門の従弟・山名十左衛門(三渕家三代)が加勢の為徒党を組んで南関の関を押し通り、そして鉄炮を放つなどの大乱闘が在った。法に触れていることは明らかである。
そして当の勘右衛門は藤田一族の復讐を恐れ逃げ延びた臼杵の地で八月晦日自殺している。(23歳)。一族の面目が一人の若者を死に至らしめた。
十左衛門の妻は松井寄之(細川忠興末子)女であり、有吉家・薮家・谷家などの細川家有力家臣が縁戚に連なっている。
筑後藩に対しての後始末が大事であったと思われるが、二月一日綱利のこの言葉を以て落着とした。
十左衛門は後に家老に列している。 

事件の大意は細川綱利家譜に詳しい。
   延寶元年癸丑七月廿三日前川勘右衛門重之筑後國北関ニテ藤田助之進父子ヲ討果ス 是ヨリ先キ両人江戸在勤ノ節助之進娘ヲ勘右衛門妻ニ
   遣シ度由ニテ粗其約ヲ固メシカ歸國ノ後前川一類ノ故障ニテ破談セシカハ助之進コレヲ恚ミ悪口セシヲ勘右衛門聞テ討果スヘシト云遣ス 助之進
   ヨリ噯ヲ入レ一旦和觧ニ及フト雖共勘右衛門噯ニ託シ臆シタリトノ唱ヲ受終ニ暇ヲ請フ 七月十九日願ノ通暇ヲ遣ス 依テ従兄弟山名十左衛門重
   澄カ知行所山鹿郡高橋村ニ退去ス 藤田モ同日暇ヲ取ラセタレハ同人本國播州へ歸ラントテ縫殿助ヲ初メ妻子家従ヲ纒メ七月廿三日南関口ヨリ
   出ル時前川カ許ニ人ヲ遣シテ若意趣ノ言フヘキアラハ北ノ関ニ相マチテ面決セント言贈ル 十左衛門ハ藤田カ立退ク由ヲ聞付テ前川カ許ニ馳付
   ケ此事ヲ聞キ前川ト共ニ藤田ヲ追テ北関ニ至リ先ツ使ヲ以テ藤田ヲ留ム

   藤田丘ノ上ニ在テ主従十人計鉄炮ヲ構へ待懸ル 前川カ家士西郷祐道其子平十郎壻諸左衛門山名カ家来加々美横平主ノ矢面ニ立ツヘシトテ
   砂烟ヲ蹴立抜連テ蒐ル 藤田主従一同ニ炮發セシカハ祐道諸左衛門砲玉ニ中テ伏ス 平十郎肩先ヲ討セ少モヒルマス進ミ戦フ 十左衛門此隙
   ニ岸陰ヨリ跳上リ鑓ヲ擧テ助之進ヲ突伏セ其方先頃士蓄生ト悪口セシハ武士ニ似合サル雑言ナリ真ノ武士ノ擧動斯ノ如シ 山名十左衛門見知リ
   タルカト喚リテ止メヲ刺ス 縫殿進馳セ来リ左ノ方ヨリ拂切ニ切付シヲ弓杖一丈計リ飛徐ケル時家来共押隔散々ニ戦フ十左衛門又討テ蒐リ縫殿
   進ヲモ突留ル 藤田カ家来皆働キテ死ス 此日申刻ヨリ事始リ酉下刻ニ場ヲ揚ク 山名カ手ニ討死一人手負八人前川カ手ニ討死三人手負二人
   アリ其後勘右衛門所々漂泊セシカ翌三月豊後臼杵城主稲葉右京亮ヲ頼ミシニ右京亮懇ニ待遇アリシカ八月晦日勘右衛門密ニ家来ヲ本意ヲ告ケ
   自殺セリ 十左衛門ハ追々知行五千石ニ至リ家老職トナル 元禄十一年三月綱利旅行ノ節北ノ関ヨリ十左衛門ニ書ヲ與フ 其略ニ曰先年藤田
   父子殺戮働ノ場所今見ルカ如シ心ナキ邑老村女マテ感心セリ天下静謐ノ時家老職ニ其方ヲ持スル事世上希有リト云々

お時間がある方は以下をお読みください。 

北関始末實記・・その1    

北関始末實記・・その2

北関始末實記・・その3

北関始末實記・・その4

北関始末實記・・その5

北関始末實記・・その6

北関始末實記・・その7

北関始末實記・・その8

北関始末實記・・その9

北関始末實記・・その10

北関始末實記・・その11

北関始末實記・・その12

北関始末實記・・その13

北関始末實記・・その14

北関始末實記・・その15

北関始末實記・・その16

北関始末實記・・その17(追加-1)

北関始末實記・・その18(追加-2)

 

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