津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■氏家家の事(ニ)

2019-05-18 06:42:56 | 歴史

 書き込みに間違いがあり5・19一部訂正いたしました。

 昨年の11月の史談会例会後古書籍店に足を運び■古書籍店にてを手に入れた。
史談会の5月例会の史料を読み返している中で、気にかかることがあり取り出して読みかかったとき、ある事件の記述があった。
もうずいぶん前に何か書いたことがあるな~と思ってググってみると、2016:9:8日に「氏家家の事」を書いていた。
繰り返しになるが「熊本藩年表稿」の文政元年12月29日の記事「氏家志摩養父を曽祖父討果す」を取り上げていた。
小一時間「氏家家永代記録」を精読する。
          
「氏家志摩養父を曽祖父討果す」というのは、10代直吉(志摩)の養父(9代)を7代志摩が殺したという話になる。
これは先祖付の10代直吉の項に「文政三年七月、病気に付き二十三歳にて隠居」とあり、その理由として、「去々年(文政元年)十二月祖父氏家尺水より藤一(?)を打ち果たし候一件」であることが判る。ここでは曾祖父ではなく祖父(8代)と記しており、「熊本藩年表稿」の記事とは相違する。7代甚左衛門は事件から17年前の享和協元年には死去しており、明らかな「熊本藩年表稿」の間違い(曾祖父ではなく祖父)である。
又、殺された藤一為る人の事がよく判らない。9代は熊三郎と称しているが、別称なのであろう。
先祖附には9代熊三郎は「同年(文化11年)病気いよいよ以て相勝れず、三十歳にて隠居」とある。
8代氏家志摩も病気により29歳で隠居している。9代(実家不明)・10代(沢村氏)と養子が続いた。
事件は文政元年12月29日というから、殺された9代熊三郎が隠居して5年後の事件だという事になる。
10代直吉が当主である時期であり、「どのような処罰をも覚悟」していたところ、隠居を被仰付たという訳である。
「由緒ある家柄」の旨をもって、12代は相変わらぬ奉公を続けた。12代は8代の男子である。
8代が29歳、9代が30歳、事件当時の当主10代に至っては23三齋で隠居しており、そのため氏家家は初代から明治に至るに13代にわたって受け継がれたことになる。しかし、「氏家家永代記録」をしても事件の真相は闇のなかである。

史談会資料に関しては空振りに終わった。

コメント
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