新島襄が八重の兄の山本覚馬の援助をうけて
京都に同志社英学校(同志社大学の前身)を
つくったのは明治8年のこと。
場所は旧薩摩藩邸跡地で、覚馬が新政府に
捕えられ、幽閉されていた場所。
やがて釈放され、持前の勝気と才能をかわれて
京都府顧問に抜擢される。
しかもこのとき覚馬は目が見えず(ソコヒ)、
歩けないという二重苦を背負っていた。
襄が英学校をはじめたのは、最初からキリスト教
の学校をつくるのを反対されたからである。
アメリカから宣教師を呼んだものの、キリスト教
はもちろん、聖書も教えてはいけないと命じられる。
いわば京都はお寺さんの町、仏教徒からの猛烈な
反対やいやがらせがあった。
その都度、襄や覚馬が明治政府におもむき、府にも
陳情するが、なかなかスムーズにはいかない。
盲目の上に歩行困難な兄に付き添うのは、いつも
八重であった。
(しかも八重はその前に襄と結婚したとして女紅
場=女学校の舎監をクビになっている)
襄がキリスト教の学校創立にこだわったことよりも、
むしろ、覚馬、八重兄妹をそこまで走らせたもの
は何だろう。
私はそこが気になる。
かつて会津にいるときに闘った薩摩長州藩にたい
する意地か。
はたまた、
そんな国内の小さなことにはこだわらない、世界
に向けてはばたく大きな意志といったものか。
まだ、そこも責めきれないでいる。
(写真は応接間にあったオルガンー部屋には賛美歌
がながれていた)
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