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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■遠坂越後の残念な一件

2019-05-21 09:18:43 | 人物

 先の記事に登場した遠坂関内の初代が遠坂越後である。田邊城に籠城し勇名をはせた。

            遠坂助左衛門(関内・越後) 【田辺城籠城】 
                (1)馬廻組六番 千五百石 (於豊前小倉御侍帳)・・越後
               (2)御馬廻衆・頭 五百石 (肥後御入国宿割帳)・・越後

               丹波国物部之地侍にて、河北石見か甥なり、忠興君、荒木山城に被仰候ハ、
               若不慮之儀有之節、御見方をも仕、御用に立可申もの御隣国に有之候ハゝ、
               承立候へとの御事ニ付、丹波のはそうち村ニ、遠坂助右衛門と申す者、自然
               の御用にも立可申と申上候ゆへか、丹波御通之節、助右衛門宅江御立寄、
               自然之儀候ハゝ、御用をも御頼被成度旨にて、連々之御懇意有難く候間、心
               の及勤上可申旨、御役諾仕、夫より御出入仕候 田辺江人数押よする風聞
               承候間、則田辺へ申上候は、忠興君江御契約申上候筋御座候間、一門之者
               共并諸浪人内々手ニ付候もの数多居申候、後詰又は兵粮の御用等候ハゝ、
               御城に入可申哉と申上候、依之田辺への御使、森三左衛門を中宿させ、御城
               にも手引して入れ、又関東江差下候、此様子粗敵方へしれ、押寄るなといふ沙
               汰有しかハ、其内に関原落去、寄手退散し、事故なかりし也(中略)
               田辺の様子を助右衛門方より家来、上原長寿と申ものを以て、忠興君江御注
               進仕候、赤坂御陳所にて、書付差上候、長寿を御庭江被召出、様子御尋被成、
               今度助右衛門、御忠節之儀、御満足被成候、則御感状被下候間、慥二渡候様
               ニと被仰付候 (中略)
               其後関ヶ原御合戦御勝利、幽斎君は亀山に御移被成候付、忠興君は直に福知
               山江御よせ被成候時、御立寄候へは、御膳を差上候、城攻にも、御人数ニ被加
               罷越候 豊前御拝領ニ付、助右衛門儀御知行千石にて可被召出旨、被仰出候、
               住所立去申儀迷惑ニ候段、御断申上候へとも、今度之御忠節被捨置かたく思食
               候間、先千石にて罷越可申由ニ付、豊前江相越、関内と名改申候
               其頃竜王の御城を妙庵主江御預被成候、御病気に御座候間、関内竜王江罷越、
               支配可仕旨ニ而、御加増五百石被下、名を越後と改可申旨、仰付られ、御持鑓
               拝領、自然の時に此鑓を枕にして、討死仕候得と、御意被成候、此鑓今に所持、
               竜王城御解被成候時、又小倉江罷越候
               肥後にて御番頭、寛文十一年病死

 一方この越後に不名誉な話が残っている。(熊本県史近世編一・p570)寛永八年のことと推察される。

                   猶/\只今進上仕候飛脚両人之内一人ハ小倉江用之儀
                 御座候而直ニ罷下候へと申付候已上

               追手申上候大つほね娘米を遠坂越後かたき書物を仕于今返
               弁不仕候由不便ニ思召候通余儀もなき儀共ニ御座候沙汰の
               限千万無申斗儀ニ御座候我等存可申与可被思召段迷惑仕候
               然とも少も不存候加様之儀御耳ニ立候迄滞候儀我等不念な
               る故ニて御座候無御存知分ニなされ候様仕度奉存候則借状
               之通當年中ニ急度取立可申候家中之きつかけニ罷成義ニ而
               無御座候惣別越後儀物毎さ様之生つき成候ものニて御座候
               と見へ申候是非もなき儀我等まて迷惑仕候以上
                 十月二日                (忠利)
                   貴田半左衛門殿

ここにある大つほね(大局)とは三齋の乳母であり、その娘が遠坂に貸した米がいつまでも返してもらえず、三齋に泣きつき、三齋はその解決を忠利に依頼したものである。泣きつかれた三齋の「我等も迷惑」が偽らざる気持ちであったろう。
1,500石も拝領していた越後が何でこのような事態になったのか不思議にも思えるが、こうした書状が後世まで残りまことに不名誉な事ではある。
三齋が忠利に「沢村大学が50石借米し(年4割・複利)で18年(実・19年)で29,880石になって居り、お前から催促するように」と書いた下記書状の後半部分に、この遠坂越後の一件が引用されている。
                                  
