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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

二代目・庄林隼人とその枝葉

2009-11-14 13:46:22 | 歴史
 初代庄林隼人・一心は、懐妊中の加藤清正妾を継室として迎えている。清正の命により、朝鮮で戦死した加藤(山口氏)与三右衛門の子太郎平に、清正妾が産んだ女子を娶わせ養子とした。二代目隼人・一方である。姉のおこうは、水俣城代で清正の養子・百介に嫁ぎ「若上」と呼ばれたという。百介は清正の継嗣忠広が生まれると加藤家を辞して、京都に帰ったらしい。おこうは熊本に残り水俣城代を継いだ中村将監に再嫁した。娘は下津棒庵の息・将監に嫁いだ。縫殿の生母である。

 その二代目隼人は、幼いとき父与三右衛門と死別した為、清正の従兄弟・中村壽林に養育され中村太郎平と称したが、庄林氏養子となってから豊後守を名乗った。処が忠広の息が豊後守を名乗ったため、伯耆守に名乗り替している。細川忠利が肥後入国した翌年、寛永十年召し出されて六千三百石を拝領した。そして再度名をかえ隼人佐としたとされる。伯耆守の名乗り替えは、忠利臣日下部与助(本姓志水氏)が伯耆守を名乗ったことによるらしい。

 隼人女お犬は矢部城主・加藤越後守に嫁いでいる、娘は伊丹角助に嫁いだ。いま一人の女お百は松野亀右衛門室となった。娘は大塚喜兵衛に嫁いだ。
 
 三代目・隼人一吉は忠興が亡くなった翌年、正保三年扶持を放され熊本(八代)を離国している。妻は志水伯耆(日下部与助カ)の女・ おさな名 菊である。娘いつは伯耆の元に預けられ、後・緒方平左衛門に嫁いだ。いつの弟、一信が太郎平を幼名とし後隼人を名乗り四代目となる。
                       (以上出典・庄林氏由来)

 細川家家臣・庄林氏の先祖附をみるとかなりの齟齬がある。推測するに初代隼人に娘があり結婚の後庄林氏を名乗ったのではないのか。何所まで「庄林氏由来」に近づくことができるか精査してみたい。
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