津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■柏原藩・織田家と細川家の関り

2019-05-04 16:26:29 | 歴史

 今日のyahooニュースは(丹波新聞を引用)織田信長の弟・織田信包を取り上げている。

            https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190504-00010000-tanba-l28
            https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190505-00010001-tanba-l28

信長幕下の有能な人物として支えている。丹波国柏原藩の初代だが、嫡男重信は後継争いに敗れている。
その正室が斯波義銀女であり、その息・津田十三郎長相は細川家家臣(300石)となった。義銀の息・辰珍も細川家家臣(2,000石)となったが、その後自分の知行の内700石を甥にあたる津田十三郎に与え、十三郎は1,000石取となった。
義銀に対してはその後700石が加増されたらしく元の2,000石に復している。

信雄流織田家とも大変かかわりが深い。信雄の五男高長は一時期細川家に仕え細川主膳と名乗り龍王寺を預かった。
細川家の有力家臣・薮政一(10,000石)の女を迎えて居る。
5代にわたり宇陀松山藩を領国としたが、信武が自殺し信休は信包系織田家が3代にわたり納めた丹波柏原藩へ移封となった。
信旧(信朝弟)に細川宜紀女・岑姫が入輿している。細川宗孝が江戸城中で人違いにより切り付けられ死亡した事件では、事件直後の措置について義理の兄弟にあたる信休の的確な働きがあったとされる。
弘化四年正月、宇土藩主・細川立則の次弟奏三郎は柏原藩主・織田出雲守信貞の養子となり、織田家を相続している。
嘉永二年に出雲守となったが同七年、19歳で死去した。室に子がなく細川家の血は入っていない。

織田家とのかかわりも深い細川家である。


                           

                           細川宣紀--+--宗孝     
                                |          宇土細川家10代     11代
                                 +-- 重賢                       細川行芬---+---細川立則
                                |                 |
                                                                    +--岑姫              +-----泰三郎
                            ・・・・・・・・・・・・・・・ 宇陀松山藩・・・・・・・・・・・・・・                      ‖                                ↓      

      +----信長-----信雄-----高長----長頼-----信武-----信休----信朝==信旧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・==信敬 
      |                      ‖                                  ●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 丹波柏原藩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・●                                       
      |                薮政一 ---女                                (細川家家臣薮家)
    |
    | 斯波義銀---+---津川辰珍              (細川家家臣津川家) 
        |          |     

      |        +----女
     丹波国柏原藩初代    ‖-----津田十三郎・長相     (細川家家臣津田家)

      +----信包-----+---信重
                            |                                                    
                            |柏原藩・2代      3代                             
                            +---信則----信勝(絶家)

 (織田氏と細川氏に関する相関略系図は何度かUPしているが、今度はどうやら満足いくものとなった。密かに入れ替えようかと思っている。)

    
                                                                              

                   
            
                 
                  

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■御侍帳・家紋から考える(3)

2019-05-04 07:14:03 | 家紋

                                                           

  ■井関九郎左衛門は丹後以来の「井関市太(南東2-18)家」の7代目・九郎左衛門 八代御城附八代御番組頭(百石)である。
   前回ご紹介した井関源大夫との関係は伺い知れない。また家紋もまったく違っている。
   二つの家紋は夫々「井桁」をベースにして、上の紋は文字が記されている。下は「盃」と思われるものが記されているが、共に正式名称は知りえない。

  ■井沢十郎右衛門は丹後以来の「井沢十郎(東南3-11)家」の6代目・政兵衛(十郎左衛門)である。
   2代目が高名な十郎左衛門長秀(井沢蟠龍)である。
              亨斎又蟠龍子と号す。元禄十年家を継ぎ撃剣、
              抜刀、柔術をも能くす、好んで長さ三尺三寸も長刀を帯び、質性朴実にして
              邊幅を飾らず、江戸にある日神道に志し、山崎垂加流の奥秘を究め、神道に
              関する著作少からず、平居手に巻を廃てず常に学に通じ通邑大都に就かざる
              を以て憾みとす、然れども当時博学多識を以て聞ゆ、著述極めて多し(下略)
   家紋は「丸に井桁」今一つはその祖が上林氏であることから林の「文字紋」である。「肥陽諸士鑑」では「井桁」を含め三つ紹介されている。

  ■井沢慶助は十郎左衛門と祖を同じくする別家「井沢傳次(東南3-4)家」の7代・権之助(後・慶助 敬助)である。
   阿蘇南郷・玉名・下益城などの郡代を勤めた。
   家紋はこちらは「隅切り平角に井桁」紋である。ところが「肥陽諸士鑑」では全く違う、井桁が重なった「二つ井桁」と「林文字紋」が紹介されている。

  ■井田太郎助は「井田惣十郎(南東2-12)家」の5代目である。遠祖は大井田氏であったが初代の曾祖父の時に井田と改姓している。
   家紋は「井桁」

  ■井川孫助は「井川仙吾(東南3-12)家」の4代目・七郎右衛門(兵左衛門・孫助)である。
   家紋は「三つ目菱紋」である。

  ■井場貞助は「井場信矢(南東2-21)家」の3代目。
   家紋は「丸に菱」である。 
  

  ■伊良子市大夫は「伊良子軍十郎(東南3-3)家」の7代目・三郎助(市大夫・市右衛門)である。
   家紋は「肥陽諸士官」をみると、引両紋の一つ
「丸に立て二つ引紋」であることが判る。
   医学に関する論考「Edo jidai, Meiji-shoki no yūnyū-iyakuhin, iryōkiki no jittaichōsa to genzon shiryō no sōmokuroku no  sakusei ni tsuite 」の
        112頁に伊良子家に関する記述があり、家紋が紹介されているが全く違うものである。

  ■伊藤左内は丹後以来の「伊藤十平(東南4-9)家」の8代宇八郎(左内・源次右衛門)であろうと思われる。
   2代目左内は従兄弟佐藤傳三郎が光尚死後側用人だった林外記を襲撃するに当たり助太刀し討死した。
   家紋は「三つ盛り木瓜」「木瓜」である。

  ■伊藤権七は「伊藤一革(東南4-5)家」の8代・金作(権七)か。
   佐藤左内と祖を一にするが家紋は全く違う「子持ち井桁」である。

  ■伊藤又右衛門は伊藤又衛(東南4-6)家」の8代・文平(角右衛門・又右衛門)で高橋町奉行・川尻町奉行を勤めている。
   初代十之允は島原一揆の際、幕府上使・板倉内膳正御付として細川家より派遣された。内膳正は討死、十之允も同様戦死した。
   家紋は佐藤権七と同じ「子持ち井桁」である。祖は左七・権七と同じである。

  ■伊藤長兵衛は「伊藤満角(東南4-8)家」の6代、御知行取諸御目付などを勤めた。
   家紋は「五瓜に違い丁子」

  ■伊藤宗順は「御茶道」伊藤家の6代目、御近習御次御物頭列・浜町御近習御次支配頭之支配、御茶道・白金御庭預同所御茶道方御蔵預  
   家紋は見慣れないものである。ご教示を乞う。

  ■伊藤平左衛門は「伊藤平十郎(東南4-11)家」の7代・権八(平左衛門)なのか、8代・庫太(平左衛門・勘左衛門)なのかはきとしない。
   家紋は「庵に木瓜」、今一つは「梅鉢」系と考えるが不明。

  ■伊佐角之允は「細川家家臣略歴」には記載がない。
   家紋は「丸に三つ菱」である。

  ■石寺九兵衛は青龍寺以来の「石寺九郎(南東2-6)」家の9代目と思われる。
   だとすると、父親は名は貞次、「甚助と称し、致仕して可亭と称す。食禄五百石、川尻町奉行又、番頭等を勤む。頗る武技に達して子弟に教ふ。」
   家紋は「 ? 」正式名称が判らない。

  ■石井大助は「石井懋一郎(南東2-7)家」の5代「石井藍川 名は惟明、字は士徴、大助と称し、藍川と号す。藩学時習館句讀師兼習書師となる。」 
   家紋は「井桁」

  ■石川源右衛門は「石川源八郎(東南3-8)家」の7代・源太右衛門(源左衛門)のことか?
   家紋は「子持ち七宝に加文字」及び「七宝」紋である。

  ■石川九郎左衛門は「石川熊二郎(東南3-9)家」の5代である。5代と数が若いのは、初代の召し出しが元禄であることによる。
   遠祖は「神」氏。
   家紋は「酢漿草」及び「四つ目結」紋

  

    井戸の上部に組まれた井桁  

 画像 酢漿草(片喰) 繁殖力がよいことから尊ばれた。

  
   

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