                                        

下段部分に「大つほね娘米を遠坂越後かり候時申候ことく」とあるように、この越後の事を引き合いに出し、沢村大学を叱責している。
越後のことは寛永八年十月、沢村大学に関するこの書状は寛永十年七月であるから、越後の一件が沢村大学叱責の引き金になっているように思える。

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■御侍帳・家紋から考える(7)

2019-05-21 07:28:01 | 史料

                                              

   ■芳賀玄琢は御医師「芳賀玄淳 (南東57-2 医)」家の4代目である。
   家紋は「三つ矢筈」

  ■伴 宇七郎は「細川家家臣略歴」には見当たらず、先祖附もない。「肥陽諸士鑑」には父・祖父の名前が見える
   家紋は「丸に木瓜」

  ■原田理兵衛は200石「原田小平 (南東7-3)(南東5-23)」家の6代目である。
   家紋は「鉄線」と「地紙」「肥陽諸士鑑では「扇」「地紙」「丸に鉄線」が紹介されている。

  原田弥三郎は丹後以来の家「原田次郎八(南東6-13)(南東5-29)」家の10代目・弥三郎(専右衛門)、二百五十石で晒浦御番を勤めた
   家紋は「丸に釘抜き」

  ■原田作兵衛は「原田新作(南東6-3)(南東5-38)」家の6代目・安九郎(養子 作兵衛)150石である。
   家紋は「丸に軍配」か

  ■原田常之允は「原田弥右衛門(南東63-41)」家の3代目で芦北郡代などを勤めた。
   祖父・宗昆の弟(6男)は高本家に入る。時習館三代目教授、儒学者、肥後国学の祖、高本紫溟である。
   家紋は「丸に?」

  ■原田専助は「原田穂内(南東7-9)(南東5-5)」家の6代である。
   家紋は「隅切り角に丸ちきり」「隅切り角に柏」

  ■原田十三郎は「原田十次郎(南東6-16)(南東5-7)」家の7代目で200石、初代・十次郎は忠利公に殉死した。
   家紋は「井桁」

  ■原田丹蔵は「原田丹蔵(南東6-18)(南東5-33)」家の何代目であるか特定できず、3・4・5・9代が同名である。
   家紋は十三郎と同様「井桁」

  ■速水市郎兵衛は「速水才十郎 (南東7-15)(南東5-44)」家の5代目・才十郎(市郎兵衛)300石である。
   家紋は「丸に一文字」

  ■速水幾太郎は代々御中小姓の「速水八郎次 (南東7-18)(南東5-41)」家の7代目、代々剣術師役の家である。
   家紋は「隅立て角に地紙」

  ■羽野勝兵衛は「羽野源七郎(南東7-18)(南東5-63)」の7代目で、阿蘇の財津組に属する。
   家紋は財津氏と同様「州浜」である。財津氏一族か。

  ■服部市大夫は「服部源次 (南東7-21)」の5代目である。「市郎平」とも名乗る。
   家紋は「鞠挟み」

  ■橋本寿勝は御船頭「橋本勘左衛門(南東5-64)(南東58-2 船)」家の7代目である。
   家紋は「丸に酢漿草」

  ■西山大衛足利将軍家の後胤「西山大衛(南東8-1)」家の 7代目・九郎兵衛(大衛)千百石である。
        享和元年十二月(比着座)~享和元年十二月 留守居番頭
        享和元年十二月~文政十二年二月 番頭
        文政十二年二月~天保六年四月(病死)御留守居大頭

   家紋は足利将軍家の「五三の桐」「丸に二つ引両」である。

  ■西郡又右衛門は丹後以来の「西郡淳平(南東8-7)」家の7代目である。
   家紋は「羽団扇」

  ■西沢太郎右衛門は「西沢弥平太 (南東8-2)」家の5代太郎次(太郎右衛門)である。 
   家紋は「蛇の目」

  ■西村半兵衛は丹後以来「西村千弥 (南東8-4)」家の5代目・半兵衛(半大夫)二百石で当時は八代御城付である。
   家紋は「隅立て角に枡」

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