今回の小田原に来た目的はあしがら農の会でみんなと一緒に農作業をすることである。これがとても充実していて楽しみになっている。もう一つの目的が、篠窪と境川に行って絵を描くことである。石垣島で絵を描いていて、時々篠窪や境川の景色を思い出して描いている。もう一度改めて実際に見たいと思っていた。今の冬枯れの時期是非行きたいと思っていた。
それは自分の中に子供のころから育ってきた風景というものの最初のものを確認したいと考えたからだ。頭に残されている風景というものが、いったい何なのかそれをいろいろ考えている。フランスに2年半いて風景を描いて居たのだが、その風景というものを思い出すことはすこしもない。というか、思い出すことができない。あの時も風景を描き続けていたのに、いまフランスの風景を描こうなどと少しも思わない。
自分の中にフランスの風景はぼんやりとはあるが、絵になるような形ではない。石垣島に暮らしていて、小田原で石垣島を思い出して描くかと言えば、それも少しもないのだ。石垣島の景色はいまだ思い出になっていないのではないか。景色が思い出になるという事はどんなことなのだろうか。
記憶の中に沁み込んでいる景色は、子供のころに見た景色なのではないだろうか。今の歳になってどれほど景色を見ても、子供のころに自分をとり囲んでいた景色とは意味が違うのではないだろうか。自分のいる場所を確認するために必死に目に焼き付けていた景色。それが人間の根本なのかもしれない。
そんな思いがあって、今回篠窪と甲府盆地の初冬の風景を見てみたいと思った。描いてみたいと思った。描いてみるというより、何をどのように見ているのかを、記憶と照らし合わせてみたいというような思いかもしれない。それは何故風景を描くのかという事にもつながってくる。
小田原に来て仲間と一緒に農作業をしながら、一休みして頭を上げて周りの景色を見ている。一番驚いたことはしっとりとした優しさだ。水の戻り始めた溜池を見て何故これほどに美しいと感じてしまうのかを考えさせられた。あるべき所にあるべきものがある。自分の中にある調和と目の前にある景色が調和してゆくということ。
どこかで許されているような風景。心が宿る景色に見える。自分の絵がいまだ、そういう領域には遠いという事が分かる。見えているということの奥にはまだ、目に見えないたくさんのことがある。見えないけれどあるんだよ。この見えないがあるものを見ようとして絵を描いて居るのかもしれない。
記憶に残って眼の底に染みついている風景というものは、見えないものまで見ている風景のような気がする。風景の中にある物語を見ている。あの時にあったこと、あのときに嬉しかったこと。あの川の冷たさ。吹き抜ける風の匂い。すべてが記憶の中で、集約されている物語が沸き上がって私の絵になる。
いったい、子供のころ藤垈の山寺で、何を見ていたのだろうか。藤垈にいたということは両親とは離れていたということである。そういえば、東京の風景というものも思い出すことはない。絵に描こうと考えたこともない。あの頃の環境も風景に影響しているのだろう。
夕暮れまで精一杯働いて、心地よい疲労感を感じながら、舟原の家に戻る。見上げる周囲の山。なんでもない景色なのだが、そこに描きたくなる何かがある。この心持ちのようなものが絵に現れてくるのを待つほかない。描き続けていればいつかは近づくはずだ。
絵を描いているという事に向かい合うという事は、自分の中の世界と向かい合っているという事になる。自分の絵を描くという事は、目の前にある風景以上にそれに惹きつけられる自分というものの内面を描いている。それがじつは案外にできない。絵は人真似によって出来ていて、自分というものに触れるという事が難しいものなのだ。知らない間に真似ているのだから困る。
人真似から抜け出るためにいつも意識をしていることがある。描いているときに、これは自分のものかという問いかける意識である。人真似などどれだけ上手にしても、無駄ななことだと繰り返し唱えるように考えている。ではどこに行けるのか。
重要なことは、描けばそれが自分だという意識である。絵にするという事は考えない。絵でなくてもいい。絵には良い悪いなどない。ともかく見ているように、記憶しているように描く。良い絵を描くというようなことは、出来る限り考えないようにしている。良い絵というのは人が考えた良い絵になりがちだ。
人に評価されるという事も出来る限り考えない。できる限り何も考えないように、絵を描くことにただただ反応するようにしている。何に反応しているか考えてみる。絵という空間の調和のようなものだ。絵に向うと大体の場合何おかしいと感じている。なぜ自分で鼻まだないと感じるのか。
その不自然な感じを調和するように、思いつくことをすべてやってみる。絵が良くなるとか、絵がだめになるとか、そういう事も出来る限り考えない。ともかくやりすぎで絵にならないとしても、やらないでほど良いというようなことはあり得ないと考えている。
今回境川付近のいつも描く3か所で、中判全紙サイズの絵を3枚描いた。3枚とも途中までである。絵はどこかで描けなくなる。どうしてもその先を進められなくなる。その先の調和が分からないからである。そこで辞めるほかない。そしてその続きをやれる時が来たらその先をやる。それはいつ来るかわからないが。突然やってくるようだ。
何をやるのかはそれぞれの絵で違うのだが、何かをやると、ある時に突然ハッとするように画面が生き生きとする。目が覚めるような感じだ。絵が生命力を持ち始めて、自立する。何故調和をするのかはわからない。絵それぞれで違う。思いもよらないことで、絵は終わる。
いつも違うのだから、絵が出来るという事は不思議なものだ。仕組みもないし、約束事もない。突然生み落ちる。その都度つどの思いもよらないことで絵は出来上がる。不思議なことだが、偶然というほかない。だから偶然にぶち当たるまでやり続けるほかない。
いつか描き方は変わるのかもしれないが、今はこんな状態である。今回描いた甲府盆地の絵3枚はどうなるのだろうか。今は希望のある状態である。ただ自分の現れた絵になるかどうかは未知数である。今ある希望を大切にするのではなく、ぶち壊してしまう気持ちで次に描き継ぐことが出来るか。
甲府盆地の南斜面に藤垈の集落はある。その一番上の山影に向昌院はあった。盆地は光のたまり場である、対岸の山は順光の輝きの中にある。甲府盆地はもやって湖のようなことが多い。甲府の街が昔は緑の田んぼと光る水の中に浮きあがっていた。
あの記憶と今目の前にある風景とつなぎ合わせて描いていたような気がする。また来ようと思う。