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「2拠点生活」冬の小田原農業生活

2020-12-10 04:29:58 | 暮らし

 欠ノ上田んぼ下の耕作放棄された2反の昔は田んぼだった場所。右のネットを張ったところが、私たちが管理している。柿畑。奥の暗くなったしたが、久野川。現在この箇所でがけ崩れがあり、改修工事が行われている。

 2週間の小田原生活が終わる。今回も素晴らしい2週間だった。やり残した田んぼの作業もあるけれど、小田原の農業生活を満喫した。コロナ自粛で老人は移動しにくい時代ではあるが、安全第一で過ごせたと思う。石垣島に帰ったら2週間人とは会わない。と言ってもこれはいつもの絵画生活に戻るという事になる。

 野外作業は感染リスクはまずない。買い物にはスーパーに2度夜遅く行ったが、人はほとんどいなかった。用心して、サウナにも行かなかった。何しろ行くのが、コロナの湯である。体調は万全である。帰りつくまでまだ用心である。

 今時、放棄された田んぼを復田しているような所は少ないだろう。今回の田んぼも車の入れる道がない。隣接の畑を耕作している私たち以外には取り組める人がいないのだと思う。経済性で考えれば、まず農家が取り組める仕事ではない。

 それでも市民が自給の為の田んぼ活動をするのであれば、取り組めることになる。意外なことなのだが、こうした活動は他ではあまり聞かない。取り組めばやりたいという人は沢山いるのだから、他でも取り組みが広がるといいと考えている。法的な制限はあるが、何とかなることなので、分からなければいくらでも聞いてもらいたい。

   舟原上の田んぼの改修工事で4日、タマネギの植え付け1日。大麦の播種1日。大豆の収穫半日。坊所林道の草刈り半日。味噌の仕込みが1日。麹づくりが半日。その管理に3日。生まれた藤垈の景色を2日描きに行く。最後に欠ノ上の耕作放棄地2反の整備。

 精一杯の2週間の農業生活を送ることができた。素晴らしすぎて言う事がないほどだ有難い。歳をとってから、こんな条件に恵まれたことは幸運そのものだろう。これも他ではあまり聞かない。小田原の農業仲間のお陰だ。石垣島にいるとそのことが良く分かる。たき火をしたいと思っても様子が分からないのだから到底不可能だ。もちろん石垣島でたき火をしたいなど思いもしないが。

 今回もあまり無理して体を使わないようにした。やり過ぎて働けない様になったら大変だと思っている。最近右の股関節に痛みが来ることがある。舗装道路を歩くと痛くなる。畑仕事の2万歩は問題がない。土を歩くのは悪くはない。水の中ならばもっといいのだろう。

 歩数計で15000歩平均であった。2万歩の日が1日だけ。6000歩の日が1日。まだこのくらいであればなんとか大丈夫だ。昨日は午前中は草刈り作業だった。燃料を3回使った。こういうことはめったにない。それでも疲れが残っている状態ではない。

 いつもに増して気分が良いのは甲府盆地を見下ろす風景を見ることができたことだ。特に夜明けに花鳥山に行って描いたことは良かった。南アルプスが頂上から明るくなる。雪をかぶった北岳がコバルトバイオレットになった。甲斐駒まで続く山並みは見事なものだった。

 眼下にはまだ眠った盆地が暗い朝霧にかすんでいる。青ずんだ山肌。わずかに赤い紅葉した山麓。開けてきた空の深い青は神々しいばかりである。すぐ下に見える葡萄畑が空中に浮かんだように見える。思い出して反芻すると、描いた絵の風景である。あの感じは絵にはまだ出てはいない。然し絵には違う何かが出ている。絵は不思議なものだ。

 子供のころに見た風景というものと、今見ている風景とがどこかでつながった。記憶のかすかな情景の回路が復活してくる。いつか見た風景である。見るという事の始まりに触れたような思いがした。描きたいという気持ちの根源のようなものがここにある気がする。

 しかし、そういう脳裏に存在する情景と、描かれた風景は違う。見て描いているのだけれどまた別ものになる。絵という実在するものはあまりに範囲が狭い。見えているいる世界は、いつも絵を超えている。この永遠というほどの距離を何としても埋めようとして描いているようだ。

 来年、3月2日辺りから小田原に来るつもりだ。その時には欠ノ上田んぼ下の2反の耕作放棄地を、畔を作り、水路をつくり、復活させて田んぼにする。ユンボをおかりして、3日の作業となる。大変な作業であるが、何か胸膨らむものがある。農地の復活に役立てるという事が嬉しいことだ。何か人間としての役立っているような気になる。

 失われてゆく伝統農業のイネ作り。これはもう、伝承文化と言ってもいいほどである。農水省から、日本伝統イネ作り伝承者認定を貰いたいぐらいだ。石を積み田んぼを作る。こういうことはもう忘れられた文化だろう。苗代の苗作りと言っても実際に経験している人はほとんどいないのではないだろうか。ここから日本人が生まれたことなのに、大丈夫かニッポン。

 日本人の原点ともいうべきイネ作りを残してゆく。それは、田んぼを作るという水土作業から始まる。これはかつて天皇家が伝えたものだと考えている。日本の保守主義者はそうしたことを言わないのは何故だろう。田んぼがダサいと思っているのだろうか。

 今回の舟原上の田んぼの改修工事もそうだったと思うが、技術を伝承していく必要がある。ささやかなものではあるが、忘れられてから復活させるのでは、大変なことになる。どうすれば棚田の田んぼの水漏れを防げるか。これは重要な技術だ。

 復田を一緒にできるという事は、継承していく意義がある。やり方さえ分かれば、誰にでも取り組めることになる。田んぼの改修工事は復田してそこで耕作してみなければわからない。だから、土木工事の上手な業者でも、伝統農業の田んぼの復田は出来ない。

 元気回復事業で、欠ノ上田んぼの改修工事はやってもらった。私も一緒になってどうすれば田んぼに戻るのかを伝えようとした。元気回復事業は地域の土木業者に仕事を創出することが目的とされていた。初めての復田作業を体験して、次の仕事にしようという事であった。箱根板橋の方の業者だったが、その後そうした復田事業をやっているだろうか。

 次回は3月初めの2週間小田原に来る予定にした。欠ノ上田んぼ下の新しく田んぼにする農地の整備が中心になる。耕作放棄地が少しでも減るようまだまだ頑張るつもりだ。江戸時代初めには田んぼが開かれた欠ノ上の田んぼである。これで7反は復田できることになる。

 次に来た時には玉ねぎの草取りも出来るだろう。大麦の草取りもできる。その頃には溜池の一回目の草刈りと整備もしたいと思う。ため池の奥にイノシシ除けの柵が必要になっている。これは材料が来たならば、渡部さんがやってくれるというから、お願いすることにした。

 

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