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石破発言と民主主義

2013-12-02 04:49:47 | Peace Cafe
石破氏が自身のブログの中で書いたことが新聞で取り上げられている。ブログはこれだから議員には、業務報告として義務付けるべきだ。今も議員会館の外では「特定機密保護法絶対阻止!」を叫ぶ大音量が鳴り響いています。いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。
 主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべきなのであって、単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます。

と書いている。つまり、デモでのシュプレヒコールは本質的には、テロと同じである。と言意味だろう。言いかえれば、選挙の時の名前の連呼なども、まさにテロと同じことだ。という意味になるのだろう。確かにその一面はある。大声で、怒鳴るということは、本質的には暴力である。選挙の時に朝から迷惑だと感じる人はたくさんいるだろう。要するに、デモでも選挙の連呼でも、相手を説得しようとしていない以上、テロと同じだという論理である。問題は、特定秘密保護法案における、特定有害行為のテロの規定である。国会の議論に置いても、国民の政治的活動の自由が阻害される恐れが議論されいる中での発言である。

「テロリズム(政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう)」(第12条)特定有害行為として、禁止しようとする法案を現在審議している中での、政権党の幹事長発言である。石破氏の頭の中では、あのうるさいシュプレヒコールもテロと同じだから、取り締まらなければならない性格のものだと、浮かんだに違いない。自分と違う考えの意見を、暴力的にがなりたてている状態に腹立たしく、つい、これはテロだ。こう頭に浮かんだのだろう。私が寝ているところで、石破でございます。石破でございます。と連呼されたら確かに頭にくる。しかし、問題は自民党の幹事長の頭にこういうことが浮かんだということだ。人間だから、腹立たしくついこういう発言をしがちなものだ。それならば、早く訂正をした方がいい。突っ張っていれば、民主主義が崩壊する。民主主義は我慢して育てるものだ。

民主主義で一番大切なことは、自由な発言と議論である。だから腹は立つが選挙の連呼も禁止されていない。民主主義に置いては、デモは意思表示として、必要なこととして、むしろ民主主義を育てるものとして奨励されてきた。それを権力者が本音ではデモはテロだ。と考えているとしたら、とても怖い事ではないか。石破氏ならいつでも、どこでも自分の発言を、広く伝えることが出来る。私も時々この人のブログは読ませてもらっている。しかし、大多数の普通に人にとって、自分の考えを伝える手段はない。ないと言って嘆いていても仕方がないので、ピースカフェ―という紙ベースの通信を出していた。しかし、それよりもブログの連携がいいというので、メンバーで約束してこうしたブログでの連携を始めた。といってもささやかなことだ。石破氏の立場とはまるで違う。特定秘密法案に反対の時の、民主的な主張法の一つとして、デモがある。やむにやまれぬ思いで、シュプレヒコールするのを、これはテロだ。という意識で受け取っていたのだ。

民主主義がいよいよ、危うくなってきている気がする。特定秘密法が不要というのではない。必要な法律だとは思う。しかし、今出てきている法案はあまりにひどい。そのひどい原因は、シュプレヒコールまで取り締まりたいという、本音がどうも背景にあるためのようだ。自由な発言というもは、権力者だけに許されていればいい。愚かな国民を上手く導いてあげる、というおごりが背景に感じられる。石破氏のあの人相の悪さは、こういう本質を含んでいたということか、と納得がいった。ギョロッと彼はいやな目つきで人をにらむ癖がある。相手を蔑んでいる気分が感じられて嫌な印象があった。しかし、日頃のブログの内容は、むしろ心の温かい人のようにも感じられた。しかし、ブログというものは続けていれば、本質がつい出る。ごまかし続けられるものではない。だんだんにその人が見えてくる。ブログを書くことが出来ない議員というものは、実は内心に選挙民に対して、嘘があると自覚しているからだ。政治家には業務日誌として義務付けるべきだと思うのだ。
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12月の自給作業

2013-12-01 04:29:27 | 自給

大豆の脱粒した後の枝葉を、堆肥に積んだところ。ソバカスと水をかけながら積んだ。


1週間して、70度ほどの熱が出て切り返しているところ。良い酵素の匂いがする。


湯気が良く出ている。籾がらが混ざった。奥から前に出していて、次に奥に戻す予定。

現在畑にあるものを並べてみる。里芋、そら豆、エンドウ、スナップエンドウ、大根、こかぶ、ホウレンソウ、レタス、小松菜、キャベツ、タマネギ、白菜、ブロッコりー、ニンジン、大麦。それぞれに成長は遅いが、順調に出来ている。一番が土の団粒化だ。土が団粒化すると言っても、その実際の感じは良くわからなかった。もう25年も畑をやってきていて、始めて土壌が団粒化したのだ。まさに、鹿沼土のように、すべてが5ミリ前後の粒々の土になった。柔らかくなったとか、竹の棹が2mも突き刺さるとか、そういうことはない。相変わらず20センチより下の方は堅い。踏み跡がすぐ消えるということでもない。土が良くなっているのかどうかさえ分からないが、ともかく団粒化している。他所の畑でもあまり見ないので、観察だけは続けている。

タマネギは植え付けて、2週間したところで、クンタンを上から覆った。潜って見えなくなるものがあったが、適当にやった。蒔いたクンタンは雨風で結局は落ち着いて、上手くカバーしてくれたようになった。昨年クンタンを使ったことがタマネギが成功した理由だと思っている。草が抑えられたし、酸性土壌が少し中和されたのだろう。春菊を暖かいビニールハウス中にプランターを置いて、11月25日に蒔いてみた。発芽するだろうか心配していたが、ちゃんと出てきた。プランター栽培の実験である。プランターではそのほか、ネギ、レタス、ナス、エンドウ、ニンジンなどを試している。全部で15個ほど使っているが、家庭菜園自給を考えた時、案外に手間いらずで、作りやすい。寒い時期など陽だまりに移動しながら、収穫を続けられる。ナスは11月半ばまで何とか、実っていた。畑では収穫出来ているものはとても少ない。ハウスの中には、小松菜、レタス、外では、里芋、山芋、ニンジン。

上記の写真のように、堆肥を作っている。来春まで切り返しながら、完成させるつもりだ。出来上がれば、苗土に混ぜて使いたいと思う。麦の追肥に使えば、取った畑に戻すのだから、一番合理性がある。このたい肥農法こそ、江戸時代の伝統農法である。子供の頃の山から落としてくる落ち葉の量は、木小屋の3倍くらいの凄い量積んだ。山の際で毎年同じ場所に積んで、その上にトタンの屋根をかけていた。積みながら、肥えダメから腐敗した2槽目の糞尿を加えた。糞尿を加えたとしても、すぐに発酵を始めて、臭いということはなかった。そのうえでごろごろ遊んだのだから、汚いとも思わなかったのだろう。何度か切り返していると、嘘のように小さくなった。小さくなったたい肥は野菜の畑に入れていた。

江戸時代の循環の発想は、あるものをすべて使っていたという感じで、そうしなければ自給で生きてゆけないギリギリの工夫の積み重ねだ。踏み込み温床も落ち葉を集めて作る。踏み込み温床の効果は3つある。1、下から温めて早い時期から苗を作ることを可能にする。2、植物免疫力の強化する。3、NO2が発生して、植物の生育が早まる。こういう工夫を思考錯誤しながら経験的に創意工夫した。だから伝統農法であっても、少しでもビニールを使うのはおかしいということではないと思う。その意味で、MOA自然農法が家畜糞を使わないということにこだわるのも、伝統農法としてはおかしなものだ。ごみを出さないということも、重要な視点だと思う。ごみが出るということは行き詰るということだ。ごみを石油を使って燃やすということは、循環の思想ではない。
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