地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

韓国の観察

2017-09-15 04:31:30 | Peace Cafe

韓国では朴大統領が収賄容疑で罷免され、新たな大統領が選ばれた。文大統領は革新系の大統領という事のようだ。韓国は日本とよく似ている。そして、やることが日本より徹底している。日本は先行する韓国の結果を見て、行動する必要がある。アメリカに従い日本の外交方針を決めるのではなく、日本は日本の外交を行わなければならない。それは独立国として当然のことである。戦後の日本は外交に関して一度も独自の方針を持てたことがない。アメリカの陰に隠れ、アメリカの意向に従い、動いて来ただけである。しかし、アメリカもアメリカファーストに変わったそうだ。日本に対してひたすらTPPをやれと主張していたアメリカだったはずだ。その主張した本家の方が降りてしまい、どうしたらよいのかわからないのが、日本の現状ではないだろうか。いよいよ日本は日本独自の方針を立て、進まなくてはならない時代に入っている。その時に、先行事例になるだろう国が韓国である。

韓国は5000万人の人口の国なので、日本より徹底できる。北朝鮮は2500万人の国なので、さらに徹底している。オリンピックで頑張るとなると、この人口で日本よりメダル数が多いいのが韓国なのだからすごいものだ。韓国は歴史的に中国の影響が強い国だ。文化的にも中国文化の中で朝鮮文化を維持するという事は、日本より難しいところがあった。今の中国のことは日本にはあまり参考にならないが、韓国を見ていると、実に日本の参考になることが多いい。失敗も成功も、先にやってくれるからである。中国との付き合い方でも、実に学ぶところがある。あんなにすり寄った朴政権が、サード配備で対立が急に深まった。進出企業への圧力が高まっている。すり寄った性急な行動も、サード配備に急いだ、アメリカ依存も、結果を見れば日本の参考になる。北朝鮮対応も実に目まぐるしく変化する。人道援助という事で800万ドルを北朝鮮に対して行うとしている。アメリカの言いなりにはならない独立国なのだ。

韓国に学ぶという事は、どちらかと言えば反面教師。韓国のようになってはならないという事もある。金メダルが多ければいいというので、やたら強化するようなことは良くないことだ。スポーツエリートを作るという事は、その反面で国民スポーツというものが軽視される。農業政策もそうだ。極端な工業偏重で農業はほぼ壊滅的と言われている。食糧など輸入しておけばいいという事で食糧自給率は24%と言われている。都市近郊はすでに農地は失われてしまった。こういう環境で果たして人間がどういう事になるか。韓国人をよく見てみることだ。もし日本人が韓国を問題だと思うのであれば、農業が混在する大切さを見直さなければならない。食糧自給率を何とかまずは50%まで戻す努力をしなくてはならない。合理性だけで割り切ることで失われるものがどれほどあるかだ。沖縄本島から田んぼが失われてしまい、寂しい景観になっている。サクラメントは日本人移民が田んぼを作り、雨が降るようになったと言われている。沖縄は基地の島の印象が強い。基地を返してもらったら田んぼ復活運動を展開したらどうだろうか。

人間が生きてゆくという事は、経済の合理性だけでは割り切れない。日本だって8000万人の健全人口になれば、食糧自給率は60%には回復するだろう。国際競争力の強化を農業分野にまで主張するのは間違えである。競争力は低くとも、綜合的には日本の国柄を守り、環境を維持しているのが農業である。グローバル企業の利益は、日本の国益を超えて動き出している。韓国企業のこれからをよく観察する必要がある。企業が良くならなければ日本は衰退するというのは、企業の在り方次第だろう。韓国の企業はグローバル企業が産業のかなりを占めるようになって、国の運営すらゆがめられた。政府と結びついて不当な利益を上げているというので、トップが有罪になった。この点でも日本は学ばなければならない。効率だけではないのだ。競争だけでないのだ。その前に日本がどこに向かうべきなのかを考えなければならない重要な地点に来ている。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軍事上、沖縄の位置特別でない

2017-09-14 04:26:53 | Peace Cafe

「軍事上、沖縄の位置特別でない」 ペリー元米国防長官が朝日新聞のインタビューに答えている。普天間基地の辺野古移転計画を立てた責任者の発言である。何故辺野古移転に決まったのかは、政治的経済的結論と述べている。全く当然の発言である。米軍基地が沖縄に集中してきたのは、歴史的産物である。沖縄に米軍が上陸して、地上戦を行い沖縄を占領し、戦争に勝利する。そして、アメリカは沖縄を1972年まで占領下に置いたのである。その間沖縄の米軍基地は、アメリカの行った朝鮮戦争、ベトナム戦争と、という悲惨な戦争を支えた軍事拠点だったのだ。その後遺症のような形が、今の沖縄の米軍基地に継続されている。アメリカは沖縄の軍事基地を中国とロシアをにらむ拠点の基地として考えているのだ。今はそれに加えて北朝鮮が出てきた。その中に、日本の防衛という同盟国としての共通の利害の意味も含められているに過ぎない。

沖縄の米軍基地はあくまでアメリカの世界戦略に位置づけられている。トランプ大統領は愚かにも、日本を守っている基地なのだから、日本が全ての費用負担をしろなどと無知な意見を述べて愚かさをさらした。それなら是非とも帰ってくれと言いたい。日本の米軍基地がアメリカを守るためだけのものであるという誤解を、北朝鮮の核ミサイルの脅しが始まり、いくらかは自覚し反省しているのではないだろうか。アメリカファーストとよそのことは一切知らない。と言ったところで、世界はその経済力にふさわしい責任を持たなければ、アメリカ自体が成立できない状況であること位理解しなければならない。日本はアメリカの同盟国として、アメリカの軍事力下に存在している。70年間その意味ではアメリカの意図通りにしか動けない国で来た。アメリカはこの間世界で一時も休まず、戦争を繰り返している。日本もそのアメリカの国益に添うように、へつらい後方支援で忖度し従ってきた。

それが安倍政権の理由なき中国仮想敵国政策になっている。中国がアメリカを脅かす、経済規模の国に近づきつつある。ロシアは2014年のウクライナ紛争以来世界と対立を深め経済封鎖を受けている状態である。中国をも機会を見て、そういう立場に追い込みたいという希望があるのだろう。それが、アメリカおよびヨーロッパの利害でもあり、国民感情でもある。国民感情とは白人優位意識である。ヒットラーを産んだ思想に近い意識が白人の中には根強くある。中国の台頭に対して危機感がある。日本が競争力を高めた時に白人の中にはある種の敵意が芽生えた。しかし、小国日本に対してはまだ余裕で対応できた。そこで日本はあくまで白人の配下であるという姿勢を崩さず、何か卑しい姿勢をとることにした。フランスでは日本の総理大臣の訪問に対してラジオのセールスマンが来たと揶揄した。安倍氏の態度の中にはそういうゆがみがいまだに見える。逆らわないので助けてくださいというような、卑屈な空気がある。

中国は大国意識が強い。白人に劣等感がない。白人には中国恐怖感がある。そこで、日本を手先に使って、中国ににらみを利かそうという力学が働く。そのアメリカの意志を忖度して行動しているのが安倍政権である。石原氏がそうであった。なぜか日本の国粋主義者というものは、アメリカ配下の国粋主義になる。あの、右翼の赤尾敏氏も渋谷のハチ公前でそのように叫んでいた。まるでその歪んだ精神状況が反映したのが、尖閣諸島である。棚上げされていたものを石原氏が無理やり政治問題化させたのだ。アメリカで都有地化することを記者会見した。何たるみじめな猿芝居か。こうしてアメリカのご機嫌伺のように、中国との国境問題を顕著化して、日本国民を反中国に仕立て上げてきた。お先棒の報道機関は、中国漁船が押し寄せたとか、面白おかしくはやし立てる。そして、先島諸島を軍事拠点化しようという動きを強める結果になる。遠からず、先島諸島にスタッドミサイル基地の建設という事になる。すべてはアメリカファーストの結果である。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家督制度が終わる

2017-09-13 04:06:33 | 暮らし

家督制度は終わろうとしている。それは封建制度の社会の終わりを意味するのだろう。封建主義思想が克服されたというより、いつの間にか、家の価値が失われていた。というのが実感である。昭和初期の世代ではまだ家という意識が残っていた。父にはそういう圧迫があったようだ。笹村の家から出るという意味で、私の名前は「出」なのだそうだ。それくらい父には家を振り払いたかったのだろう。父は次男で家督制度的には家を出る人間であった。ところが父の兄が彫刻家になり、家督を継ぐどころではなくなった。祖父は早く亡くなり、親の面倒から兄や弟の面倒までみるようになった。父は生活の才覚のある人で、人の面倒を見るのが生きがいのような親分肌の人だった。笹村は土佐藩の御典医だった。曾祖父に当たる人が、幕末に江戸に出て文学者の道を歩んだらしい。今でも明治時代のその人の書物が古書として出回って居る。祖父は日本画を学び、今でいうイラストレーターになり、学校に収める展示用の植物図鑑などの大きな巻物の絵を描いて居たらしい。今はあるのかどうか、私の子供の頃の地図はそういう黒板一杯の絵巻物のようなものだった。

父は笹村の家というものを背負って生きていた。若かった弟や家族全ての生活を支えた。民俗学を柳田国男氏から学んだにもかかわらず、学問を続けられなかったことを悔やみ続けた。7年間戦争に行ったという事があり、帰還してからは、笹村の家を支えなければならないと働いた。封建制度がまだこういう形で生きていた。そして私に出るという名前を付けて、笹村の家の縛りを抜けでろ、吹っ切ろうとした。それもあってか子供の頃から私は家というものを問題あるものとして意識してきた。意識していたから、その家制度が消えてゆく時代を注目して眺めていたことになった。家を支えるための人生というものをたくさん見てきた。人生の目的が家を守るという人を見てきた。舟原でもお婿さんを迎え、家督を守った家が少なくない。つい50年前までは日本中に封建制度が生きていた。家というものが人の生き方を制限していた。

それがいつの間にか家は消えている。これはこの50年の日本の変化で一番良かったことではないだろうか。家を支えよう、維持しようと生きてきた人にしてみれば、何だったのかとがっかりがあるかもしれない。しかし、家から抜け出られないという重荷によって、生き方を変えた人も多かったはずだ。そこには民主主義というか、西欧の個人主義というものの成熟があるのだろう。封建制度を克服したというより、自分というものがどうあればいいかの方が、家より大切なものになった。お家の為ということで弁解できない自分の一生が立ち現れた。家が人の生き方より、重い価値観として生き残っている社会は消えた。封建主義はいつの間にか克服された。しかし、実に困った風潮だとまだ考えている人も居るかもしれない。この点では克服まであと一息で、後戻りすることはないだろう。

家督制度の消滅は地方消滅とも結びついている。地方社会自体が消え去ろうとしている。こちらは絶対にあってはならないことだ。地方という言葉で言うが、つまり日本が失われるという致命的なことに陥る。その地方に残る人たちだけでは地域が維持できなくなっている。故郷に残り家督を守る人はもういないのだ。何とか新しい人たちを受け入れようとしている。そうなると地方に残る封建的な考え方を一層せざる得なくなっている。善悪ではなく、自分がそこに生き残るためには、新しい人に来てもらわない訳には行かない。日本が生き残るためには、お家大事の発想は捨てざる得なくなった。それは家や日本という国を弁解にすることができないという世界に入るという事である。自分自身の一生がどうであるかである。どのように自分一人の生きるを成し遂げるかである。身分でもなく、業績でもなく。生身の自分の日々の生活の中に何を見れるかであろう。まあ偉そうに次の世代の人たちには余計なことではあるが。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵に従う。

2017-09-12 04:36:43 | 水彩画

水路に曼殊沙華が咲いた。多分稲作とともに渡来した植物である。畔をモグラやネズミから守るために植えたと言われている。球根に毒があるが、飢饉には処理をして食べたそうだ。

絵を描いて居る時の気持ちは結構不思議なものだ。何処までも意識的な行為なのに、自分というものがいないような感じなのだ。絵の世界からの呼びかけに従っている。自分の意思なぞ出したところでどうにもならないという精神状態にいる。目の前の景色を絵を描く目で見ている内に、何処からか絵が浮かんでくる。この時はまだどのような絵になるかまでは見えない。ただ、この絵はここから描きだして、何とかなりそうだという程度の事は分かる。それは例えば上からの時もあれば、中央から始まるときもある。左上もあれば、左下で始まることもある。なんとなくその絵の行き先がおぼろげながら見える。筆を入れるとどう描き続けるべきなのかという事が、見えてくる。最初が見えないと始まることができないのだから、その時はどこか飛び越えるような気分も含んでいる。いつものやり方という事はない。絵はいつものように描くという、手順を作ったところでどうにもならないと思っている。絵を描くというのは今までにないことをしたいという事になる。

だから、出たとこ勝負のような感じも含めて絵を描き始める。ずいぶんいい加減なようだが、始まりは緩い感じで始まる。ときには描きだしてすぐダメだという事もない訳ではない。それでもたいていの場合は、描きだすと30分ごとに一呼吸をするような感じで、4回ほどを繰り返す。2時間ぐらい描くともう描くことがない。絵を描いて居るときは静かな日常的な精神状態である。興奮している感じはない。どういう訳か事務的に手が動いているような感じだ。次々に現れてくる、このように描く、こう描くという感じが繰り返される。そして描く場所もないとなって、それ以上は出来ないという事で終わる。そして翌日また日を改めて、描き継ぐことが多いい。また30分ごとに一呼吸で4回ほど現場で描く。絵のほうからこう描くのだという指示があり、それに従っている感じが強い。自分の絵がこうだから、こういう風にしてみようという事はまずない。

家で絵を始めるという事は全くない。見ている場所に惹きつけられ、絵にしたいという気持ちが湧いてこない限り絵は描かない。描いたところで無意味だからだ。だから、何か月も描かないことが普通だ。描きだすともう四六時中という事で描き続ける。法則などなく、ただ気分に任せているだけである。こうして現場で描いてきた絵は暮らしている場所に飾っておく。いつも見えるところに置いておく。額に入れたりしてきちっと飾る。ある時絵に呼ばれる。こうしてくれと絵が言うのだ。そうすればよい絵になるというのではない。良い絵にしようと書いている訳でなないのでそういう事になる。そこをそうするべきだ。そうしてくれと絵が私に示している。それで結果は分からないが従いやってみる。そんな感じで絵を描き継ぐ。呼び出しがないならば、それが絵が終わったという事ではないかと思うので、保存箱にしまう。

結局絵に従うのだ。絵は絶対者のようだ。分からない何かに向かって動き出す。良い絵に至ろうとしている訳ではない。自分というものが立現れるようにしたいのだ。その絵が自分が納得できる絵であればいい。何故くどくど他の人にはどうでも良い自分の絵の描き方を書き記すかと言えば、自分の絵を描いて来る時の状態を確認したいからだ。ブログで様々なことを書くのと同じだ。書くことで考えが明確になる。自分が明らかになる。記録することで自分の頭の中が見える。絵を描くのも同じ気がしている。自分の見て切る世界を確認している。このやり方が良いのかどうかが分からない。自分にとって良い絵というものが分からないという事なのだろう。そこで、自分の根源の希望のようなものにゆだねているのだ。特別のものが出てくるというより、自分の当たり前が出てくるのではという期待だ。そしてこのひたすら普通に描くという事が、何とも自分が生きているという事のような気がしている。何処から来て、何処に行くのか。絵という明かりを頼りに歩いている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲の種取りについて

2017-09-11 04:02:42 | 稲作

種取りの予定の田んぼ、左半分が一本植。1本植の方がくっきりと緑が残っている。4本植えは実りが早い。たぶん1本植の根にまだ活力があるのではないか。何故こういう違いが起こるかが稲作の面白いところだ。これを見ても1本植の方が良い稲作になるのかと思える。左側から100株を種として残すつもりだ。種取りは当然だが、1本植でないとできない。

稲作では種取りを毎年してきた。今年もするつもりだ。しかし種取りと言っても今までのやり方はいい加減なのものだったとことを痛感している。昨年は種籾の更新をした。サトジマンなのに背丈が110センチ以上になるので、不安が生じた。倒伏した一つの原因ではないか思われた。出穂の時期や分げつ数にも乱れがあるのを感じた。サトジマンは良い品種である。この品種を長く作り続けたいと考えている。有機農業で作りやすく、畝取りができる。その上おいしくなる特性がある。味は好みだから、私の好みの味の品種と考えた方が良いのかもしれないが。ある程度のさっぱり感が好きなのだ。昨年種取りは種取り用の田んぼで、心してやらなければだめという事が分かった。サトジマンは90㎝の品種と言われているが、それは間違いだと今は考えている。慣行農法でのサトジマンは90㎝という事だ。

稲は遺伝的変化が起こりやすい作物のようだ。背の高くなる株。分げつしない株。小さい穂の株。粒張りのそろわない株。出穂が早まる株など様々である。種取りは普通の株で行いたいと思う。分げつしない株の種を種取りしてしまえば、分げつしない株が一気に増えることになる。8キロの種もみを使う。おおよそ100株の稲から採ることになる。100株のうち1株に分げつしない株があれば、1%の稲は分げつをしない株になりかねない。これは大打撃だ。現在分げつが10以下の株は0.1%ぐらいか。分げつの事だけではない。1穂が100粒を超えないような株も困る。普通120粒ぐらいになっている。これは幼穂形成期に根の活力が最高の状態になっている事も作用している。幼穂には120粒は超えるお米になる資質がある。ところが幼保が形成するころに十分に根の活力がないと、あるいは肥料がないと、80粒ぐらいまでで後は退化してしまう。この退化してしまう傾向や分げつしない事が肥料の問題だけなら良いのだが、稲の遺伝的な性格であって、それが種籾に含まれることも困る。

1本苗でも25分げつし、120粒の大きな穂を20以上つけてくれる株を選抜する。それでいて、味もそこそこであれば願ったりかなったりだ。病気に強いという事も重要だから、病気が出たような株は用心深く種籾から外さなければならない。粒張りが良いという事も必要である。100粒重量がどの位になるかも測定の必要がある。今年は、種取り用の田んぼで種を取る。1本植である。確かに分げつの少ない株もある。これが一つでも混ざれば大変なことになる。手刈り、手で脱穀して、種もみ分だけ別扱いしてみたい。

来年は田んぼ全体を1本植を中心にしてみたい。かなり地力が出てきたようで、1本植でも25分げつが取れるようになってきた。1本植の方がいくらか背丈が低くなる。出穂も数日遅くなる。色が浅くなるのも遅い。3~5日間ぐらい差があるように見える。1本植の方の方が下葉枯れも少なく見える。出穂のばらつきにも、植え付け本数の影響が出るようだ。その意味では水口には多く植えるというのは一理ある。1本植の方が種取りがしやすい。2本植えてあれば、どちらかの株に遺伝的な偏りがあるが、見た目で分からなくなっている場合がある。当然種取りするなら1本植でなければならない。何年も種取りを継続していたので、品種特性が揺らいだのはここにも原因があったのだと思う。他の品種からも距離がある場所が良い。苗床だった場所もダメだ。よその田んぼの苗も作っているので、他の品種が混ざる可能性がある。

今年は意識して10番田んぼでは半分は1本植にしている。そこから良い株を100株選ぼう。それで何キロのお米になるかを計れば、一粒の種から、何グラムのお米になるのかが正確に確認できる。これを毎年確認すれば、その年のお米の出来が良く見えることになる。ではどういう100株を選ぶべきかと言えば、25分げつ以上の株。背丈の普通の株。止葉の大きく葉巾があり、葉の厚みのある株。穂の120粒の株。無効分げつのない株。病気のない株。出来れば出穂の遅い株。欲張れば切りがないが、種籾はそれだけ力を入れて、選抜した方が当然良い稲作が継続しやすくなる。しかし、気お付けなくてはならないのは、良いもの良いものと選抜するのも危ういことになる。特殊な素晴らしさより、普通に可能性を安定して発揮している株を選びたい。

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貧困と中流意識

2017-09-10 04:09:01 | 暮らし

多くの日本人が中流と意識しているということだ。今の暮らしに満足という日本人が73%という内閣府のデーターがある。その背景にあるものを考えてみたい。日本発の大企業がグローバル化して、日本の国益とは違う動きを始めている。世界情勢は一国主義が顕著になり、深刻な対立が起こりそうな動きである。世界ではテロが絶えることなく続いている。お隣の北朝鮮は日本にいつでも核ミサイル攻撃ができる状態になった。日本人の暮らしは格差を広げている。人手不足が言われる中、深刻な労働環境の悪化。ブラック企業とワーキングプア―。多くの日本人が明日は我が身という不安を抱えながら、その思いを潜在化させて、自らを中流だと意識しようとしている。自分の周りにある貧困を、あるいは自らの貧困やあるいは顕著化している富裕層の存在に、目を向けようとはしていない。日本人の実態はどこにあるのだろうか。

アベノミクスなどという意味不明な経済の方向にいまだ希望を捨てきれないでいるのが今の日本なのか。日本自体のことは見えにくいとすれば、トランプアメリカと韓国の状況を考えて見たらどうだろうか。両国とも危うい綱渡りに見える。北朝鮮が今や標的になり、異端の狂気した国家と見られているが、アメリカも似たり寄ったりで変わらない。アメリカはトランプの叫び通り、世界一の軍事大国で、弱い国をいつでも踏みつぶせる国家だ。北朝鮮への先制攻撃は近づいている。そういう軍事大国が世界の警察をやめた。その理由は国内の貧困層の拡大である。世界一の経済大国がその豊かさに満足できず、あがいている。韓国では一部のグローバル企業に極端に重点を置いた。その結果国内が空洞化し、安定した暮らしが失われ始めている。行き過ぎた能力主義が不安定な社会を作ってしまった。農業の崩壊が地方経済の崩壊につながっているらしい。そして中国の一国主義によって、進出韓国企業への圧迫が始まっている。大国アメリカも、後追いの韓国も、危機を高めている。これは日本の近未来にも当てはまることではないだろうか。

中流意識と暮らしの実態とは別である。増加する生活保護や社会保障に対する批判が、日本社会には根強くある。生活保護を受けている人の暮らしと自らの暮らしが逆転現象が起きている場合もある。必死に働いて、やっと暮らしていて未来の展望が持てない状況が日本にはある。改善されるべき状況であるにもかかわらず、その抜け出せない状況を受け入れざる得ない気分の蔓延。広がり始める中流層の不安定化。日本人が中流意識をあえて持とうとしているかのようだ。それは貧困の民俗的記憶にあるのかもしれない。人間が抱えていた貧困の記憶は飢え死にする状態である。確かに現状の日本の貧困層は飢餓状態にまで追い込まれた状況ではない。回りからは貧困が見えない程度のものだ。問題は徐々に広がり始めている格差にある。格差とは収入だけでは見えないものだ。

子供の貧困を数値化しているものがある。ーー貧困率とは、世帯収入から国民一人ひとりの所得を試算して順番に並べたとき、真ん中の人の所得の半分(貧困線)に届かない人の割合。子どもの貧困率は、18歳未満でこの貧困線を下回る人の割合を指す。ーーと新聞にあるが、一つの指標であるとは思うが、どうも貧困の実態をとらえ切れていない気がする。貧困率とは格差の存在を明らかにするものだろう。全体が高いレベルの国の貧困と、国自体が貧困に陥っている国では、この数値では意味がまったく違ってくる。そこでもう少し実態に即して貧困を探る必要があるといわれている。海水浴、学習塾、遊園地、デパートでの買い物などの機会の調査が必要という事らしい。さらにわからなくなった。私は子供の頃その何処にも行ったことがないからだ。今でも同じではないだろうか。昔は耕作地を持たないので、子供まで鎮仕事でしのいでいる家庭が貧困家庭だった。

どのような子供の機会が豊かさの指標なのかの意味が違う。「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」懐かしい日本のふるさとでの機会は、完全に失われている。これこそを貧困な国だと私には思える。この感覚は指標には現れないが、幸福度の数値には必要な材料だろう。〇生き物を飼い、子供を産ませたことがあるか。〇自分で作ったものを食べたことがあるか。〇山や川で採ったものを食べたことがあるか。〇人の死をみとったことがあるか。こういう調査が必要なのではないか。私が思う豊かさとは、学習塾に行くようなことではない。人間らしく生きるという事が分からないと、消費社会における豊かさの指標に巻き込まれる。消費者としての豊かさではなく、生産者としての豊かさ。幸せな社会とは何かという事だ。子供が好きなことを見つけられる社会。子供が自由に好きなことを見つけられる社会。その好きなことを磨いて、仕事にできるか、少なくとも続けられる社会ではないだろうか。田んぼが好きな子供が、田んぼを出来る社会である。

学習塾に子供たちが夜中に通っている。果たして豊かな子供と考えていいのだろうか。夜中に、そこだけ明るくなった建物から子供たちがぞろぞろ出てくる。自転車に飛び乗って忽ちにいなくなった。子供は勉強に頑張っているのだろう。大したものだと思う。しかし、勉強しなければ社会から振り落とされるという、強迫観念にあるのではないかと、心配にもなる。そういう社会が受け入れられてしまっているが、いつまでもそれでいいのかという事がある。日本の子供たちの環境では、絵を描きたいというようなただただ好きな事を見つけている訳には行かない空気がないか。生活のできるという前提がついてしまうのではないか。今までは何時の時代もそうではあったが、これからはそれを取り払い、好きなことを突き詰めることが可能な社会を作らないといけないのではなかろうか。何ができないから貧困であるではなく。何ができるから豊かな社会だという尺度を考えるべきだろう。

明日の役には立たない事をやっている訳にはいかない社会が貧困な社会ではないか。明日、明後日には関係ないかもしれないが、80年という人生の豊かさでは役に立つことはさらに別にある。つまり、実益のないことの中にも豊かさにつながることはある。収入で貧困を考えてもあまり意味がない。相対的貧困よりも、絶対的貧困を考えた方が良いのだろう。食べるものが充分にないという状態が貧困である。アメリカでは貧困層の方が、太っているそうだ。ジャンクフードしか食べられない貧困。きちっとした食事ができているのか、という事を貧困の目安にしたらどうか。親が子供にきちっとした食事を与えられないというのも、一つの貧困の姿だ。収入はなくとも、自給生活ならば、豊かな暮らしだ。

自給的な豊かな暮らしをしている人が、社会で言われる収入的には貧困層であるという事がある。自給的に暮らしていると、収入がなくとも豊かという事がある。中流の暮らしを考える上では、江戸時代の日本人の暮らしにある安定性を考える必要がある。人間の幸せがどこにあるかだ。幸せ度と中流を相関としてとらえる必要がある。都会生活では収入の多寡が、暮らしの格差に直結する。収入によって暮らしている家が違う。食べているものも違う。ところが僻地の農村においては、収入がなくとも、大豪邸に暮らして、豊かな食生活という事がある。普通の食生活が、健康的で都会においては最高の食生活と言える自給していることもある。もし年金がいくらかでもあれば、豊かな暮らしであるかもしれない。しかし、所得的には貧困層という事になる。日本の社会の分析をする方法が、もう現実を反映していないのだろう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄の世界自然遺産と軍事基地の違和感

2017-09-09 04:13:17 | 石垣島

沖縄の世界遺産調査で辺野古の米軍基地移設に関して、検討が必要と国際自然保護連合の判断が下された。沖縄は現在自然遺産の申請を行っている。その審査の過程で辺野古基地の新設については、日本側と話し合わないとならないという事になった。アメリカでは自然保護団体が、辺野古周辺のジュゴンの生息地の保全のために、辺野古米軍基地の埋め立て工事の中止を求める裁判が行われていて、現在差し戻しされて審議のやり直しが必要という事になっている。世界屈指の自然環境の沖縄を、これからどのような地域にすべきなのかという事が、世界から注目をされ始めている。その沖縄で軍事基地を増強してゆこうという動きである。米軍基地を自衛隊基地に置き換えて行こうという考えだろう。例の思いやり予算の上乗せである。自衛隊基地を作り、米軍の共用を認めるというやり方だ。表面的には米軍基地の比率が軽減されることになる。抵抗のまだ少ない自衛隊基地を先行させ沖縄を防人の島に定着させる発想である。

沖縄の自然環境の素晴らしさは、世界自然遺産としての価値がある。沖縄の今後の方向を考える上では重要な要素になっている。沖縄が観光を将来の柱にして行こうという事になれば、世界自然遺産の指定を受けることは大きな効果になる。沖縄諸島周辺地域は世界でも有数の美しい海である。海の生物の多様性も世界一と言われるほど豊かな地域という事だ。しかし、自然保護と地域住民の暮らしという事は、密接に関係している。住んでいる人たち自身が考え、その意見が尊重されなければならない。西表島は明治以降開発が進んだ。林業会社進出。炭鉱開発。日本の台湾開発と近いものがある。自然保護という発想が出てきたのは、1970年以降のことと言ってもよい。50年が経過して、現在人が暮らす地域は海岸の一部の地区に限定されてきている。内陸部にあった、開墾地や古い集落、道路やトロッコ道等もほぼ自然に戻りつつある。貴重な自然が甦ってきているのかもしれない。その意味では良い意味での先行事例になる可能性がある。この変化にはイリオモテヤマネコの確認が大きな要素だった。

屋久島が先行したモデルケースではないだろうか。屋久島は1万3千人の島。明治期の人口に戻りつつある。面積が504m²。明治期以来様々な開発が試みられたが、目覚ましいものは成立しなかった。そして、戦後になって皆伐的な林業が起こり、1970年代まで大きな自然破壊が進んだ。そして、自然遺産に1993年に指定されて、屋久島の方向は自然保護に変わる。そして観光産業が活発化する。40万人の観光客が来島している。良い意味でも、悪い意味でも、観光産業が屋久島の将来を方向づけてきた。八重山の西表島は2366人の人口面積で289m²。観光客数は33万人。明治期以来の密林の開発、特に戦後進んだ自然破壊の反動としての自然保護意識が高まる。ある意味絶対的な価値観として自然保護が存在している。住民の暮らしとの折り合いのつけ方が極めて困難になっている。西表の田んぼは完全に囲わない限り、猪にやられてしまう。イリオモテヤマネコの交通事故死は年々増加している。

辺野古の米軍基地建設、石垣島の自衛隊基地建設、共に間違いのない自然破壊である。石垣島の自衛隊ミサイル基地は、石垣でも最高の場所で、何度も絵を描いている場所だ。石垣島の最高峰於茂登岳のふもとに広がる、なだらかな丘陵地域に自衛隊基地が計画されている。周辺の農家の暮らしが変わるという事になる。観光客が来るという事で、住民の暮らしが変わるという事もある。何処で、折り合いをつけ選択するかは、そこに何千年暮らしてきた住民が考え決めることだ。島津が、幕府が、明治政府が、アベ政権が、決めるようなことでない。石垣に石垣を返せ。自然保護の選択も、自衛隊基地の誘致も、石垣の住民が判断することだ。石垣島は西表とは違い、人間が管理し、暮らしの折り合いをつけている島だ。永続できる暮らしがすべての基本にある。石垣島は日本列島の中でも人間の暮らしが最も長く継続された場所である。この島がいつまでも人間の最高の生活の場所であることを祈っている。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自給農業の定義

2017-09-08 04:25:37 | 自給

 

舟原田んぼの奥にある、ネギ畑。境にあるトタンは猪除け。その奥に青い柵がある先に舟原溜池がある。

「自給農業」は自分の食糧を作る農業のことと定義できる。この言葉は中島正氏が本の題名として使った言葉だ。自給的農家という農水省の言葉と取り違えているうっかりの人がいると思われるので、確認をしてみたい。「的」とか「型」とかを加えるのは行政言葉の特徴でもある。自給的農業とか、自給型農業という場合、そうでない部分やそれに近い部分も含むという事になるのだろう。私は特別な意味合いで「自給農業」を使っているつもりはない。ごく普通に自分の食糧を作るための農業の意味で使っている。自給農業を否定的に感ずる意識が農業者にはあるかもしれない。遊び半分だから、許せない。生業として命がけでやっている自分とは違うという意識である。田んぼで笑っているというので、遊び半分だと怒られたことすらある。だから私は周辺農家より収量を上回るようにしている。農家でも目のある人は見ればどの程度農業であるかはわかるからだ。農薬を使わないでも化学肥料を使わないでも、収量で上回れば真剣に取り組んでいることが理解される。

自給農業は協働しなければその合理性が生かせない。一人の自給では限界がある。一人でやる人は、新規就農する人という事になる。新規就農する人は独立独歩の人が普通だ。一人の農業は手間暇ばかりかかり、合理的な作業にならない。その為に勤めながらの一人の自給は続けがたいのだろう。自給の為の田んぼであれば、1人分は1畝で良い。30坪だ。60キロのお米ができる。倍食べる人も居るとしても、2畝あれば十分だ。これを10人で2反の田んぼが出来れば、作業の手間は4分の1くらいに削減できる。この場合10人と言っても、3人分できる人も居れば、3分の1人前の人も居る。3人力の人が、3分の1の人を大切にできるかである。農業法人のような販売農家の形態や企業農業も協働も農業の一種である。一人の農業より合理性があるというのは当然で、農業も組織化されてゆく流れだろう。土地を所有している人たちも、本気で農業を継続しようという人は協働を、企業化を始めている。自分の所有地を協働で使えないという思いは、農地は資産である意識を捨てきれないことを意味しているのだろう。すでに農地が資産としての意味を失っている。

協働の為には、中心になる人が必要であろう。会社に社長がいるのと同じことだ。常にそういう人は登場するだろうとみている。現れなければこの方式が消えるのもよし、またどこかで始まるのもよし。別段、自給農業の普及活動をしている訳ではない。自分がやってみてより合理的な自給に進んでいる内にここに来ただけだ。ロシアでは農業生産のかなりの部分が自給農業である。この先どこに行くかもわからない。ただやってみてこんな合理的な方式はないとつくづく思えるだけのことだ。嘘偽りなく、人一人一日1時間百坪の自給は可能なのだ。その事実だけは記録し伝えたいと思っている。何時の時代もそこに立ち返れば生きて行ける。

普通の農家の人であれば、そんな馬鹿な。と思う事もわからないではない。その気持ちも養鶏業をやっていたのだから、十分理解できる。本当に身を粉にして、毎日働いても働いても終わらないのが、農家の仕事である。その状況に立ち、自給農業の為の時間を毎日記録した。そして、この数字が出てきたのだ。過去のページに日々の記録をこのブログにも書いておいた。技術というものの意味が大きい。田んぼでも技術のある人は同じ労力で数倍の収量を上げる。はざがけの棹を一人で建ててみればわかる。10人で10倍の面積のはざがけをやってみればわかる。竿は二人で立てれば簡単だが、一人では相当に厄介なことになる。もし途中で倒したとすれば、もう建て直すことは一人ではできないことさえある。

すごい能力の農業者もいる。そういう人にしてみれば、一人でやる方が良いと思う事だろう。しかし、自給農業は普通の人もやりたい場合がある。私のように歳をとり普通以下の人でも動ける間は続けたい。確かに今も農業をしている人はスーパーマンのような人が多いい。特別な人ではない普通の人間がどのように農業を支えればよいかを考えなくてはならない状況なのだ。それには協働するしかない。所が条件不利地域においては農業企業は手を出さない。市民の協働による自給農業を模索する以外に道はない。当たり前の考えだと思う。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タマネギ一緒に作りませんか。

2017-09-07 04:08:30 | 自給

白ネギ部の畑。3列目が私の畑。

あしがら農の会では畑の会というものが出来た。昨年まで、個々に分かれていたものを、玉ねぎ、ジャガイモ、小豆、長ネギ、小麦、という作物別のグループがひとまとめになった。活動はそれぞれのものだが、畑という事で会計的にひとまとめでやることになった。タマネギ部は昨年は、なかなかの成果を上げた。一年分のタマネギを作ろうということで、365個を目標に栽培した。ほぼ達成できた。種代、地代、等々を含めて費用は2000円だった。費用もみんなで分担するとずいぶん安くなる。参加費はその年にかかった費用を人数割して、負担する。増減はあるだろうが、大きくは違わない。昨年はターボとネオアースと赤タマネギを作った。大きな作業は機械でやってしまう。全体を耕すのはトラックターである。畝たては耕運機で行う。ベットを作るのは手作業でやった。確か1メール巾の黒マルチで使った。途中で風で飛ばされたこともあって黒マルチはさしたる効果はなかった。私は黒マルチせず、その分草取りに頑張ろうと考えている。やり方は自分の場所をそれぞれが決めることになっている。

小豆の畑。

だれでも参加できる。初めての人でもまったく問題はない。これを読んだ人で興味があれば参加してもらいたい。メールを貰えばすぐ連絡をします。ベットごとに自分の場所が決まり、上手な人から教わりながら耕作することになる。種まきが9月17日である。苗を作りをセルトレーで行う。ここはなかなか難しい。苗土を現在発酵させてある。11月に大豆の刈り取りの後の畑に植え付けることになる。その後、2,3回草取りを各々が行う。そして6月に収穫。それほどの負担なくできるはずだ。小田原ではタマネギオーナー制度というものが行われている。畝の長さが決められていて、そこが自分の場所だという事になるらしい。植え付けと収穫は自分でやる。日常管理はやってもらえる。200個程度のタマネギが貰えて、5000円だそうだ。農の会ではあくまで種まきから、収穫まで自分たちで行う。そして有機栽培で作る。初めから終わりまですべてを自分でやってみることを大切にしている。それが自給農業だからだ。

大豆の畑

ジャガイモ部では一年分のジャガイモを作るという事で、昨年は種イモを各自が10キロ前後の種イモ植えた。人によって、50キロから90キロぐらいが出来た。これだけあれば、一年ジャガイモの自給ができる。やはり、機械で出来るところは一気にやってしまい、草取りや土寄せなどの日常管理を各自がやることになる。今年分かったことは適期に収穫した方が、きれいなジャガイモが収穫できるという事だった。私としては最高の出来だった。その他、白ネギ部では現在、ぐんぐん成長中だ。一人が10メートルと20メートルほどの区画を栽培している。代表の岩本さんがとても熱心に管理してくれるので、ネギ専業農家の人の畑なのかと思えるほど美しい状態になっている。一本ネギと分げつする羽ネギとに取り組んでいる。私の畑では例年ネギは草でやられていたのだが、みんなの畑だと何とか頑張れる。これが何より良いところだ。

差し芽をした大豆に花が来た。

小豆部は収穫祭でお汁粉を作ろうと取り組んでいる。今のところ順調な生育である。大納言小豆と、どうもササゲをやっている感じだ。大豆の出来がとても良くなかったにもかかわらず、小豆の方は出来が良い。今年はもち米が良くできているから、餅をついてお汁粉というのはかなり楽しみになる。後は小麦がある。これは以前はかなり大々的にやっていたのだが、製粉に苦労している。苦労の割には成果が少ない。それでも今年も続けたいという人がいるので、ある程度はやりたいと考えている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石垣島自衛隊基地反対署名

2017-09-06 04:21:50 | 石垣島

石垣島では自衛隊基地の反対署名が進められている。中間報告が発表された。有権者数3万850人の内1万1013名の署名が集まっているという。記名署名である。これはちょっとすごい数ではないか。市長は自衛隊誘致に向っている。市議会では自衛隊基地誘致に関しての住民投票条例が否決されている。防衛省の概算要求が市長の判断、市議会の判断、住民の判断を経ずして決まった。現在、石垣島に基地が作られる瀬戸際まで来ている。何故、石垣島に基地が必要なのであろうか。少なくとも石垣島にミサイル基地ができることは、石垣島住民にとっては軍事攻撃を受けるリスクが高まるだけのことであるのは、誰にも分かりやすい事実である。しかも、自衛隊基地ができるという事は、同盟国アメリカの共同利用が忽ちに起こることだろう。アベ政権は中国との対立を意図して深め、世論を誘導して憲法改定に向おうとしているのだ。それに石垣島民が利用されるだけなのが、石垣島の自衛隊基地建設である。市長にはその見返りとしての裏の約束があるのだろう。そうとしか思えない暴挙が進んでいる。

安倍政権は仮想敵国中国に向けて、八重山諸島にミサイル基地の建設を進めている。これでは北朝鮮と同じ行為ではないか。与那国、宮古島にはすでに配置が決まり、設置され、建設が進んでいる。こうした行動は中国から見れば、北朝鮮の行動と何ら変わらない。人間は戦争によって何も解決できないという事を学習しなければならない。北朝鮮の核ミサイルの危険は日に日に高まっている。しかし、それを防衛するために八重山諸島に基地を作ることは抑止力には全くならないだろう。むしろ、基地を作ることで対立を深め、リスクが高まってゆくことになる。もし北朝鮮のリスクを減らすためであれば、中国ロシアとの協力関係を強めること以外に道はない。中国、ロシアの動向が北朝鮮の暴発を抑える唯一の方法である。アメリカや日本が北朝鮮と対立を深めることは、中国、ロシアはもしかしたら誘導している可能性もないとは言えない。すでに対立がある、仮想敵国としている国なのだ。中国とロシアが本気で北朝鮮を経済封鎖しない理由を考えてみる必要がある。

石垣島に基地がなければ、石垣島は軍事攻撃の対象にはならない。客観的に見れば間違いのないことだ。反撃もできない、関係のない島をわざわざ攻撃などする国はない。今の時代の戦争は、日本人の住んでいる島を占領するようなものではない。意味が有るから爆撃するのだ。基地をすでに設置した、与那国島と宮古島は攻撃される可能性が高い。当然すぎる現実である。宮古島も基地の建設を即座に中止すれば、攻撃を逃れることになる。しかし、与那国島は住民投票で基地建設を選択した。宮古島は市長選挙で基地誘致を選択した。石垣島ではうやむやのまま基地建設が進められようとしている。これではさすがに民主主義ではない。住民が選択するのであれば、それはそれで仕方がないことだ。見返りの期待であろうとも、自衛隊基地の恩恵を期待するのであろうとも、それは住民の判断で構わない。まず第一に住民が選択すべき重要な案件である。

石垣島はアジア諸国からの観光で盛り上がっている。年々の観光客増加は日本の中でも目覚ましいものがある。土地価格など小田原よりも高くなっている。世界一と言っても過言ではないほど美しい島である。しかも、豊かな文化的遺産も至る所にある島である。お隣には世界自然遺産になるだろう、西表島がある。音楽文化や、民俗芸能なども世界に誇れる島だ。日本最古の石器時代の人骨が発掘された島でもある。ますます未来が期待される島になっている。基地の島にしてしまう事は、全くの愚挙である。どう考えてもアジアからの観光客には抵抗があるだろう。私は島民ではないので、あくまで外部からの希望しか書けないところがもどかしい。しかし民主主義国家である以上、石垣島住民の判断の確認をしなければならないことは最低限のことだと思う。それをしないで、強引に進めることあってはならいことだろう。沖縄は防人になれなどという、沖縄差別の意識がどこかにあるとしか言えないことになる。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲の葉色による診断

2017-09-05 04:22:46 | 稲作

自然農法では土壌の窒素分が少なくとも、慣行農法の稲より葉色は濃くなる。その理由を考えてみる。自然農法を続けている田んぼの土壌分析をすると、慣行農法の田んぼの半分くらいしか窒素分はない事が多いい。それが普通のことである。にもかかわらずなぜか稲の葉色は濃くなる。理由は綜合的なもので単純ではないのだろうが、自然農法の稲の根の吸収能力が大きいと見ることが一番ではないか。何故吸収力が違うかと言えば、微生物が土壌に豊かに存在するからである。土壌からの吸収には根圏微生物のかかわりが大きい。さらに田んぼでは水から様々な栄養分が供給される。田んぼ自体が窒素分を生産している場になっている。田んぼの中では草や藻や浮草が大量に発生する。そして様々生きものが生活をしてる。生まれては死んで分解される生物の循環的生産が起きている。自然農法の田んぼはいわば堆肥場のようになる。栄養分を作り続けながら、稲を育てている状態なのではなかろうか。

藻が生えればその藻は光合成をして成長を続ける。そしてそれは枯れて分解されたり、微生物の餌になったりしながら、土に戻る。光を受け取り養分を土に返す。田んぼでは生きものの循環が起きる。水生昆虫やオタマジャクシが大量に現れる。その餌となるミジンコや赤虫がいるからだ。さらに小さな微生物は莫大に存在する。それが大きな生産力になり、土壌分析的は半分程度の窒素分しかないにもかかわらず、田んぼが生きものの住処となり、窒素が供給され続けることになる。その為に、葉色は慣行農法よりも濃いことになる。この田んぼの世界を想像し、稲の生育を考える必要がある。この世界が分かれば、どの時期に何をどう加えればよいのかが見えてくる。葉色の緑が濃いだけではなく、稲の背丈も2割は必ず高い。一般の90㎝のサトジマンや喜寿糯が自然栽培では110㎝にはなる。それが普通である。茎の直径は2回りは太い。何故植物体が大きくなるのかと言えば、根の量を含めてすべてが活性化されているからだ。だから自然農法の方が収量も多くなるのが普通だ。25年間の稲作経験でそれを実感している。周囲の農家より収量が少なかった田んぼはここ10年一回も無い。

