地場・旬・自給

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第56回 水彩画 日曜展示

2021-05-16 04:22:26 | 水彩画
 第56回 水彩画 日曜展示
 53回から連続で展示しております。スクロールしてみて頂ければ幸いです。




279「イモリ池夜明け前」
2021.4








280「飯縄山」
2021.4







281「佐渡島」
2021.4







282「下田開墾地」
2021.4







283「フサキの畑」
2021.4





284「名蔵シーラ原」





285「大里の畑」

 今回4回分、28枚をまとめて展示した。写真を撮って、収納タンスの中にしまわないと、絵が湿気てしまうからだ。絵に番号を付けて整理している。一年間で、285番の「大里の畑」まで来たわけだ。

 今目の前には石垣にもどり、今描いている絵が並んでいる。今描いている絵で頭はいっぱいである。描けないでもがいているから、描けない絵のことだけになっている。それでも前に描いた絵を展示するのはどういうことかと思うが、ともかく続ける。

 56回の展示では282番と283番が少し異質なのだが、どこか惹かれるものがある。自分の体質のようなものを反映している気がする。どこか楽なところがあり、絵が楽しめる。

 284番のような絵は苦労している。それでも何か獲得した思いがあるので展示することにした。

 




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第55回 水彩画 日曜展示

2021-05-16 04:22:26 | 水彩画
第55回 水彩画 日曜展示




272「幸福牧場」
2021.4





273「崎枝半島のパイン畑」
2021.4






274「大里の田んぼ」
2021.4







275「篠窪の傾斜地」
2021.4







276「バンナ岳ウラント地区」
2021.4






277「フサキノイエ」
2021.4







278「熱帯ドリームセンター」
2021.4



 278番の熱帯ドリームセンターはどこかにあるわけではない。冬の寒いときには、小田原のフラワーガーデンの温室で絵を描いていた。人がまるで来ないので、自由に描かせてもらえた。明るいし、冬の写生場所としては絶好であった。

 今は管理が外部委託になったので、様子は違ったかもしれない。温室の光の回り方がおもしろいのだ。揺らめいて回ってくる。あの感じを描きたくて、時々思い出しては描く。思い出しているのが、田んぼのとなりだったりするのだから、おかしなものである。

 
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第54回 水彩画 日曜展示

2021-05-16 04:19:25 | 水彩画
 第54回 水彩画 日曜展示




265「与那国島の耕地」
2021.4







266「篠窪の斜面地」
2021.4






267「傾斜地の白い道」
2021.4





268「大里の畑」
2021.4







269「名蔵アンパル」
2021.4








270「名蔵の水路」
2021.4







271「バンナ岳ウラント地区」
2021.4



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第53回 水彩画 日曜展示

2021-05-16 04:17:28 | 水彩画
第53回 水彩画 日曜展示
今回まとめて、54回,55回,56回の4回をまとめて展示させて貰う。
絵が大分たまってしまって、収納ダンスにしまえなくなってしまったので。






258「崎枝の畑」
2021.4







259「宮良川中流域」
2021.4






260「大浜の畑」
2021.4





261「バンナ岳からのアンパル」
2021.4






262「崎枝マッツゥンダ」
2021.4







263「宮良川中流域の田んぼ」
2021.4







264「名蔵湾の田んぼ」
2021.4


 今度264番の名蔵湾の田んぼの右側の奥の一番高いところにある田んぼを耕作することになった。ますます、名蔵の田んぼに通うことになる。自分が耕作して描くことになると、また少し違ってみえることになる。

 少し絵も変わるのかもしれない。この描いている当たりをシーラ原という。たぶん昔は水では苦労したかもしれない田んぼである。今は名蔵ダムからの水が配管されている。バルブをひねれば安定して水は来る。

 シーラ原のほとんどが田んぼになったのは大分後なのではないかと思う。名蔵湾からの風がいつも吹き込んでいる。この風が心地よく、シーラ原は過ごしやすい場所でもある。この調和した地形が絶好の場所を作り出しているのだろう。その調和を生み出している何かに惹きつけられている。
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シーラ原田んぼの始まりを今見ている。

2021-05-15 04:20:45 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」
田んぼ入水口付近。今中干しである。

 田んぼの案内募集は、高梨さんという水彩人のホームページの管理をお願いがしている方に、代行して頂いた。こんな文案でよろしくお願いしますと、朝表示を依頼した。お昼に家に帰ると、すでに10名を超える希望が来ていた。夜には20名を超えていた。

 「自給のための有機農法の田んぼ参加者募集」
1,自分の食べるお米を自分で作って見ませんか。
2,費用はかかった分を人数で割ります。一万円ぐらい。
3,お米50キロが目標。
4,場所は名蔵シーラ原の一番景色の良い田んぼ
5,活動日は10回ぐらい。7月から11月。
6,道具はこちらで用意します。
7,有機のイネ作り33年の笹村出が指導します。
8,希望者はsasamura.ailand@nifty.comに申し込んで下さい。
ーーー以上が掲載して貰った文章である。

 人は集まるとは思っていた。いままで石垣島で接点のある人との話で、米作りには興味があるだろうと思っていた。しかし、これほど一辺に人が集まるとは思っていなかった。やはり、どこでもお米を自給する技術には多くの人が興味を持つ時代になっているのだとと思う。

 是非とも全国で同じような動きを始めて見て貰いたい。有機農業で田んぼをやる技術さえあれば、必ず良い人の集まりになるはずである。有機農業の目指すところを共有できればあとのことは何とかなる。

 子供の居るお母さんが多いようだ。子供に田んぼを体験させたいと言う気持ち。そして安全な食べ物を食べさせたいという気持ち。全く当たり前の事である。皆さんには昨日夕方に返信として、以下の文章を送らせてもらった。

シーラ原の有機の田んぼへ関心を持って頂いた皆さまへ

20名の方に一日目で興味を持って頂きました。
石垣島の希望を感じた一日でした。ありがとうございました。

小田原では今年も一反5畝の田んぼを復田しました。
25日から田植えで小田原に行きます。

名蔵アンパルの会の山崎さんと干川さんの協力で名蔵シーラ原で田んぼを始めることになりました。
石垣島で田んぼが減ってはならないとの思いです。

皆さん色々状況が分からず、お問い合わせと言うところかと思います。
小田原でやっているあしがら農の会方式でやろうと考えています。
もう30年近くやってきた方式です。200名の仲間が居ます。

参加に決まりはありません。可能な限界まで緩やかな関係です。
名簿も作りません。会費もありません。
費用は掛かったものを人数で割って負担するだけです。
誰も儲かりませんし、損もしません。

人数が多ければ、ひとり当たりの負担金は減りますが、分配のお米は減ります。
体力のある人も、体力の無い人も同じです。全部出た人も、休みの多かった人も同じです。
小さな子供さんは大歓迎です。子供の笑い声も参加者の力になると思っています。
理想主義的すぎると怒られますが、自給のための田んぼくらい理想主義でやりたいです。

石垣で初めて試みる方式です。
皆さんのご意見を調整して進めたいと思います。

参加日時を皆さん気にされているようですが。
事前に決めたいのですが、田んぼでは現在、一期作目の稲が生育しているところです。

場所はシーラ原で一番高いところある田んぼです。
バス停から歩いてくることも出来ると思います。

今のところ、一期作のイネの稲刈りがいつになるかすら分かりません。
日程が分かり次第皆さんに連絡をしますが、小田原の稲の生育と、石垣ではまるで違います。
正直決められない感じです。

小田原では事前に一年間の日程を決めてしまいます。

基本は、土日を活動日にします。
ただし、雨などでとつぜんの変更もあります。
と言っても、都合で参加できないのは当たり前のことで、
やれる人がやるだけです。

考え方としては、やれる人がやる。必要な人が貰う。
こういう考え方です。資本主義的ではありません。
自分はすごく働くから、休みの多い人に腹が立つという人は無理かもしれません。
気持ちよく、楽しくやれればそれでいいと思っています。
何か訳の分からない説明ですが、こんな理想を探している自給のための田んぼです。

具体的なことが決まり次第皆さんに連絡をします。
ブログに田んぼのことを書いていますので、そこである程度確認できるかと思います。
地場・旬・自給 (goo.ne.jp) https://blog.goo.ne.jp/sasamuraailand

何でも遠慮無く相談下さい。

笹村 出

と言うことでシーラ原田んぼが始まりそうです。
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石垣島農の会 シーラ原田んぼ計画

2021-05-14 04:18:49 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」


 絵をいつも描いているところから、海の方を見た景色。田んぼの一番奥から、田んぼを通して海を見ている。まさか絵を描いていた田んぼで耕作することになるとは思わなかった。田んぼと海と空この兼ね合いが描くには難しい場所だ。

 このたんぼ一枚が1反5畝ほどらしい。五段になっている。一段の高さは120センチほどの段差。田んぼの両側に水路がある。西側が排水路である。上部に沢があり、水が少し流れている。出来れば染み出ている山からの水で耕作できればと考えている。石垣島で田んぼをやることになったのだ。

 農業は絶対にやらないつもりで石垣島に来たにもかかわらず、田んぼをやることになった。自分の役割と言うこともすこし意識した。もう新しく何かをやることがあるとは考えていなかったのだが、いくらかでも期待されるものがあるなら、答えるのが役割のように思う。もうひと頑張りしてみようと思う。老骨にむち打ってと言うのかな。

 正直なところ今回の田んぼは冒険である。夜も眠れないほどの不安がある。石垣の気候や土壌が、まるで違うと言うことである。ここで取り組んできた有機農業が可能なのかどうか。考えれば考えるほど、困難な挑戦になる。二期作というのも初めての挑戦になる。どれだけ腐植を戻せるかが課題だろう。たぶん田んぼでも収奪的な物になりやすいのではないだろうか。余裕が出てきたときには、切り株から再生するひこばえ農法も研究したい。

 自給のための有機農業の技術を石垣島での方法を見つけて、伝えたいと思う。自給の技術はこれから価値が出てくる。技術があるかないかが生きるか死ぬかに繋がる。石垣の亜熱帯の気候から来る限界があるのかもしれない。それでも私の考えてきた、自給稲作法で通用するものもあるのではないかと思っている。どこまでやれるか挑戦である。

 農業者としての営農としてはこれからはますます難しくなる。自給のための市民が田んぼの田んぼの担い手になる時代が来る。来なければ田んぼがなくなり、日本が終わる。私が田んぼをやってきた、40年間はそういう農業の流れだった。農業者の平均年齢は私の年齢と同じに推移している。すでに70才を超えている。そんな産業はあるだろうか。

 石垣島の名蔵湾沿いのシーラ原と言うところで田んぼを始めることになった。具体的な計画を立ててみる。場所はシーラ原で一番高い位置にある田んぼである。面積は一反5畝。沢の取つきにあり、沢からの水を引いてくることも可能な場所である。基盤整備もされていて、安定した水も使うことが出来る。ただ、1月頃の通水は出来ないようである。

 シーラ原の一段高いところの奥に水が湧いている。その沢の続きに亜熱帯的な森がありその森に食い込んだような沢を登って行く、段々畑の田んぼの一番上の田んぼである。その沢の田んぼはすべてみやぎ米屋さんが耕作されている。その一番上の田んぼを市民が自給のために行う、有機農業のたんぼとして行う。

 シーラ原は名蔵湾沿いにあり、名蔵アンパルから名蔵湾を崎枝の方向に向かう海岸沿いである。石垣島の観光地であるカピラ湾に向かう車が通る、広く開けた場所である。海沿いには道路がある。そして田んぼがあり、さらにその上の一段高いところにパイナップルとサトウキビの畑が数ヘクタール広がっている。石垣島の穀倉地帯と言うことになる。

 この状態は赤土の流出が防げて良い農耕地の配置だと思う。気になるのは台風の強い風が直接当たりそうな所だ。特に二期作目では台風の遭遇はあると考えなければならない。台風の対策はあるのかないのか。何しろ、田んぼにイネがなかったと言うほどの風が吹くらしい。

 シーラ原は石垣でも一番良いお米が採れるとされているそうだ。海からの風が通り抜けていて、湿気がたまりにくいため、イモチが出にくいそうだ。シーラ原では良く絵を描いていた。絵を描いていてもいつも風が通り抜けていて、夏の炎天下でも暑さをそう感じないですむ田んぼだ。そもそも蚊に刺されることがない。これはイネにとってはウンカが飛んでいってしまうという貴重な場所になる。

 山は尾根続きで於茂登岳まで続いている。石垣島の田んぼとしては深い山に続いている場所ではないのだろうか。白水ダム系の良い水が配管されている。沢に流れてきていて、その水を昔は飲んだそうだ。干川さんが42年前開墾生活を始めた頃には水牛で耕作されたそうだ。

 まず現状で、気がついたことを列挙してみる。
1,奥側の畦が低くなって崩れかけている。土が必要である。
2,一番奥には沢からの水が染み出ている場所があり、高さ的に水路を塩ビ管で越えさえすれば水が採れそうだ。
3,両側の水路は深く三面張りになっていて、水害の対処が出来ている。
4,道路から田んぼへの入り口当たりに4㎡ほど土を入れて平地を作りたい。
5,田んぼの奥側に道具置き場を作りたい。道具を置いて帰りたい。
6,道具は田んぼ線引き、トンボ、25メートルネット、プラステックポール150センチを25本,シャベル、草刈りかま、草刈り機。堆肥置き場、ブルーシート。コンバイン袋。コロガシ2台。タカの凧を準備。
7,水路の掃除。泥などがあれば、畦の補強に使う。
8,田んぼには稲刈り直後に米ぬかあるいはオカラを入れたい。そういう物がない場合はどうするか検討する。田んぼに撒いた後に、荒起こしをして、代掻きをして貰う。
9,代掻きをして、水張り管理を苗作りの間にしておく。
10,苗が出来たところで、田植えをする。もう一度トラックターで代掻き。
11,線引きで線を引いて、田植え。
12,苗床用のぼかし肥を作る。
13,田んぼの面積の正確な把握。
 
 具体的な耕作計画。
7月半ば 
種まき。小田原よりも一週早く生育すると見て。四週間の苗代。
7月中に 
稲刈りが終わり次第に稲わらは刻んで散布できるのか。その上にオカラなどを蒔く。すぐ荒起こし、代掻き。
出来れば田んぼの一部に苗代を作る。苗代以外は水張り管理。
8月始め 
5葉期二分ゲツになったところで、苗取り、もう一回代掻き、線引き、田植え、米ぬか蒔き。
8月半ば 田植え後一週間でコロガシ開始。繰返し転がす。
11月頃稲刈りか。

 
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石垣島農の会始まる。

2021-05-13 04:55:53 | 石垣島

田んぼから名蔵湾を眺めて。

 石垣島に来て次の時代の予兆を感じている。地方に移住者が増えているというようなことだけでなく、競争社会の終わりの予兆である。経済成長が善ということではなく、みんなが等しく生きて行ける世界を求める姿である。

  昨日石垣島で有機農業の市民田んぼを始めることが決まった。干川さんと田んぼを巡ってもらった。こここそ市民田んぼに一番向いていると考えていた、名蔵湾沿いの田んぼを、見ていただき水のことなぞ伺った。その田んぼはなんと干川さんがむかし耕作をされていた田んぼであった。

 そこがやはり絶好の場所だと言うことが分かり、現在、耕作をされているみやぎ米屋さんに相談に伺った。色々事情をお話ししたところ、一番上の一反5畝あまりの田んぼを使わせてもらえることになった。その足で地主さんのところにもまわり、説明をして了解をしていただけた。すべて、昔からの干川さんの知り合いと言うことで成り立った話である。

 2期作目は7月中には始まることになる。それまでに参加者を募集しなければならない。7月初めから苗作りが始まることになる。6月には正式に参加者募集を始める必要がある。先日参加していただいた方にの中にも参加希望者はいるかと思う。八重山毎日新聞に募集記事をお願いしたいと考えている。

 石垣島では田んぼはやらないと決めていたのだが、少しでも役立つことがあるなら、やりたいと思うようになった。食糧自給のための有機農業の勉強会をしたいと思う。何故石垣島では収量が低いのか。いろいろのことが分かってくるのではないかと思う。この文章を読んだ方で参加希望者がいれば、コメント欄から申し込んでください。

 残念ながら石垣市の行政は富裕層の別荘地を誘致しようという昔のままの発想から抜け出られないで居る。石垣市スーパーシティ構想である。この構想はまるでバブル時代を彷彿させるものだ。新しい時代の石垣島の位置づけを取り違えている。

 開発思考一色の開発をして、本土のゼネコンにメチャクチャにされてしまうのだ。何故、こんな古くさい発想しか出来ないのか、情けないというか哀れというか、石垣島のすばらしい文化と環境を理解していないとしか思えない。

 今一番遅れてしまっているのが政治である。それは政府から、地方の政治まで、次の時代を見ると言うより、過去の成功事例にしがみついて、足下に押し寄せ始めている、経済成長神話の終焉に気づかないのである。しかし、もう住民の方は政治に関わっても仕方がないという諦めの状態にあるのではないだろうか。

 日本の経済成長期は終わったと考えなければならない。世界の経済の流れから見れば、当然の帰結である。人間はそこそこに生活が出来ればそれ以上のものはいらないのである。衣食足りて目指すは精神の豊かさである。貧富の差の無い平等な世界である。

 生きて絵が描いて行けるのであれば、それ以上のことは何も必要が無いのだ。特別の富裕層でないとしても、死ぬまで絵を描いていられる。豊かな社会だと思う。貧困層はそうはいかないだろう。食事が十分でない人達がいる社会である。一方に一握りの富裕層が増え始めている。

 問題はこの経済の不均衡にある。当たり前に働いて、当たり前に生きて行ける客観的条件は日本の社会にはある。それが出来ないところに政府の金持ち優遇のゆがみがある。既得権益の死守が自民党の党是なのだ。これをぶち破らなければ、日本はより深刻な分断社会に陥るだろう。

 石垣島で普通に田んぼをやって、普通に生きていけないのでは何かがおかしいのだ。石垣島でも田んぼの耕作放棄が始まりそうである。田んぼをやっていても普通に暮らすことが困難だからだ。こんなに悲しい状況はあるだろうか。

 江戸時代であっても田んぼを普通にやっていれば生きては行けた。今は田んぼを続けることが困難な時代になってしまった。しかも、世界では食糧危機が始まっている。どのように考えてみても、食糧危機はその深刻さをますだろう。

 そうした世界情勢の中で、食糧自給率が38%と言う危機的な日本の状況は安全保障上極めて深刻な状況と見なければならない。コロナワクチンを見てみれば分かる。お金があろうとも、ワクチンを簡単には売ってくれないのだ。食料はワクチンどころではない。もし足りなくなれば、その深刻さは想像できないほどの怖さがある。

 国の安全保障の基本として、主食のお米だけは十分な確保は政治の責任であろう。石垣島の住民が必要とするお米は石垣島で作れる態勢を取る必要がある。それを制度上保障することが、これからの農政の柱ではないだろうか。

 田んぼというものはそれほど重要な農業なのだ。環境的にも、食料的にも、文化的にも、日本人として守り抜かなければならないものだ。日本の右翼は修学院離宮に一度行ってみてもらいたい。天皇が文化によって日本を守ろうとしたものが何かと言うことである。

 日本の文化の理想的な形を、庭園として作り上げたのが修学院離宮である。明治政府が西欧のものまねをして作り上げようとした、日本帝国は実に思想の浅い軽薄なものであった。だから、背伸びをした末に戦争に敗れたのだ。今思えば、敗れたことはまだましだったのだろう。

 今の時代になっても、アベ政権のように、明治帝国を復活させたいという愚かな政権が登場する。もう全くそうした方向がだめだと言うことを知らなくてはならない。列強と競争してなど言う歪んだ思想は不用なのだ。

 日本は文化豊かな国日本として、普通に暮らすことで尊厳を保てば良いのだ。今アメリカと中国が世界の覇権争いである。こんなことはただただ馬鹿げたことに過ぎない。世界一がなんだというのだろうか。アメリカも中国も文化的に見れば、実に寂しい国だ。

 金儲けだけを争ってみたところで、人間が生きる一番重要なものには至れないと言うことだ。日本もその哀れな二国に何とか追随したいという程度の政府である。目を覚まして、新しい道を国民ひとりひとりが歩み始めるべきだ。

 幸人口減少が進み、地方の農地は空いている。地方では住宅も余り始めている。新しい自分の人生を生きようとするものには実に幸いな時代ではないだろうか。私が若い頃であれば、与那国島に移住して田んぼを始めただろう。与那国島では田んぼの後継者がいなくなり、耕作放棄が進んでいる。行政は受け入れ体制を進めている。

 石垣島でも同じことが起こるだろうと想像している。今こそ田んぼを始める人をみんなで支えなければならない。支えると行っても食べれば良いだけのことである。石垣の人は石垣のお米を食べる。この当たり前のことで、石垣の田んぼを守ることが出来る。

 地域を守ると言うことはそういうことではないだろうか。少し高いかもしれない。少し美味しくないかもしれない。しかし、そういうことは互いに我慢し、支え合い努力をして行けば解決できることだ。先ずはフードマイレージである。

 田んぼがなくなってからでは遅い。
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石垣島自然稲作の見学会の反省

2021-05-12 04:41:07 | 石垣島


 一時間話させて貰ったのだが、一生懸命になりすぎてしまい、家に帰ってがっかりして酒をノンデネタ。ついつい力が入りすぎて、しゃべり続けてしまい、おもしろい話を出来なかった。笑いを取れるようにしゃべるつもりが、少しの笑いもない、言いたいことだけの話になってしまった。

 これだからだめだ。石垣島では笑いものになれることが一番大切なのだ。相変わらずの大反省である。余裕がないからこうなるのだ。石垣島でみんなの前で話をするのは初めてのことで、上がってしまったのかもしれない。上がっては居なかったか。力が入りすぎて興奮してしまったのだろう。

 慰めにもならないが、伝えたいことは伝えたつもりだ。私の事などどうでも良いことである。石垣島で田んぼがなくならないことが大事なのだ。必ず同じ考えの人は沢山居るはずだ。その人と出会うことが出来れば、今回の集まりの意味があったことになる。

 干川さんにお願いして、石垣島の田んぼの案内をお願いした。沢水が取り入れられる可能性がある田んぼである。あるいはこういう所ならば市民が行う田んぼとしては良いのではないかという場所である。通年通水するためにはどういう手段があるのかも検討した。

 アンパルの自然環境を良くするためには、水田可能な場所には水張りを行うことが必要である。理由は以下のようなものだ。
1,通年通水すれば田んぼをやっていない場所でも生物多様性が維持できる。
2,赤土の海への流出を防ぐ貯水池機能を増進できる。
3,洪水等を抑止することになる。
4,地下水の減少を防ぐことになる。

 見て歩いた限り、そうした場所はかなり存在していて、五ヘクタールぐらいはアンパル周辺にある。12月1月水が止められる田んぼが普通のようだ。この期間、水を確保できるのかも課題である。田んぼの排水を止めることで天水田にしておくだけでも違うのではないだろうか。

 アンパル周辺の田んぼの、水張りの可能性を探る必要がある。ダムからの取水にほとんどの田んぼが成っている。沢水を使えないものかどうか。田んぼからサトウキビなどに転作されている場所。あるいは放棄され荒れ地になっている場所。

 自然環境を守る活動はどうしても反対運動になりがちである。出来て困るものが、守るべき場所に出来てくるからである。しかしそうした反対運動は成功してもマイナス要素が減っただけになる。自然環境を豊かにして行く活動を行う必要があるのではないか。

 これはあしがら平野での酒匂川グリーンフォーラムの経験の結果、ごみ処分場反対から、あしがら農の会が生まれたようなものである。弱いところには迷惑施設が進出してくる。農地を弱いものにしてはならない。農地が農地として有効利用されていれば、農地転用は起こらない。

 農地を守るためには農業経営が出来なければならない。ところが稲作農業は経営が厳しくなっている。よほど機械化に向いているような大型の水田が集積されているのであれば別であるが、条件の良いとまでは言えない水田は経営としては難しくなっている。

 こうした条件が十分でない田んぼが維持できるとすれば、市民の自給のためのイネ作りだ。市民が自給する小さな田んぼであれば、農家が使えないような田んぼでも可能である。むしろそうした小さなまとまらない田んぼの方が向いているとも言える。

 小さな稲作農業が国際競争力が無いから、止めてもかまわないという政府の政策は間違っている。田んぼの持つ環境貢献や文化的な価値を軽視しすぎである。主食となるお米の生産は、単なる食料を越えた人が豊かに生きるための文化まで含んでいる。

 地域の文化が失われつつある風潮が強まるなか、石垣島は伝統文化が息づいている。その根底にあるイネ作りの伝統は維持すべき重要な農業である。農家としての経営が難しくなって失われてしまう前に、どうしたら維持することが可能であるかを検討する必要がある。

 その方策は多様である。様々な角度からアプローチすべきものだろう。その一つとして、市民参加型のイネ作りがあると思う。自分で食べるものを自分で作る。石垣島にはそうした市民が作る自給のための稲作に向いている田んぼもある事は分かってきた。

 やってみたいという人がいることも少し見えてきた。たぶん始めるためにはその繋がりを誰かが作り出す必要があると言うことだろう。その意味で、私に役立てる部分はありそうに見える。もう少し様々な角度からアプローチしてみたい。
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西表島世界自然遺産決定

2021-05-12 04:06:24 | 石垣島


 西表島は世界遺産に決定した。西表島の自然環境から考えれば当然のことである。今回の世界遺産は奄美大島、徳之島、沖縄本島やんばる、西表島と大きく離れた南西諸島の4つの地域である。どういう自然環境に置いて関連があるのかには少し疑問がある。

  いままで、白神産地。知床半島。屋久島。小笠原列島。の4カ所が指定されていて、5カ所目の指定になる。世界でも213件の指定しかされていない。人類全体にとって価値ある自然を守るための責任を明確にする責任の重い指定である。すばらしいことであるが、大変な責務を負ったとも言える。

 特に関心が深い場所がイリオモテヤマネコの居る西表島である。この島は単独で申請する意味がある。過去の4つの指定と同等以上に価値のある自然遺産の島である。小さな島に生存を続けてきたヤマネコの存在がある。亜熱帯の自然がそのままに残されている。

 このヤマネコの生存を守ることは21世紀の日本人の責務である。環境省はイリオモテヤマネコの生存数の完全把握をするためのプロジェクトを今年度実施することにしている。2008年の調査時点で生息数は100~109頭と考えられている。その後減少傾向という予測である。

 すでに、前回調査から13年が経過している。まず現状を把握しない限り、今後の保護計画を立てることが出来ないであろう。前回調査の100~109頭がどれほど正しいものかも、特に島の内部の調査がされていないために不安がある。すべての個体に識別番号を付ける必要があるのだろう。

 今度は島を100のメッシュに分けて、全地域に定点カメラを備え完全把握を試みるらしい。もし島の中央内陸部にイリオモテヤマネコが居るのであれば、島の内部の環境はここ50年すこしづつ人間の手が入らない状態になってきている。ヤマネコの生息には条件は良くなっている。

 一方、海岸線のヤマネコの生息が濃いとされている地域は、前回調査以降交通事故が多発するなど、開発が進みヤマネコにとっては生息が厳しくなっていると思われている。観光客の増加も海岸線の交通量に反映している。エコツアーの増加もヤマネコにとっては生息域を狭めているだろう。

 西表島の生物の生息状況から、ヤマネコが目一杯に生息するとしても150頭前後ではないかと計算されている。説によってはもう少し多く可能という見解もある。それでも200頭止まりと考えていいのだろう。また、100頭以下になってくると哺乳動物の集団数としては、下限とも言われている。その意味ではイリオモテヤマネコの生存はすでに奇跡的なものと言える。

 西表島の面積は300㎢つまり2㎢に1頭の生息である。メッシュによる調査はは三平方キロと言うことになる。数頭が一地域に重複して存在しているようなので、予想では海岸地帯が多く居るとされている。すでにカメラで確認されている地域である。島の中央部にも居て欲しいと願うばかりである。

 ヤマネコにとっての一番の危機は交通事故である。今後は1頭の交通事故も起さないための努力が必要であろう。そうしなければ、ニホンオオカミ、ニホンカワウソ、それに続く第3の絶滅種になりかねない。世界自然遺産に指定を受けたと言うことは、絶滅などあってはならないと言うことだ。

 交通事故は防げる。人間がその気になれば出来ることである。なんとしてもルールを守って貰いたいことだ。一つにはスピードが出せる道をヤマネコの生息域を突っ切るように作ってしまったことにある。これは、長年にわたる、人間とヤマネコのどっちが大事なのかという、地元住民から出た怒りが背景にある。西表島では人間のためには便利な道路建設が必要であった。横断道路も計画されたが、こちらは中止となった。

 観光のためと考えればいいのだろうか。ヤマネコにはほとんど配慮のない道路が作られてしまった。その結果ひどいときには月に1頭が交通事故に遭遇する結果になっている。最近コロナで観光客が減少している。一年半交通事故がなかった。これから考えると観光客のレンタカーが事故の原因になっている可能性が高い。私が観察したところでは住民の車のスピードもかなり早い。世界遺産の島なのだ。スピード違反の監視カメラを設置して、取り締まりを強化してはどうだろうか。

 今度の全島調査の結果100頭以下と言うことになれば、新しい保護計画を考えなければだめだと言うことになる。場合によっては捕獲して人工的な繁殖計画も必要になってくる可能性がある。又地域を決めて人が立ち入ることの出来ない場所を作る必要もある。

 全く素人考えではあるが、田んぼがイリオモテヤマネコの餌場になっていた可能性がある。現在電気柵で田んぼが囲われるようになって、ヤマネコが入れなく成っていないだろうか。イノシシは入れないが、ヤマネコは入れるような電気柵に改良を加える必要がある。

 イリオモテヤマネコは水を泳ぎ、魚や水性生物を捕食している。田んぼが放棄された場所は出来れば湿地として再生する努力も必要であろう。現在は以前の田んぼがアダンの密林化している場所が目立つ。ヤマネコも入り込めないようになっている場所が多い。水場を適度に配置することもヤマネコの生存には重要になるのではないだろう。

 世界遺産になったことで、探検ツアーのような業者がさらに増えて、西表のジャングル奥地に人が入り込むことが予測される。これは禁止すべきだろう。現在、西表で活動するエコツアーガイドは、ツアーの人数制限等検討しているようだ。しかし、ジャングルツアーの潜りの業者も多数存在するらしく、そうした、隠れツアーがジャングルを荒らし、管理が行き届かない面があるらしい。

 現状では西表島への観光客の人数制限を設けることと、入島者から費用を徴収し、西表の環境保護の資金にすべきだろう。また、観光施設等の建設が進み、生息地そのものの消失も進んでいる。もうこれ以上の開発が出来ないような枠組みも必要なのであろう。

 ただし、西表島が人のいない島になれば良いというわけではない。今暮らしている人達が、暮らして行ける条件を整えながら、ヤマネコの生息を助けて行くことだ。過去何百年にわたりヤマネコと人間の共存が可能だったのだから、人口の減少した今であれば、共存の道は必ずある。

 奄美大島ややんばるでは地元行政が踊って喜んでいた。しかし、西表島の行政である竹富町は喜んでいる様子はなかった。緊張感が顔に表われていた。もう少し複雑な状況なのだろう。今だ、人間とヤマネコとどっちが大切なのかという争いが隠れているのかもしれない。

 ヤマネコを守ることが、西表島の人の暮らしを守ることになるという仕組みを作らなければならない。屋久島では世界遺産に指定されていこう、人口減少が進んでいる。そういうことにならないように、住民の暮らしを守ることが大前提である。

 
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コロナは政府の対応では阻止できない。

2021-05-11 04:26:18 | 暮らし

三重県上空。よく描きに通った海岸線である。

  コロナ感染爆発は大阪では医療崩壊が起きている。自宅療養者が増えて、そのまま亡くなる人が沢山でている。最近一ヶ月で17名と言うことのようだ。変異株の感染を抑えることができなくなっていることがわかる。同じことが東京でも起きると見なければならない。

 政府は有効な手段を打てない。その理由はひとりひとりに感染抑止を委ねる日本の非常事態対応では、もう限界に来ていると言うことだ。にもかかわらず、政府は失敗した対応は繰返しをしている。だめになっている対応策を何度行っても無駄なことだ。新たな対応を模索するべきだ。

 政府の感染阻止か、経済優先かの迷いがあるために、いかにも不徹底な結果をもたらしているのだろう。一度感染を徹底的に抑える以外に、経済の推進も出来ない。この当たり前のことが理解できずに、政府の判断は決断が揺れ動くことになっている。

 先日、小田原から羽田までの帰途、東海道線の朝10時ごろの電車に、55才くらいの母親と20代の娘さんが茅ヶ崎で乗り込んできた。座った途端になんと缶酎ハイを飲み出した。誰も何も言えない。私のような厚かましい人間でも何も言えなかった。仕方なく席を立って他の車両に移動した。

 この常軌を逸した親子に何かを言えば、騒ぎ出すかもしれない危うさが見えた。騒ぎ出せば感染リスクが高まると思えた。その二人の姿に何か忍耐の限界を超えて破綻をしたものを感じた。おかしくなっている人が増えているのだ。昼間から酎ハイを電車の中で飲む親子を見たのは過去にもなかった。

 ゴールデンウイークの人の流れは抑えられたと菅氏は繰返し述べていた。それが唯一の非常事態を発令した成果なのだ。感染が抑えられなかったことは誰の目にも明らかだろう。本数を減らした電車に乗りきれない人がでるほどの、通常のラッシュアワー以上の混雑が起きてしまったのだ。

 コロナの感染防止には100人の内99人が感染抑止のために正しい行動を取っていても、1%の人がでたらめをやれば、感染爆発が起きるのだ。石垣市で中山市長が宮古島のキャバレーで夜中まで大勢で酒を飲んだ。こういうこと一つで何万人の努力が無になる可能性があるのが感染症なのだ。

 世の中にはこうした常軌を逸した人が必ずいる。沖縄県知事は親戚とバーベキューをやったというので批判されている。1年も我慢が続けば人間が崩壊する人もいる。市長や知事でもそうなのだから、必ず現われる。日本の感染防止方法は限界を超えたのだ。コロナとの戦いに負けたのだ。今こそ新しい感染防止策が必要になっている。

 羽田空港の木下クリニックでPCR検査というものをネットで申し込んだ。経験の無いことだが特段難しいことはなかった。二時半の飛行機だったので、午前中の最後に予約をした。ところがついつい早めに行って11時頃には着いてしまった。

 いつもより一時間ほど早く羽田に行った。どれだけ早くとも問題は無い。まてば良いだけで安心である。第一ターミナルの4階にある。京成の駅から出てまっすぐ飛行場に入り正面奥のエレベーターで4階に行く。一時間も予約より早かったが問題なく受け付けてくれた。

 混んでいては困ると思い早く行ったのだが、人は並でいるほどではなかった。PCR検査の予約だが、まず抗原検査を受けて下さいと言うことだった。2100円だったか。これで陽性であれば、pcr検査に進むと言うことのようだ。5分ほどかかる書類に記入してから、鼻の中に例の綿棒を突っ込む。充分かどうか分からないので、念入りに突っ込んだつもりだが、痛くてむせると言うことは無かった。

 窓口に提出して10分ほど待つと呼ばれて陰性の証明書をくれた。鼻の中に充分突っ込んでないと言う不安があったので、質問をした。「鼻の粘膜に触れてない綿棒であれば、何も反応がないので、やり直しになる」と言うことだった。つまりごまかして通り抜けることは出来ない。

 ここでの検査は陽性の時に病院に直行すると言うことが条件になっている。つまり飛行機に乗せないための検査である。どこの病院に行くかを書き込まない人は指定の病院に行くことになる。羽田で入院するのは医療崩壊が近そうなので、せめて小田原市立病院と書いておいた。

 全体に30分ほどで済んだ。安心とまでは言えない気分だが、必要なことだとは感じた。空いていたので30分早く出れば検査が可能だった。確か、飛行機の予約と同時に検査器具を送ってくれるシステムもある。離島に行く際は義務化する必要がある。離島の医療は常に余裕がない。

 この陰性証明書がなければ、島に入れないようにすれば良い。旅行客が増えれば、必ず感染が増加する。今又石垣島では感染が始まっている。昨日は六名の感染が出て、感染防止地区に入れられた。この繰返しなのだ。ゴールデンウイークの人の増加の結果である。旅行客も増え始めている。もう自粛の限界が切れている。石垣空港にはPCR検査の仕組みがないのは行政の怠慢である。

 ワクチンの接種が終われば、感染爆発は終わるだろう。終わりは見えているのだ。だから、ここはもう一息ぐっと堪えなければダメだ。多くの人は感染を避ける方法が分かったと思う。野外で人と離れて動く分には問題が無い。許されることを明確にすることが、我慢を続ける為には必要である。

 やはり、飲食店での会食が感染の主たる原因になっている。特に接待を伴う飲食店だ。石垣ではスポーツバーで集団感染が起きた。差別するわけではないが、宮古島や石垣島のような5万人規模の町ではかなりコロナ感染の実態が見える。やはり飲食店が一次的な原因になっている。そこから家庭内や友人へと広がる。

 例えば潮干狩りをしていて感染をしたというようなことは聞いたことがない。何が危ないか、何が安全なのかを、広報するべきだ。そうしなければ限界に達して破綻した人が、とんでもないことを始めるのだ。今回石垣に戻って目立つのが、高校生のマスク無し状態である。もう我慢が切れてきた感じだ。

 もしやれるのであれば、65才以上の老人のワクチン接種までの外出禁止である。年寄にとっては我慢の終わりは見えているのだ。政府は若者も重症化すると脅しているが、実際に死んでいる人の大半が65才以上である。65才以上の人の感染を抑えて、ワクチン接種を急ぐ。そうすれば、経済も大きな打撃を受けない。

 本来であれば、最初の緊急事態宣言の時からそうするべきだったのだ。こうした強制的な事ができないというのが日本の在り方で、確かに悪いことではない。しかし、今起きているのは感染症は、すでに緊急事態なのだ。これをやる以外に方法はない。

 もちろんワクチンを打った菅総理はマスクをして出歩いてかまわない。ワクチン済みワッペンでも作って打ち終わった人から配れば良い。そうすればワクチン接種も徹底できることだろう。いずれにしてもワクチンを急ぐほか無い。このワクチンの後れこそ日本の後進国化した現状だとかみしめ、もう少し我慢するほか無い。
 
 
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石垣島自然農田んぼ見学会資料

2021-05-10 04:39:26 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」
  石垣島での自然農の田んぼ見学会は30人を越えると思ったが、登録数二三名だそうです。参加者で開催された。コロナ蔓延のなか、気をつけての開催になった。名蔵公民館で一時間ほど話させて貰ったが、以下はその大筋である。田んぼに興味を持ってくれる人がいて、石垣で新しい農の会が生まれることになればと思う。

石垣島自然農田んぼ見学会資料 https://blog.goo.ne.jp/sasamuraailand に掲載




 小田原で田んぼを続けている。あしがら農の会で田んぼをやっている。今年耕作する田んぼが「柿の下田んぼ」という4人の仲間の田んぼだ。一反五畝あまりの田んぼである。ことし新しく耕作放棄地を復田したものだ。
 
作業/日数/参加人数
草刈り    4日 計10名
枯れ木集め  4日 計6名
ユンボ    6日 計24名
トラクター  5日 計10名
水路石組み  3日 計6名
代掻き    3日 計16名

●復田作業日数:25日
●参加延べ人数:72名

 復田の作業である。一人で行えば、72日間かかった作業だったと言うことになる。3月から、5月までの間に行ったものである。この田んぼの責任者は東さんというこれから農業をやってみようかという若い人の挑戦である。

トンボで田んぼを均している。

 私とあと2人のベテランが協力している。あしがら農の会では新しい田んぼが毎年どこかで始まる。33年前山北町の山中で開墾生活を試みた。3年ほどで食料自給の体制を調えることが出来た。田んぼも山の斜面の杉林を切り開いて、田んぼを作った。二畝あまりの田んぼである。ここで100キロのお米を収穫した。


耕運機で代掻きをしている様子。

 あしがら平野の食糧自給を計算してみると、自分のやっている実践を基礎にして、人口と耕作面積を計算してみると、食糧自給ができると言うことが分かった。耕作者がいないから食糧自給が出来ないのだと分かった。

 30年前にもこの先農業者は減少し、農地をになうものが居なくなると予測できた。食糧自給は暮らしに最も重要である。特に主食の田んぼがなくなることはあってはならない。農家が経営として無理ならば、市民が自給のための田んぼをやる必要があると考えて活動を始めた。



 そこから農の会がうまれ、現在200名くらいの人が「田んぼの会」「大豆の会」「お茶の会」「麦の会」「ジャガイモの会」「タマネギの会」「有機農業塾」と活動を続けている。耕作面積は10ヘクタールくらいである。農業者になった人が20名以上いる。


 欠ノ上にある苗代の様子。苗は共同で作っている。

 石垣島の水田を考えると。やはり田んぼの耕作放棄地が増えている。サトウキビやパイナップルへの転作が行われている。このまま行くと田んぼが沖縄本島や最近深刻化している与那国島のように田んぼが失われることになりかねないという危機感がある。


石垣島小学校の学校田田植え直後の様子

 田んぼは東洋4000年の循環農業である。環境維持能力が大きく、生態系の豊かさを支えるものである。ラムサール条約では宮城県の伊豆沼周辺の田んぼはラムサール条約に含まれている。特に冬期湛水が生物多様性の維持に重要だとされている。

 田んぼは生産の場であると同時に、環境調整機能の役割も行う。赤土の流出を沈殿池として防ぐ。大水を防ぎ、地下水の増加に繋がる。多くの生き物を育み、生物の多様性に貢献する。田んぼは生産と自然保護を兼ねた、極めて優秀な農業の場である。


名蔵の冬期湛水の田んぼ

 石垣島の田んぼの中には、冬期湛水を実現している場所がある。もしアンパルに繋がる水田で冬期湛水が行われるのであれば、自然環境の維持には重要な要素になる可能性がある。冬期湛水には環境支払いが行われている地域がある。この補助金を有効に使えば、冬期湛水が増える可能性がある。

 石垣島の田んぼの土壌は、乾くと堅くなるために名蔵湾沿いの田んぼでは通年通水を行っている田んぼが多数存在する。この田んぼに飛来している水鳥の数は多い。一般的に田んぼを通年通水すると硬盤が緩んでしまうことが多いなか、石垣島の土は特殊なものと思われる。土壌の性質は石垣島の田んぼのどこでもが同じではない。

 ただ、畦が畦塗りを為ないでも水漏れをしない田んぼが多数存在する。これは土壌が特殊である証拠である。粒子が細かく浸透性の少ない、固まりやすい土壌が多いのではないかと思われる。

名蔵の冬期湛水の田んぼ

 あしがら農の会での実践では、会費はかかった経費を人数で割る。一万円で120キロのお米の分配が基本である。参加日数は一二回ぐらいである。田植えや稲刈りへのお手伝いさんをすると、2キロのお米がもらえることになっている。

 有機農業で耕作を行い。一反当たり10俵を取る畝取りが目標である。達成している田んぼも多い。周辺の農家の田んぼの平均収量は8俵程度であるから、有機農業で二割の増収をしていることになる。

 農法はそれぞれが選んでいるが、手植えの田んぼがほとんどである。手植えでは広く出来ないと思われるが、農の会では2ヘクタールあまりを手植えしていることになる。一人の手植えは1日二畝程度である。市民の田んぼは機械植えよりも手植えの方が合理性がある。

 技術の要は苗作りで、五葉期二分ゲツの稲を手植えすることが多収に繋がっている。冬期はレンゲを緑肥として栽培をしている。抑草はソバカスを撒き、コロガシを四回行う。

 もし、石垣島でも田んぼをやってみたいという人がいるのであれば、協力したいと考えている。
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第52回 水彩画 日曜展示

2021-05-09 04:15:55 | 水彩画
第52回 水彩画 日曜展示




251「久野からの箱根駒ヶ岳」
2021.4








252「箱根駒ヶ岳1」
2021.4







253「箱根駒ヶ岳2」
2021.4






254「箱根駒ヶ岳3」
2021.4







255「箱根駒ヶ岳4」
2021.4






256「久野からの駒ヶ岳」
2021.4








257「牧場の道」
2021.4

 駒ヶ岳の絵が中心であるが、今回小田原に行って描いた絵ではない。行く前に描いた絵である。一枚だけ、石垣の牧場の絵を加えてみた。自分では最初の松の間に見える駒ヶ岳と255の駒ヶ岳が気に入っている。絵と言うより松越しの姿のことである。

 この場所にはもう一度行ったのだが、少し様子が変わっていた。次に行ったときには描こうかと思っている。この場所はたぶん誰も知らない場所だ。少し道から離れていて、気付かない場所である。人も来ないので良い場所である。

 まあ私の絵だから、行ってみたらこういう場所でないと言うことは確かだ。比べればここではない。出来ればここからの駒ヶ岳を良く知っている人が、思い出してここの場所のことは知っていると言ってくれるといいと思うのだ。

 今回で日曜展示もほぼ1年が経過したことになる。1年で257点と言うことのようだ。毎日一枚平均描いているのだから、絵は展示待ちがかなりある。小田原で今回描いたものはすべて四週間待ちぐらいになる。そのうちそんなには描けなくなって、調整が付くのかと思う。

 北斎の目指した100才までの日々の一枚を、やり遂げて画仙に生まれ変わるのが理想である。それは成し遂げたときに、画仙人になっているかどうかが分かることである。成るわけがないくらい分かっているが、ダメでもいいジャンという目標である。
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石垣島に戻って

2021-05-08 04:48:43 | 暮らし


 石垣島に戻って、まずいつもの写生地を見て歩いた。どことなく違って見えた。小田原周辺の景色に目が慣れたのだろう。また、自分の記憶の中にある風景が、藤垈周辺のものだと言うことも確認した。記憶といま見ているものとを併せながら絵を描いているのだから、何かこの辺に整理しきれないものがある事に気付いた。

 何度も同じ場所を描きたくなると言うことは記憶できるまで、その場所を描いていたいと言うことのようだ。その場所を記憶できると、それが絵として思い出される要素になって行く。いま見ているものが記憶にならなければ、絵にならないと言うことも言える。

 そして昨日は写生地で一番高い屋良部岳の中腹の写生地で絵を描いた。海の絵を描いた。この海の澄んだ色が石垣の色だ。石垣の色を記憶しようとしている。まだ見ている色の方が、記憶の色よりも明確である。完全には記憶できていないと言うことかもしれない。

 そして、午後は床屋さんに行った。コロナ陰性なので、床屋さんにいっても大丈夫だ。床屋さんに行くと何だか石垣の人になったような気分になる。お帰りなさいの床屋さんである。いつもの床屋さんが金曜日にもかかわらず閉まっていて他の初めての床屋さんに行った。農林高校の門の前にあるとこやさんだ。

 散歩していて、気がついていた床屋さんである。コロナに気をつけている目印のアマビエの張り紙のあるお店に行くことにした。幸いすぐにやってもらえた。確かに気をつけているので、ひげそりはできないと言うことだった。ひげそりは感染リスクがあるから行わない。

 「お願い出来ますか」とお尋ねしたら、「旅行者はやれません」と言うことだった。私は旅行者に見える。そのように見られている自覚もある。「いえ、住民です。桃林寺の裏に住んでおります。」それならやれますよと言うことだった。「マスクは取って良いです」ということだった。

 石垣の床屋さんはどこも腕は確かだ。まあ、私は頭の外側などどうでも良いので、誰でも腕が良いと言うことになる。さっぱり出来るんだから上等さ。石垣の床屋さんは2軒しか知らないが、ヘッドマッサージにどちらのお店も凝っている。他では経験したことがない独特のマッサージをしてくれる。シャンプーが上手だ。

 私は旅先でけっこう床屋に行っている。床屋さんは旅行ものが地元の人と接触できる少ない機会なのだ。私のように日本全国あちこちで床屋に入る人も少ないかもしれない。私がどこでも床屋に入れるのはどのように刈っていただいても全く一緒だから。短くなったぐらいしか、判断が出来ない。床屋さんでもどだい鏡というものを見ない。

 長く坊主頭で居たからかもしれない。もちろん坊主頭もいいのだが、少し相手に不安を与えそうで、今は当たり前の頭にしている。だからどのように刈り込んで欲しいなどとは言わない。好きなようにちょっと短くして下さいということにしている。床屋さんにはそれぞれ得意の髪型がある。そう言うと大抵の床屋さんは得意の形にするらしいので、それでいいと思っている。

 床屋から戻ると完全に石垣に気持ちが戻っていた。21点の小田原で描いた絵が目の前に掛けてある。今日描いた石垣の絵もあるのだが、確かに違う。石垣の夏の色と関東の春の色である。夏の色は水彩の人は緑だけで描きにくいという。

 描きにくいという抵抗感は.私の場合は問題にしない。得意な描きやすい絵を描こうというわけでは無いからだ。何か自分に伝わってくるものに向かう。見えている惹きつけるものを、なんであるのか分かりたいから繰返し描いている。

 篠窪、塩山、笛吹き、仙石原で描いた絵は色が柔らかい。良くなっていると言いたいがそこまでは言えないが、変わってきた傾向は感じる。いくらか柔らかいが、石垣の色の記憶が絵に入ってきている。絵の具を筆に付けて、混ぜるという行為が、石垣のやり方に腕が成っている。

 わずかであるが、昔なら描けなくなって終わりにした絵をダメでもいいじゃんと進めている。わずかながら難しいところを乗り切っている絵がある。上下が二分する構図が好きなのだが、その分離が絵として何とかなっているところがある。

 自分の位置にあるものと遠くにあるものの関係のようなものに惹かれるのだ。どちらかが中心になるということではなく、両方が同等のものとして描きたい。それがいつも行き詰まりの原因になってきた。しかし、それでも何年でも解決法を見つけるというのでなく、問題のまま続けている。

 問題であると言うことに意味があると考えているのだ。絵は問題がある方が良いぐらいだと思っている。何が問題であるかを絵を描きながら探っているような感覚だ。描いている内に何故そこを描きたくなったかがだんだん見えてくる。

 屋良部岳の高いところからの風景を描きたいのは、畑や家がモザイク模様のように図柄になっているところだと思えた。飛行機からの景色に惹きつけられるのと似ている。この見方が、仙人的だとか、上から目線だと言われるところだが、ナスカの地上絵のように、離れて高いところから見ないと、見えて来ないような世界がある。

 遠くから模様になってしまった甲府の町は、そこに人が沢山居ると言うことには繋がらない。その後ろに屏風のように横たわるやまも、絵の入り込んで入り込んで山という意味を失っている。絵に描くと言うことはそのものの意味を離れると言うことがある。

 画面の上では、色と線に還元されているのだが、ものの意味を完全に失うわけでもない。意味を説明するようなことはない。描いているときにはどこも同じに色と線である。現実の意味と絵の上の色との間を行き来しながら、その加減を描いている。
 
 三週間石垣で絵を描く。石垣島の風景はまだ記憶の中には入り込んでいない。繰返し描いている段階である。甲府盆地を描いているときに記憶の石垣島が出てくるようなことはあるのだろうか。子供の頃の記憶のような眼の底に焼き付いたものにはならないのだろうか。

 もう一度このあたりを確かめながら描いてみようと思う。
補足というか、二拠点居住の農と水彩画の暮らしがいかに健康に良いかが分かったので、ここに記録しておく。オムロンさんの測定ではなんと、なんと41才に若返った。41才になったのはこの数年無かったことである。
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2拠点生活小田原3週間

2021-05-07 04:06:47 | 暮らし

 舟原ため池のカキツバタ。50輪ぐらいが咲いている。ため池の風景とカキツバタは調和している。やっと見ごたえが出てきた。花が終わった時も植え替え時期と書いてある。今度小田原に行った時に混んでいる株を株分けした方がいいかもしれない。

 無事、小田原での3週間余りの生活を終えて石垣島に戻った。羽田空港の木下クリニックと言うところで、コロナ検査を受けて戻った。陰性の証明書を貰った。石垣に戻った、9日に田んぼの見学会の進行役をやることもあるので、コロナの検査は必要だった。田んぼと畑と絵を描く。これならまず感染はしない。

 今回はずいぶんと絵を描いた。農作業もしたが、絵が描きたくなる日が多かった。何よりも、友人と顔を合わせることが出来て、よかった。お茶摘みでは一年ぶり、2年ぶりという人が結構いた。七夕みたいだと言われたのだが、誰が織り姫様なのかと冗談が言えた。

 人間は一人でいるだけではだめだという事を痛感した。一人でいることは楽である。歳ををとったせいだと思うが、一人でいることは苦ではない。しかし、これは衰えに過ぎない。やはり人間の中で人は人間になる。人間関係のストレスはなければいいという物ではない。

 ストレスが起こるくらいの人間関係があってこそ人間になれる。そう考えた小田原生活であった。絵を描くうえでも2拠点生活は意味がある。ただただ絵を描いているのでは、絵に前進がない。時々立ち止まり、立ち戻り、振り返る時間がいる。

  人には自分をただす時間が必要だ。石垣の生活を小田原が正してくれる。小田原の暮らしを石垣が正してくれる。人は一辺倒に暮らしていると偏りが生ずる。人の歪みを調整してくれるのが、2拠点生活ではないだろうか。自分が飼われるのは環境が変わると言うことだけだ。

 舟原ため池の草刈りをみんなでやった。確かに草刈りはやらなければならない仕事である。しかし、この美しい場所を作るという草刈りが、とても良い時間になっているのだ。一年一年、舟原ため池は良くなっている。農業遺構としての意味を含めて、地域に必要な場所だと思っている。

 この素晴らしい場所を復活できつつあることが嬉しい。つまり、自分にとっては大きな庭である。こんな素晴らしい庭はないと思う。そしてその大きな美しい庭がみんなの庭として喜んでもらえる。舟原に暮らさせてもらったおかげである。

 今年はため池の上の畑で、タマネギとジャガイモが作られている。ずいぶんと整備が進んで、実に作物が良くなっている。過去最高の出来だ。タマネギは種からの苗作り、苗を植え付けて見事な球になった。ついに一年分の自給が実現しそうである。

 農の会の有機農業技術の向上がある。偉そうな理屈を主張しても、立派な農産物が出来なければ、何にもならない。有機農業は生産の合理性においても、慣行農法以上だという事を証明したい。市民の農業が農家の農業以上のものであることを証明したい。

 何度もタマネギ畑に行った。見上げれば、箱根の山々。遠く相模湾。はっきりと房総半島が見えた。こういう日が年に一二度ある。ため池にはカキツバタが咲いている。カキツバタは2018年7月に植えたものである。確か9株を購入して植え付けた。3年目という事になる。一株だけ種から、成長して花を咲かせたものがある。本来あったものではないことは明確にしておく。

 ため池にカキツバタを植える前に地球博物館に相談したら、何と生物の攪乱になるからやめるべきだという説明であった。その環境原理主義に驚いた覚えがある。とても、こういう感覚では環境は守れない。ため池は手を付けづに居たら、ごみ捨て場になったのだ。何のための地球博物館かと驚いた。

 浮世離れしているとはこのことだ。美しい場所にしなければ、守ることはできない。草刈りもするべきでないという事か。そうしていてただの荒れ地になり、イノシシのヌタバになったのだ。確かにキショウブはある。ほっておけば、帰化植物に占拠されるのが、今の日本の自然である。

 管理して初めて、環境は守られるのだ。美しい場所になり始めて環境の維持をする人が現れ続いてゆく。舟原に引っ越して以来、広い庭だと思い、始めたことだ。だから続いた。初めてため池に散歩に行ったときにオシドリが泳いでいた。その景色に感動をした。そこがごみ捨て場になって、何としても復活したいと考えた。そして、15年が経過して、だいぶ良くなった。



 溜池の周囲の耕作放棄地だった場所は地主さんの下田さんが復活した場所だ。自分の耕作地を削り、道路をため池まで延ばしてくれたのだ。そのおかげで、溜池の復活も出来たし、周辺の農地が維持されるようになった。もう下田さんは亡くなられたが、1.3ヘクタール余りの農地の維持はおかげで継続されている。

 今小田原市久野で農の会が管理をさせてもらっている農地は4haを超えている。そのほかあしがら平野一体には、もう少し広くあるだろうから、10haは管理していると思われる。市民が自給の為に管理すると言っても、大規模農家が管理する面積を管理できている。しかもどちらかと言えば、農家が経営には向かないとした、条件不利農地である。

 石垣の名蔵公民館で9日の午後、この話をさせてもらう。私に何が出来るのかはわからないが、石垣島に有機農業で田んぼをやりたい人がいれば、その協力はできると思っている。なぜ、市民が行う有機農業の田んぼが、石垣島に必要かと言えば、このままでは田んぼが放棄されてしまうからである。

 政府の政策が良くないために、稲作農業は経営が困難になっている。だから条件不利な田んぼから放棄されてゆく。しかし、田んぼの持つ環境への貢献度は大きい、サトウキビや、パイナップルでは、生物多様性の維持は出来ない。むしろ赤土の流出を起こし、環境に害を及ぼしている。

 経営が出来なくて止めてしまうならば、自給の為の農業であれば可能ではないかというのが農の会の活動の考え方である。有機農業で田んぼを維持する。田んぼは家庭菜園よりも管理は楽である。水があるために畑より日常管理は楽なのだ。

 しかも、名蔵アンパル周辺には放棄されたり、畑に転換されたりしている田んぼがかなり存在する。ここが冬水田んぼとして維持されることは生物多様性を維持するためにも、あるいは赤土の流出を防ぐためにも、有効なことになる。

 ラムサール条約では田んぼを湿地として認定されているところもある。アンパルの環境を守る為にも、アンパル周辺で田んぼを復活させることは大きな意味があるだろう。今ならば、放棄地は一部に過ぎない。今こそ市民が田んぼをやる絶好機だと思う。

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箱根仙石原で絵を描いた。

2021-05-06 04:46:16 | 水彩画


 箱根仙石原で絵を描いた。仙石原は箱根のカルデラの内側にできた草地と湿原である。光の入り込み方が微妙な場所で、描く時間でずいぶん風景が変わる。家からは1時間はかからないので、以前から時々描きに行く。人のまずは来ない絶好の場所を見つけているのだ。

  5月初めのこの時期のみどりは、標高でずいぶん変わる。早春の淡い色を描きたくて、仙石原に行った。石垣島の強い緑ばかり描いていて、淡い緑に懐かしくなったきた気がする。この春を知らせる色は心躍るものがある。そもそも石垣島では厳しい冬がないから、春が来たという感動は薄くなる。

 仙石原の面白さはやはり回りが外輪山で囲まれていて、カルデラ内が光が微妙に廻っている。あちこちに乱反射しているようで、光がまるで舞台を照らしているように感じる。そのせいなのか、景色がとても治まっている。どこか箱庭のように出来上がっていると言ってもいい。

 今回の小田原の3週間はずいぶんと絵を描いた。半分農作業、半分は絵を描いた。笛吹市から塩山方面。そして、篠窪。仙石原。仙石原は今まではあまり描かなかった。箱根を描くという事になると、どうしても箱根駒ケ岳を描いた。表側からも良く描いた。そこは中川一政氏が描いた場所である。また、裏側からもなかなか良い場所がある。

 それが駒ケ岳が描きたいという気分には少しもならずに、仙石原の当たり前の風景を描きたくなった。少し気持ちが変わったようだ。厳しい噴火した山の力のようなものより、普通に人の暮らしている場所の方が描きたくなっている。
 
 絵を描く意識が少し変化しているのかもしれない。変化していれば素晴らしいことだと思う。絵が良くなろうが、悪くなろうが、まずは変化するということが大切だと考えている。同じところにいるという事は、どんどん衰えているという事である。

 絵を描くという事は以前の自分を乗り越えるという事だと考えている。どうしても年を取ると自分を固定化して変えることができなくなる。それを少しでもぶち壊し、次の自分を掘り起こしたい。絵を描くという事は画面が出来上がるという事だ。

 出来上がった絵がすべてである。絵が前に進んでいなければ、絵との向かい合い方がおかしいのだ。絵は自分の思い以上に結果を表している。絵を見て、自分の日々の暮らし方を問うほかない。そうして自分を掘り返していきたい。

 4か月ぶりに小田原に来て、絵がいろいろのことを確認させてくれた。仙石原の風景が絵を描くうえでの大切なことを思い出させてくれた気がしている。仙石原には水彩画の大先輩の栗原さんの家がある。以前みんなで泊めて頂いたことを思い返していた。

 あの時は月に一回小田原に来て一緒に絵を描いていた山吉とし子さんも一緒だった。あの仙石原の旅行が最後の旅行だった。素晴らしい絵を残して亡くなられた。山吉さんの絵が手元にある。絵を見ると思いだすことが山のように出てくる。

 仙石原で絵を描くとどうしてもそうしたことも含み込まれる。絵はその人の記憶とともにある。描いているときには何か思い出しているわけでもない。ただ目の前の風景と向かい合って、何とか目の前になる素晴らしいものを描けないものかとしている。

 改めて絵を見てみると、その時には思いもしなかった記憶が絵には含み込まれている。そういえば、山吉さんとは月に一回久野の家の周辺で描いたのだから、久野はほとんどを描いた事になる。午前中描いて、午後はその絵を並べて感想を語り合っていた。

 もう少しちゃんとした絵を描かなければ、亡くなられた人にも申し訳がない。何故そんな気持ちになるのかはわからないが、それ以外やれることもない。記憶という物は実に不思議なものだ。目の前に見えているものは記憶と重なり合いながら絵になる。

 仙石原が霧にかすむなかで絵を描いていたので、そうなったのかもしれない。記憶には良くセピア色という言葉が言われるが、記憶の中にある色彩に現実の世界で出会う事がある。この早春の色彩は私の中の記憶の色なのだと思う。

 淡いオレンジのような色のような気がしている。その色が絵に現れると記憶の中の風景に引き込まれてゆく。その風景は山梨の藤垈なのだ。その風景は自分の中に沁み込んでいる。目の前の風景がそれに重なり合うと絵を描きたくなるのかもしれない。

 そんな過去のことばかりを考えるようになったのは年を取ったという事かもしれないが、子供のころに沁み込んだ色彩はどうしようもないようだ。自分の目はその10歳ころまでに作られてしまっているようだ。私が惹かれるものが10歳ぐらいまでの景色に由来するのは当然かもしれない。

 仙石原の色彩は確かに子供のころの藤垈の色に近い。石垣島の風景を描いていて、そのことを改めて思い出した。強い緑の風景ばかり描いていて、余計にそのことが意識されたのではないだろうか。人間の感覚は繋がっているから当然と言えば当然である。

 これからも石垣島と小田原とを2拠点生活を続けたいと思う。いつまで続けられるかわからないが、絵を描くうえでは重要なことになる気がしてきた。小田原からなら、山梨に行くことも難しくはない。季節ごとに来ては絵を描く。自分の変化の確認になるのかもしれない。

 今回の小田原の3週間はそういう事が確認できたような気がした。石垣での暮らしが定着してきたという事でもあるのだろう。あと何年こうした暮らしが出来るのかはわからないが、この貴重な時間を大切にしたいと思う。
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