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人間が幸せになるためのAI

2017-01-02 04:15:18 | 暮らし

人工頭脳が人間の幸せのためのものであってほしい。コンピュターによって情報というものの意味が大きく変わった。社会の成り立ちを大きく変えようとしている。情報革命の真っただ中である。人間が道具を使うようになる。火を使うようになる。農業生産を行うようになる。エネルギー産業革命がおこる。今、暮らしを大きく変化させる情報革命が起きている。裁判で捌かれるなら、大岡越前裁判長が良いのか、コンピューター裁判長が良いのか。大岡裁きは人情が加わる。私が裁かれるなら、コンピューター裁判官にお願いしたい。大岡裁きで私の事情まで配慮してくれたとしても不安がある。立ちしょんべんの冤罪で、地獄の釜茹での刑になる心配をするからである。お上には反逆すべし。あと30年ぐらいすると、コンピューターは人間の能力をすべての分野で凌駕すると予測されている。工業分野、農業分野、医療、介護、裁判など大きく変わるだろう。

コンピューターは過去あるもののすべてを情報化できる。お百姓さんの農の知恵もコツも技術もコンピュターは上回る。絵を描くという事であれば、過去にあった絵は、コンピューターはたちどころに同じものを描けるようになる。テレビではレンブラントと同じに描いたそうだ。家の猫ちゃんをダビンチで描いて、というような希望に簡単に答えれるようになる。それは私が絵を始めた頃から考えていた絵のある意味での結末の姿だ。そう考えて過去にある絵を描くようなことは最初から馬鹿にしてきた。過去にあるようなことをするなら、絵を描きたいとも思わないかった。絵を描くという事はいまだかつてないことをしたいからだった。自分独自のものを描きたいと思ったからだ。過去あるどれほどの絵であれ、自分が今描いている絵の方が自分には面白いからである。

こういう文章を書いていると、次に続く言葉を予測してくれるようになった。この程度の日記なら題名を入れたらば、文章をおおよそ作り出すことも可能なのだろう。星新一版のショートストーリーを描き上げるAIがあるそうだ。私のいままで書いたブログを基に、私が次に書く文章程度ならほぼ書けるのだろう。しかし、私がこれから描くだろう絵はコンピューターにも描けないはずだ。私の絵の描き方は自己否定を重んじているからだ。常にかつてないものを描きたいと考えているからだ。それができないことも現実であるが、自己否定の仕方が日々変わるのだ。肯定というのは正解だから、案外に幅がない。ところが否定の仕方というのは、無限ともいえる多様性がある。何故そういう発想をするかと言えば、良い種が、良い子孫を残すとは考えていないからだ。田んぼで良いと思われる種籾だけを残し続ければ、大きな失敗が起こると考えている。またそういう失敗も経験した。普通の出来の所を種籾にする。

実現したいのは自分である。自分が自分に至るために生きている。失敗をすることこそ自分に近づく道だ。上手く行ったなという経験も大切ではあるが、これは違うという無数の結果が、自分らしきところに近づく手段としては価値ある経験値である。絵を描くというのは、自分の道に進むという事でありたい。描いてみて、どうも違う、こればかりである。この違うの集積の果てに、これならどうだろうかという疑問アリの結論に至るのだ。これが絵というものの魅力である。見るものも、そう出たか。そういうおかしなことを考えるのか。まともじゃないな。こういう共感をするのだ。不完全を不完全として受け取れる魅力である。20世紀になり絵画の世界が、社会的な意味を失って以来、二番煎じで良しとする商業絵画が横行している。コンピューターはこういう需要に、30年後には応えてくれるようになるだろう。何を人間が行うべきことかを明確化してゆくことこそが、情報革命である。情報革命を良いものにするも、最悪のものにするも人間が行うことだ。

 

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2017 謹賀新年

2017-01-01 04:04:04 | 水彩画

あけましておめでとうございます。

2017年を迎えました。年賀状紙芝居風に始めてみます。

2017の年賀状いろいろである。今朝、それぞれの方に届くことだろう。絵を通して私の気持ちも届けばいいのだが。水彩画の私の描き方がわかるので、並べてみた。郵便局に持って行く前に一部写真を撮った。良いものという事でなく、上から14枚である。それぞれの方の顔を思い浮かべながら、絵を選んで宛名を書いていった。

まだ描いたはがき絵は残っているのでほしいという方がいれば、送らせてもらうので、メールで住所をいただければ送らせてもらいます。毎年時間をかけて年賀はがきを描くのは、自分の楽しみである。今年は、住所を手書きした。これは久しぶりのことだった。

今年の賀状の多くは太陽である。一陽来福の思いである。描いている内に絵ができてしまい、太陽を描かずに終わりにした賀状もある。まだ太陽が昇っていないだけで、これからのぼるところだったのだ。

こうして並べると、一枚だけではわからない、水彩画の多様な表現が分かってもらえるかもしれない。水彩画は絵具の水の溶かし方で、全く違う状態になる。だから、絵をイーゼルで立てて描くことは私にはできない。寝かして描き、流れなくなってから立ててみる。と言って流れてゆく形は人為的に作っている。

極めて薄く塗られている。紙はすべてアルシュである。粗目のロール紙である。アルシュの良さは何を書いても、調子を作ってくれることだ。しかし、それがかなり危険な要素でもあると思っている。赤に下に描いた白が浮き上がっている。この加減など、やってみなければわからないものだ。1週間ぐらいたつと安定する。

門より出る初日の出。太陽はすべてたらしこみで描いた。最初からその計画である。その場合混ぜる絵の具の色が重要で、ローズマダー、カドミュームオレンジ、と何かのレッド。ニュートン社製である。顔料の重さの違いが、タラ仕込みでは影響してくる。乾きながらの変化を予測し、操作する。

水彩を描く人と話していて、空を描くときの、セルレアンブールーとコバルトブルーの話になった。どうも話が食い違うのでおかしいと思ったら使うメーカーが違っていた。同じ色名でも会社によって全く違う色味であるのが水彩絵の具だ。色を選ぶと同じくらい、製造した会社を選択する必要がある。この場合の塗りつぶしの白は重要で、ガッシュの白である。白の下の色を隠ぺいする違いが重要になる。

太陽がハート型になるのも面白い。何枚もハート形のものを描いた。年賀はがきは全部で210枚描いた。描きだすと止まらなくなりどんどん進む。

ただちぎれた太陽も、何か円を描く面白さがある。墨で黒い下地を作り、そこに月光荘の白で雲を描く。ガッシュとはまたわずか違う。白は多様だ。夜空の明るい雲は面白いものだ。三橋さんから貰った白い絵の具がまだある。三橋さんの気持ちがあるから大事に使っている。その上から、丸を書いた。こういう時は筆が意味を持つ。筆は不朽堂の隈取筆の白雲である。太く含みがなければ私にはだめだ。

海からハートの太陽が浮かび上がる。海の色はなかなか表わせるものではない。しかし、自由に描けるところもある。特に水平線が大切になる。本当は海に光が走るのだが、それは止めにした。

オレンジの太陽。はがきを出してしまえばもうわからなくなってしまうのだが、こうして記録しておくと、なんだか自分も楽しめる。210枚並べてみればもっと面白いかもしれない。

こずえをよぎる太陽。太陽を描くとなると、やはり、その下の人の住む地面のことが気にかかる。大きな木が陰になり明けてくる。本当はまぶしくてよく見えないのだが。平戸で太陽ばかり見て描いて居て、眼を悪くしたのかもしれない。

波がしらの太陽が雲にかすむ。もう少し太陽を強くしても良かったか。それとももっと霞ませればよかったのか。こういうところが描く楽しみである。

最後は海に浮かぶ穴あきの太陽。太陽は崩れて見える時がある。

水彩画の紙芝居。印刷でこのくらいの色が出てくれればいいのだが、私のパソコンで見るものと人によって違うのだろうか。自由転載。自由利用可。

 

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