ただし、慣行農法より優れた農法だと主張はしない。手間暇がかかる。さらに自然を観察する力量が必要となる。自然の変化に対応した技術力が問われることになる。確かに国際競争力はない。しかし、自給的に行うと限定するなら、慣行農法より優れている事は確かだ。自給なら300キロのお米でいいだろう。5畝の田んぼでいい事になる。これなら手植え苗を作る方が良い。田植え機を購入し、年一回の為に整備をする。置いておくのも邪魔になる。こうなると手植えをする手間を考えて手植えの方が合理性があることになる。農の会自給の田んぼには田植え機はないが、2ヘクタール以上を手植えで行っている。もう一つ苗を何故作るかと言えば、5葉期の大苗を植えたいからである。草対策である。除草剤を使えば、田んぼの土壌の微生物は偏り貧弱なものになる。除草剤を使わないで草対策をするには、大苗で植えて深水で管理することが大切である。これは稲の生理にもあっている。

自然農法の稲は葉の色が濃く、背丈が高く、茎が太く、開帳型で、穂が大きく重い。そして葉色は、稲刈りの寸前まで止葉は緑色を保つ。出穂期以降徐々に緑の濃さは薄れては行くが、穂揃い後1か月は葉に緑が残っている。緑を保つているという事は、葉は光合成を続け、根が活動を続けているという事になる。これが穂を最後まで育てることに繋がる。以上のように、自然農法での稲作は葉色の推移は慣行農法とはかなり違う。その為に判断を誤らないようにしなければならない。一般的な葉色の判断に従うと、大きな誤りを犯すことになる。穂肥を与えるべきかどうかも、葉色の濃さだけでは判断ができない。田んぼの土壌や水が良い状態になっていれば、基本的には穂肥を与えなくとも、窒素の供給が行われる。大きな稲になるために、倒伏は起こりやすい。田んぼの土壌を固めることが大切になる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

慰安婦像バス

2017-09-04 04:24:09 | Peace Cafe

アメリカでは慰安婦像を人身売買の象徴の像として設置した市が登場した。2つ目だそうだ。韓国では少女慰安婦像像バスが走った。次には強制徴用工の像を始める計画という事らしい。日本人が韓国を嫌いになるのはまずい。お互いがどう見えるかを考えないと、互いの不幸につながる。韓国人が何故慰安婦像を設置するのかを考える必要がある。それは靖国神社にどうしても参拝したい政治家がいることを考えてみると日本人にはわかりやすいのではなかろうか。靖国神社は戦争で死んだ軍人を神としてまつる事を中心に据えた、日本では他に例のない特殊な神社である。関東大震災では朝鮮人の虐殺が数千人に対して行われた。戦前の日本の社会には強い朝鮮人差別が存在したのだ。朝鮮を植民地として支配し、隷属させた。そういう歴史があるのだ。靖国神社に日本の権力者が参拝するという事は、日本が朝鮮に対しておこなった反省すべき歴史を肯定している、と韓国では見えることになる。朝鮮人の虐殺を反省をしない日本に対して、反省をしてもらわなければ未来志向にならないというのが、韓国人の心持ちであろう。

日本は過去の問題に対して正面から誠実に向かい合い、口先だけではない反省を示す必要がある。日本大使が一時帰国するような、感情的に反応することはで問題を悪化させるばかりである。こうした歴史的な汚点に対して、弁解したり、忘れようとしたり、ごまかしたりすることは日本という国と日本人を卑しめることに拍車をかけることになる。日本は韓国に対して、総理大臣が謝罪した。このことで収まらないとしても、それは過去の植民地であった歴史を踏まえれば、当然の行うべきことだ。アベ政権はむしろ、反韓感情を操作しようとしている節がある。大使館や領事館の前に設置することは、国際慣例からして日本の外交権を侵害している。だから解決しようとして両国で共同声明を出した。それでも、韓国国民の気持ちが収まらないことは想像されたことである。已む得ないことだ。しかし日本政府は国家として一定の譲歩をして、国内の反発は日本にもあることを踏まえたうえで、行った外交である。その後の態度も一貫しなければならない。

この像の存在が海外の日本の子供たちの差別にまでつながるなどという意見もあるが、それほど世界の世論をいい加減なものと見る必要はない。むしろ靖国神社に総理大臣が参拝する姿の方が、日本の軍国主義の復活を想像させ、海外の日本人に対する評価を下げるだろう。日本が誠実であれば、日本人も尊敬されるのだ。日本が立派であるとは、過去の非を認め、今を誠実に生きることだ。韓国の実情をよく考えれば、慰安婦像に対して執着する理由が見えてくる。日本は韓国を植民地にしていたにもかかわらず、日本には歴史を認めない人たちさえいる。日本のネトウヨや日本会議の存在が従軍慰安婦像を解決できない要因の一つだろう。靖国神社に政治家や政府関係者に参拝したいという考えがある以上、日韓関係の未来志向の解決はできない。アベ政権が中国を仮想敵国とし、国内に対立心を高めようと焦っている。その原因は世界の経済競争に後れを取り始めたからだろう。日本が自信を失い始め、韓国同様に仮想敵国を必要とするような状態が生まれているのではないか。その背景のものとに、静かに治めるべき靖国神社問題を、あえて国際紛争の火種として持ち出す。

世界経済は確かに競争である。激しい能力主義だ。そして、日本民族は優秀で公平に競争すれば競争に負けないというような思いを植えこまれてきた。白人には負けるかもしれないが、それ以外には勝てるのだ。というような屈折した気持ちが明治帝国によって刷り込まれてきた。戦後の高度成長は軍事力に負担の少ない状態で、経済競争に専念できたという事がある。侵略戦争を行ってしまったことへの懺悔、そして敗戦したことへの反省。こうしたことからひたすら平和産業に力を入れ、日本が世界へ経済で食い込める道を模索した。農村から大量の優秀な人材が、比較的安価に供給された。それが日本を高度成長に導いた。しかし、それは経済後進国何処もが、経過する道でもあった。韓国、中国と、国力を高め、国状に応じた優秀な産業を育て始めた。そして日本を凌駕した分野も当たり前になった。この現実を受け入れにくい日本人がいるのだ。 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

代替医療の危険

2017-09-04 04:06:06 | 暮らし

がん治療でハーブやビタミン投与などの代替医療を選んだ米国の患者が五年以内に死亡するリスクは、外科手術や抗がん剤などの標準的な治療を選んだ患者の二・五倍になるとの研究結果を米エール大のチームが発表した。植物や動物、鉱物などを希釈した水を染み込ませた砂糖玉を飲む療法「ホメオパシー」やハーブ、ビタミンやミネラルの投与などが考えられる。

学生時代生きることを教えられた畏友に松木さんという方がいる。がん治療の専門医である。この方が嘆かれたことがあった。病院に来た時に手術に踏み切れば助かる可能性が高かった患者が、手遅れになってからまた来ることがあると言われた。藁にもすがるのは人の常であるが、〇〇菌でがんが治るなどという巷にあふれる情報に迷われる人も多数存在する。癌と戦ってはならない。と主張する慶応大学病院の近藤医師の主張を私は評価している。しかし、それを浅い理解で考えてしまうと危険が増すことになるだろう。いかなる病状でも手術は避けるべきだとか。治療しないことが正しい選択だとか。思い込みは禁物だ。友人の絵かきが癌になり、手術をした。そして、絵が素晴らしく前進した。とても学ぶところがあった。絵に向かい合う深さが違ったのだろう。覚悟というものを見た。

ホメオパシーなどという似非科学に惑わされては絶対にダメだ。近代医学の成果を正しく評価し受け入れるべきだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵画とヤフーオークション

2017-09-03 04:22:32 | 水彩画

水彩画の画材を購入するのに、ヤフーオークションを利用することが多い。筆は気になる方なので、これはという筆があればあれこれ買う。画材屋さんで買えば2万円はする筆を200円とかで買った事もある。5000円で買った筆が実は使い物にならない筆だったという事もある。覚悟して購入している。良い筆の方が思う線が引けるからだ。絵の具もよい絵の具は高いが、色もよい。自由に動かせるものだ。しかも良い絵の具ほど減るのが早い。使いたいときに使いたい絵の具がないというのでは、困る。そこで絵の具もヤフーオークションで十二分に準備してある。紙もそうなのだが、いくら描いても十分あるという状態にしてある。そうでなければ私には絵は描けない。贅沢なようだが、それほどのお金がかかるという訳でもない。ヤフーオークションのお陰だ。先日偶然見つけた水彩紙など、買えば10万円はするだろう全紙の束になったファブリアーノが、1000円で売られていた。私以外は入札する人も居なかった。

つまり案外のものが格安で売られている。たぶんそのものの価値が分からない人が処分しているのではないかと思われものが出てくる。泡盛を古酒にするための大きな甕が、1個1000円で送料込みだったので、6つも買ってしまった。これは沖縄料理店の片付けで出たものだ。絵にかかわるものなら、そうは騙されない。実は水彩画もよくオークションに出ている。私が見るのは水彩画である。今、確認してみると2402件とある。それだけの水彩の風景画が出ているという事だ。文化勲章受章作家をはじめ、ありとあらゆる画家が流れてゆく。本物もあれば、明らかなにせものもある。そして多くが1000円というような価格である。と同時に何処にでもある300円くらいの朱竹画が2400万円でずーと出ている。間違えてくれる人もないだろうと思うのだが。もし間違えで買った時にはどうなるのだろうか。

そして知っている人の絵も、時々出てくる。この人がこの価格でつまり、画廊で見る価格の50分の1くらいの価格で売られている。私もこれは直接手元で見たいと思う絵が出ることもあるが、買う事はない。絵は買ってもあと困るだろうと思ってしまう。高校生の頃、つまり、今から50年前くらいに、デパートで売り出す新人画家たちという特集が芸術新潮に出ていた。自分が芸術新潮を買う高校生であったことには驚くが、三宿にあった古本屋さんで月遅れで買っていた。季刊芸術もみずゑもそうなのだが、月遅れで格安本になる。昔から安いとつい買ってしまう性格なのだろう。デパートの絵と画廊の絵の違いは買い戻し条件があるかどうかだと書いてあった。昔の画廊はその画家を育てる。今でいえば所属タレントである。そしてブランドにしているから、どこかでその人の絵が安く出たら買取利をして、価格を維持するというのだ。またその画廊で購入した人が絵を買い戻してほしいといえば、購入価格で買い戻すというのだ。本当だったのだろうか。その後、バブルで絵画も投機材料になった。高くなることが期待されて企業なども買った。上手く節税する材料になったらしい。政治家の賄賂に使われたりもした。買ったことにして、あげたことにして、買い戻したことにしてと、グルグル回しにして、どこかにお金が移動するらしい。

ヤフーオークションが登場して、絵画の販売の世界も変化を始めている。絵画の相場価格というものが完全に崩れている。絵画年鑑というような相場表があるが、誰はいくらというような価格は、全く無意味化した。自分は号〇〇万円だとか、昔は自慢した絵を描く人がいたが、今は笑い話のように聞こえる。ネットオークションでは格安になる。年鑑に載せてもらい。それを根拠に絵を販売する人も居た。ところがネットオークションでその〇〇万円が実は〇〇円で出ても買う人も居ないのが現実だ。絵の売買の世界が変化している。ネットオークションで高いのは、名の売れたタレントの絵などだ。これは絵の世界が良くなりつつあるという事なのだろうか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北朝鮮の弾道ミサイル

2017-09-02 04:23:21 | Peace Cafe

日本政府は北朝鮮の日本上空を通過するミサイル発射に対して、前例のない強い抗議を行った。芝居の台詞を繰り返しているようでは何の影響もない。状況は年々に悪い方に進んできた。もう現状では北朝鮮は日本に対していつでも核爆弾が打ち込めると考えなくてはならない。アメリカに反撃をお願いしてどうにかなるような事態ではない。一段と強化したという経済封鎖への期待は低い。1940年代の日本と同じだ。追い詰められれば追いつめられるほど、無謀な太平洋戦争に向っていった。鬼畜米英、神風攻撃。戦争の狂気は論理を超えている。このままでは、北朝鮮は暴発まで行きかねない。中国の経済封鎖が今や頼みの綱だというが、中国は安倍政権の仮想敵国ではなかったのか。敵国に協力をお願いしてどうするのだろう。国際情勢の見極めのできていないアベ政権では危機管理は無理だ。

今回のJアラート警報は発射から4分後だったそうだ。沖縄でも鳴り響いたそうだ。「すぐ避難してください。」という時にはすでに通過している。こうした茶番の目的は、不安感を高め軍事基地を作ろうという発想だろう。北朝鮮に対して手の内を見せている。いかに迎撃など無駄なことかがわかる。日本国民の不安を高める効果だけはあげた。高知県が危険だといって注意を集中させて、北海道を攻撃する。つねに攻撃側は奇襲攻撃をかけてくる。当たり前過ぎる。迎撃で対応できるわけもない。もし絶対の迎撃が可能であれば、今すぐに北朝鮮に対して、日本上空を通告なしに侵入するミサイルは迎撃する、と宣言すればいい。迎撃出来ない事が証明されてしまうだけのことだ。もう、狂気の暴力に対して、武力で抑え込むことは出来ない状況なのだ。これを冷静に判断しなければならない。あの軍事大国のアメリカですら、不安なのだ。防衛能力を高めて対抗するというようなことは、不可能な状況だ。

北朝鮮、中国に対して韓国、アメリカは戦争状態にいまだにある。朝鮮戦争は停戦ではあるが、戦闘状態でもある。北朝鮮にしてみれば、韓国と米軍が北朝鮮を殲滅するための大演習を行って脅されている訳だ。これに対して抗議もできないのであれば、北朝鮮のようなカリスマ独裁国家は維持できないだろう。肉親まで公開処刑する様な独裁者は権威を失ったときに、崩壊を迎える。自分が生き残るということが、この無謀な行為に繋がっている。ではどうすればいいか。先制攻撃をして、壊滅をしてしまうか。あるいは朝鮮戦争を終わりにするかであろう。いま世界は先制攻撃に近づいているとみなければならない。それは、現在の世界秩序を維持したいからである。核保有国は自分たちだけが核保有の有利さを保とうとしている。この核抑止力による保有国の絶対有利の状況では、北朝鮮の核保有を遮る根拠はない。日本がやるべきことは、韓国、中国との友好関係を掘り起こすことだ。すぐにも敵視政策を止め。互恵関係を作り上げる。それ以外に北朝鮮の脅威を抑えることは出来ない。

この間中国敵視政策を行い、北朝鮮の危機を高めた安倍政権には責任が重い。直ちに安倍政権は政策変更をしなくてはならない。トランプはアメリカファーストを主張する。これは核保有をしない日本は、アメリカの言いなりになれという事ではないか。アメリカが世界の警察を辞めると宣言した今、アメリカに従う意味はどこにあるのか。アメリカは矛盾している。核保有した北朝鮮の馬鹿馬鹿しさと何ら変わらない。核保有の優先権を持つ国家だけが、世界をリードできるという馬鹿げた体制を覆さなければならない。核兵器を抑止力とすることが、世界平和への途上の必要悪というのであれば、せめて核兵器の管理を国連が行うべきである。核攻撃可能な国連軍である。核攻撃を行った国に対しては、自動的に国連から核攻撃が行われる。そして個別の国の核保有の意味を無くす。同時に、日本は核保有国に対して、核廃絶を呼びかけ続けなければならない。それは北朝鮮にもそうだし、アメリカにもそうだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする