これはもう、単なる隙つぶしに他ならない。必ずしも慶長・寛永期とは限らないが、禁裏や時の権力者と細川家との関係を略図にしてみた。
それでも一応資料を見ながらのことだから、例えば後陽成帝は三宮・後水尾帝には譲位したくなく、弟宮(八条宮)を望まれたとか、東福門
院の入内に当たっての徳川家のあまりにもひどい行動などを知ることになる。
細川家に関しても、幽齋の田邊城解放や八条宮の古今伝授など、後陽成天皇の強い意向があったこと、また光尚室の逝去後、八条宮家との結
婚話があったことなどを考えると、略系図の一本の線はいろいろの事柄や、当事者の心情などが絡み大変面白い。
綱利以降、徳川家周辺との婚姻が見られるが、三斎忠興の思いからは遠いものとなっていく。
東福門院と細川萬を朱書きにしたのは、その着物道楽によって京都の織物文化が昇華したという寛永文化の一面をあらわしたかったが故である。
三宮 すがのみや・つぐひと
+ーーー後陽成天皇ーーーーーーー後水尾天皇ーーーーーーーーーーーーーーーー素鵞宮・紹仁
| ‖ ⇩
| ‖ーーーーー明生天皇===後光明天皇
| 徳川家康ーーーーーーーーー秀忠 ‖
| ‖ーーーーー和子(東福門院)
| 織田信長ーーーお市ーーー江
|
+ーーー八条宮智仁親王ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ●
古今伝授 ↓(結婚話が持ち上がったが立ち消えとなったー天草島原の乱・忠利の死)
+ーーー細川藤孝 ーーー+ーーー忠興ーーー+ーー忠利ーーー光尚
| | | ‖
| | +ーーー 万 ‖
| | ‖ーーー弥々(男子出生するも死去・後男子も死去)
| | 烏丸光廣ーーー光賢
| |
| +ーーー伊也
| 吉田神道 ‖ーーーー萩原兼従(豊国廟初代社務職)
| 吉田兼見ーーーーーーー兼治
| 兼見卿記著者 慶長18年(1613年)、後陽成上皇に神道を講ず。
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+ーーー ●
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土御門久脩
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