地場・旬・自給

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水彩画教室 10

2014-09-26 04:11:09 | 水彩画


山北の斜面の畑 10号 縦長の構図で、斜面を横から描くようなことを良くやった。これを4枚とか、8枚とか、横につなげて一枚にした絵もある。




水彩画教室は10回目になる。結論の様なことを書いてみる。12年かけて、絵というものに到達するつもりが、すでに、自分の絵は「地場・旬・自給」のポスターでいいのではないかと思い始めている。早々思い始めたことは、少し性急過ぎるような気もするが。目的が定まると、結果を考える。結果を考えると不十分なことに気付く。自分に向き合おうとすると、自給という考え方を突き詰める以外になということになる。絵を描くということは、自己確認の手段という側面が強い。農作業と絵を描くと言うことがひとつながりであるように絵を描く。そこに自分の描くべきものがあるように思えてきた。絵を描くことが、自分というものに向かい合うべき手段に成る。自分が何の為に生きているのかということ。人生という生きる期間の今日一日を大切に生きるために絵を描く。生きているということを、全身で受け止めて実感するために絵を描いている。自分というものに到達するために絵を描く。

生きるということが希薄化する時代。人間疎外が現実化してきたということだろうか。私自身は、この疎外感を払しょくするために、自分の食べているものをすべて自分で作り、食べることで、生きるということを現実化したいと考えた。それが、自給生活の始まりであった。それから絵を描くと言うことが、自分の為のことに徐々になってきたようだ。野菜やお米を作るということと、同じレベルの意識で描くようにできないものだろうか。良いお米を作ったとしても、食べたら消えてゆく。人間が生きて、暮らして、死んでゆくということはそれでいいと思うようになった。食べるものがあれば、何とかなる。しかし、心が充足するためには、心が満たされる食べ物を作る必要がある。日々の精神の活動が深く豊かでありたい。今日一日が、良かったと思える為には、絵と向かい合う心を開く必要がある。

絵を見る目とは、心の中を見る目のことになる。心の奥に向かって行く感じと、心の中から出てくるものが、融合して形に成る。外界が心にどのように映るのかを、肉眼を通して、見ている世界が、心の中でどんな姿であるのかを描いている。見ると言うことに手が付いて行く。手は自由に動いているのだが、見ていると言うことが手を動かしてゆく。見ているということをまず心が、反芻する。心が反芻したものを発して、手を動かしてゆく。頭の知識の様なものは、後退する。感覚的であるのかと言えば、視覚的なのだ。感情的であるのかと言えば、心は静かである。目に映るものに、静かに対応している状態。意識的に手を動かすのではなく、心に従って手が動いて行く。どういう絵を描くとか、もちろんどういう絵を描くということではなく、絵は生まれてくる物のようだ。だからその結果が良いものでないということは、自分の目と、心がまだまだ見えないし、感じることが不足しているということに成る。

見ているようでもなく、見ていない様でもない状態。目に映るものに任せて、それを受け入れて画面にあらわして行く。心という器は、自分に従っているものであり、自分の知識の様なものは、総合して現われてくる。空の色がどのようであるかは、千変万化である。それに反応するためには、空の色の先入観を捨てる必要がある。今ここにある空にどう反応できるかである。これが陳腐ないつものやり方に成るということは、知識で描いていることであり、心を自由に開放していないということに成る。目に見えているものに、心をゆだねる。それが陳腐なら、自分の心が陳腐であるのだから、それでいい。自分の心と目を、高めて行くだけである。絵だけ良くなるなどということはあり得ない。まあ、こうなると絵画禅ということに成るが、今回は一応の結論として、私の水彩画の描き方を書いてみた。しかし自分がまだ分っていないということが読み取れる。




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