地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

甲府盆地を描きに行く。

2021-12-02 04:07:13 | 水彩画


 今回の小田原に来た目的はあしがら農の会でみんなと一緒に農作業をすることである。これがとても充実していて楽しみになっている。もう一つの目的が、篠窪と境川に行って絵を描くことである。石垣島で絵を描いていて、時々篠窪や境川の景色を思い出して描いている。もう一度改めて実際に見たいと思っていた。今の冬枯れの時期是非行きたいと思っていた。

 それは自分の中に子供のころから育ってきた風景というものの最初のものを確認したいと考えたからだ。頭に残されている風景というものが、いったい何なのかそれをいろいろ考えている。フランスに2年半いて風景を描いて居たのだが、その風景というものを思い出すことはすこしもない。というか、思い出すことができない。あの時も風景を描き続けていたのに、いまフランスの風景を描こうなどと少しも思わない。

 自分の中にフランスの風景はぼんやりとはあるが、絵になるような形ではない。石垣島に暮らしていて、小田原で石垣島を思い出して描くかと言えば、それも少しもないのだ。石垣島の景色はいまだ思い出になっていないのではないか。景色が思い出になるという事はどんなことなのだろうか。



 記憶の中に沁み込んでいる景色は、子供のころに見た景色なのではないだろうか。今の歳になってどれほど景色を見ても、子供のころに自分をとり囲んでいた景色とは意味が違うのではないだろうか。自分のいる場所を確認するために必死に目に焼き付けていた景色。それが人間の根本なのかもしれない。

 そんな思いがあって、今回篠窪と甲府盆地の初冬の風景を見てみたいと思った。描いてみたいと思った。描いてみるというより、何をどのように見ているのかを、記憶と照らし合わせてみたいというような思いかもしれない。それは何故風景を描くのかという事にもつながってくる。

 小田原に来て仲間と一緒に農作業をしながら、一休みして頭を上げて周りの景色を見ている。一番驚いたことはしっとりとした優しさだ。水の戻り始めた溜池を見て何故これほどに美しいと感じてしまうのかを考えさせられた。あるべき所にあるべきものがある。自分の中にある調和と目の前にある景色が調和してゆくということ。

 どこかで許されているような風景。心が宿る景色に見える。自分の絵がいまだ、そういう領域には遠いという事が分かる。見えているということの奥にはまだ、目に見えないたくさんのことがある。見えないけれどあるんだよ。この見えないがあるものを見ようとして絵を描いて居るのかもしれない。

 記憶に残って眼の底に染みついている風景というものは、見えないものまで見ている風景のような気がする。風景の中にある物語を見ている。あの時にあったこと、あのときに嬉しかったこと。あの川の冷たさ。吹き抜ける風の匂い。すべてが記憶の中で、集約されている物語が沸き上がって私の絵になる。

 いったい、子供のころ藤垈の山寺で、何を見ていたのだろうか。藤垈にいたということは両親とは離れていたということである。そういえば、東京の風景というものも思い出すことはない。絵に描こうと考えたこともない。あの頃の環境も風景に影響しているのだろう。

 夕暮れまで精一杯働いて、心地よい疲労感を感じながら、舟原の家に戻る。見上げる周囲の山。なんでもない景色なのだが、そこに描きたくなる何かがある。この心持ちのようなものが絵に現れてくるのを待つほかない。描き続けていればいつかは近づくはずだ。

 絵を描いているという事に向かい合うという事は、自分の中の世界と向かい合っているという事になる。自分の絵を描くという事は、目の前にある風景以上にそれに惹きつけられる自分というものの内面を描いている。それがじつは案外にできない。絵は人真似によって出来ていて、自分というものに触れるという事が難しいものなのだ。知らない間に真似ているのだから困る。

 人真似から抜け出るためにいつも意識をしていることがある。描いているときに、これは自分のものかという問いかける意識である。人真似などどれだけ上手にしても、無駄ななことだと繰り返し唱えるように考えている。ではどこに行けるのか。

 重要なことは、描けばそれが自分だという意識である。絵にするという事は考えない。絵でなくてもいい。絵には良い悪いなどない。ともかく見ているように、記憶しているように描く。良い絵を描くというようなことは、出来る限り考えないようにしている。良い絵というのは人が考えた良い絵になりがちだ。

 人に評価されるという事も出来る限り考えない。できる限り何も考えないように、絵を描くことにただただ反応するようにしている。何に反応しているか考えてみる。絵という空間の調和のようなものだ。絵に向うと大体の場合何おかしいと感じている。なぜ自分で鼻まだないと感じるのか。

 その不自然な感じを調和するように、思いつくことをすべてやってみる。絵が良くなるとか、絵がだめになるとか、そういう事も出来る限り考えない。ともかくやりすぎで絵にならないとしても、やらないでほど良いというようなことはあり得ないと考えている。

 今回境川付近のいつも描く3か所で、中判全紙サイズの絵を3枚描いた。3枚とも途中までである。絵はどこかで描けなくなる。どうしてもその先を進められなくなる。その先の調和が分からないからである。そこで辞めるほかない。そしてその続きをやれる時が来たらその先をやる。それはいつ来るかわからないが。突然やってくるようだ。

 何をやるのかはそれぞれの絵で違うのだが、何かをやると、ある時に突然ハッとするように画面が生き生きとする。目が覚めるような感じだ。絵が生命力を持ち始めて、自立する。何故調和をするのかはわからない。絵それぞれで違う。思いもよらないことで、絵は終わる。

 いつも違うのだから、絵が出来るという事は不思議なものだ。仕組みもないし、約束事もない。突然生み落ちる。その都度つどの思いもよらないことで絵は出来上がる。不思議なことだが、偶然というほかない。だから偶然にぶち当たるまでやり続けるほかない。

 いつか描き方は変わるのかもしれないが、今はこんな状態である。今回描いた甲府盆地の絵3枚はどうなるのだろうか。今は希望のある状態である。ただ自分の現れた絵になるかどうかは未知数である。今ある希望を大切にするのではなく、ぶち壊してしまう気持ちで次に描き継ぐことが出来るか。

 甲府盆地の南斜面に藤垈の集落はある。その一番上の山影に向昌院はあった。盆地は光のたまり場である、対岸の山は順光の輝きの中にある。甲府盆地はもやって湖のようなことが多い。甲府の街が昔は緑の田んぼと光る水の中に浮きあがっていた。

 あの記憶と今目の前にある風景とつなぎ合わせて描いていたような気がする。また来ようと思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野党がなければ、民主主義は終わる。

2021-12-01 04:16:58 | Peace Cafe

ナリヤラン

 立憲民主党の代表選挙が終わった。新代表に選ばれたのは47歳の泉健太氏 だった。残念ながら私はこの人のことを知らなかった。立憲民主党を支持していながら、恥ずかしいことだが、今回の代表選挙で初めて知った。京都が選挙区の人という事である。

 北海道出身で立命館大学へ行ったというのはどういういきさつだったのだろうか。代表就任あいさつで、わざわざ小沢一郎氏の名前を出したという事が気になる所である。これからの野党共闘をどう進めるのかで、その手腕がわかるだろう。

 立憲民主党は選挙で後退して、代表の枝野氏が辞任した。枝野氏の問題では無いのだから、辞めたからと行って解決には成らない。今回の選挙は絶好のチャンスだったのに、すべてにがっかりである。立憲民主党に日本の方向転換を期待していたからだ。

 野党が良いか悪いかという前に、政権が変わるような野党がなければ、まともな議会制民主主義は成り立たない。自公政権があまりにひどいことは大方の人は感じている。しかし、それでも今の野党に任せるよりはましというのが、選挙での判断である。

 これでは自民党はさらに悪政党になるだろう。汚職をしようが、制作を放棄しようが、国民は自民党を支持するほかないと考えてしまっているのだ。こんなことがどうして刷り込まれてしまったのかわからないが、確かに野党がだらしがないのだろう。原発で、消費税でも明確な政策がない。

 結局この敗北はかつての社会党の失敗を思い出すものだった。労働組合という支持母体と政党の関係がどうしようも無いものだ。立憲の意味が護憲になり、憲法を固守するだけで、憲法議論を党内で活発に行い、憲法を国民の身近なものにするという努力が無かった。

 選挙をやるためには人のいる、労働組合が重要なことになるなのだろうが、労働組合の利権のような主張が、立憲主義政党としての民主的な政策論争を制限している。それが、社会の期待する自由と民主主義と言うイメージから大きく逸脱しているのだ。それがかつての社会党の停滞を思い出すところだ。

 労働組合が自民党よりも保守的なようでは話にならないだろう。日本の労働組は可能性が無い。労働貴族意識が染み込んでいるようだ。非正規労働者を共通の仲間としてみる余裕が無い。資本に対抗する労働者では無く、資本と連携する労働組合。

 この労働組合に依存した野党では、一定の票は取れても、とうてい政権を取るような事はできないだろう。具体的に言えば、原発を継続したい電機労連。本来電力会社の解体が必要な状況だ。抜本的改革を労働組合が阻止している。

 憲法論議をするという自由すら無い政党。憲法9条を守ればそれでいいと言うことでは無い。憲法の拡大解釈を続け、日本国憲法は憲法学者の90%トの人が憲法が守られていないとしている。先ずは憲法裁判所の設立が無ければ、憲法を変えようが変えまいが、無駄な議論になる。

 消費税反対が前提で国の財政再建を明確化できない。日本の財政は破綻の瀬戸際である。コロナでさらにその危機は世界でも一番危険な財政破綻に繋がってきた。財政破綻とは、必要な橋の架け替えがお金が無いから出来ないと言う事態である。必要な病院が閉鎖されるという事態である。地方から生活基盤が失われ始めている。

 枝野氏個人の考えは蒙昧では無い。立憲民主党という政党としての思想の曖昧さである。曖昧である結果として何でも反対の野党というくくりに入れられることになる。明確な政党としての思想を押し出す姿勢が感じられない。党内議論が見えないのだから、党としての思想は生まれない。社会主義政党とも見えなかった。

 この点では共産党の正しさを見習うべきだ。問題は共産党がいくら正しくとも、政権党になると言うことはどう考えにくい点だ。だから、立憲民主党は共産党と連係して、共産党の正しさを受け売りして、選挙を戦ったわけだ。そうでなければ私も立憲民主党の支持は出来なかった。ところが野党有利とみられた、自民党のていたらくにたいしてすら、選挙で勝てなかったわけだ。

 選挙で勝たない限り、どうにもならないのが政治である以上。大きな未来戦略を立てるべきだ。3つの柱はどうだろうか。
1,消費税をふくめての財政再建と日本の福祉政策の方向を定める。
2,憲法論議を憲法裁判所の設立を前提に広く論議する。
3,原発の老朽化廃棄期限通りに廃止して、循環エネルギー国家に変わる。

 財政再建も福祉政策もこのままでは行き詰まることははっきりしている。国民にこの財政の厳しさをきちっと示して、甘い見通しは止めることだ。消費税廃止どころではないと考えている。みんなで我慢しなければならない苦しい財政を示し、未来の日本の財政再建計画を立てるべきだ。選挙で甘いことを言えば票が集まるというのでは責任政党では無い。

 税金は大企業からとれば良いとか、防衛費をただただ削減しろ。ある意味では正しいのかもしれないが、これではもう国民の支持は得られない。共同富裕である。大企業にも我慢して貰うし、国民も我慢しなければならない。老人福祉よりも、子供の教育に重きを置く。誰もが我慢が必要なら、子供では無く老人である。企業だけが内部利益を増している状況は困る。貧困層の深刻化も困る

 学校教育費は無料にするが、老人の医療費はむしろ高いぐらいにする。老人福祉は後退してもいい。老人は可哀想かもしれないが、国の財政が再建されるまでは仕方がない。私は孫子のためなら我慢する。病院に行けないで困るとしても、孫を学校には行かせたい。子供こそ国の宝だ。

 防衛費は直接の攻撃的兵器は大幅に削減して、その分を情報防衛や、感染症対策費、食料の安全保障に当てる。防衛費が平和外交のための費用になるように、近隣諸国との連携を重視する。中国との平和外交を精力的に進める。尖閣問題は国際裁判所に提訴する。

 これらはあくまで個人の意見だ。立憲民主党内部のそうした政策論議を国民に分かるように、ネットで公開して議論してほしい。代表選での議論は観念的で、具体性を描いた。原発に依存しないという事は誰もが主張したが、どうやって脱原発を進めるかの計画を述べなかった。

 結論だけで無く議論の過程を公開して貰いたい。それぞれに違う意見が、どのように民主的に議論され党の政策に集約されるのかを見たい。立憲民主党にはまともな議論が失われてしまったように見える。これでは期待した立憲民主主義では無い。

 今回の選挙は自民党が良いから選ばれたわけでは無い。アベ・スガのとんでもない自民党を辞めそうだから、自民党でもう一度様子を見ようと言うことだろう。岸田政権が新しい資本主義で倫理を取り戻すのか。どのくらい分配をするのか。財政再建はどうなるのか。台湾問題にどう対処するのか。様子しだいでは、反動が来てたちまちに支持を失うはずだ。それまでに立憲民主党は出直し的再生をしなければならない。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする