昨日は一日、水彩連盟展を見せていただいた。ともかくゆっくり見せてもらう事にしている。500点とか言う数の水彩画が並んでいるのだから、一点1分としても、当然一日かかる。一緒に水彩画を探求する仲間なのだから、好みとか、良し悪しとは関係なく、その一人ひとりの、来し方行く末を思いながら、じっくりと対面させてもらう。今年は、遺作が6名あった。とくに、石丸裕希さんとは長い付き合いがあったので、とても悲しい気持ちになる。石丸さんとの出会いは、水彩連盟に出して、すぐの事であったから、30年と言う時間だった。長崎県佐世保の方で、武蔵美を出た方だ。とても反骨の人で、水彩連盟でも自分の明確な意志を貫かれていた。「笹村君、俺は嫌われているんだ。」良くこんな言い方で、話が始まった。生涯一人で暮していた。癌になって、ふるさとに戻った。戻るしばらく前に話しをした。笑おうと思うのに、申し訳ないが涙が出た。絵を描く生涯というものの意味を教えてもらった人である。
今年の収穫は、佐藤すみ枝さんの作品だ。「晩秋林間」という100号横の作品。深い心がある。覚悟というものがある。生きる人間の一歩ずつが絵に表れされている。この絵に出合えると言う事だけでも、水彩連盟展の価値はある。こう言う人は、絵が良いとか、完成度が高いとか言うのではなく、絵の前の人間の見ている世界が違うのだと思う。それが徐々に研かれて、ある日出現したのだろう。共に研鑽してきたものとしての大きな喜びが湧いてきた。青柳光枝さんも一段と世界を広げた。この人は前々から評価が高い人である。水彩画の可能性を切り開いている人である。既に世界を構築している人が、さらに高みに上がると言う事は、良しとされたものを、否定して行く事でもある。自分の絵画へのあくなき探究心があればこその事であろう。この姿勢は学ばせていただいた。
小室幸雄さん、「私の幸せな町」この人の作品のバイタリティーはすごいものがあるのだが、今回は抑制されて、それがとてもいい形での充実を見せている。以前の、アクリルを用いていた時の表面性とは、全くの違いである。細心と大胆。当然、世間の目では以前の派手な仕事のほうが、評価が高い可能性はあるが、この方向の先にこそ絵画というものがあると、楽しみに毎年見せていただいている。松永佳江さんも、良い作品を出されていた。いつもこの人の変貌には、驚かされるが、ここで留まるのか、さらに変貌するのか。何故、変貌するのか。何を絵に求めているのか。どうであれ、真剣な画面の緊張感が、絵が技法を越え始めていることを思わせる。その人の真実という所はなかなかわからないものだが、目を洗うような気持ちだった。北野喜代美さん。毎年楽しみにしている絵だ。こうした絵が見れるのも、水彩連盟の精神だろう。水彩絵の具の美しさが、傑出している。ただの色が、色彩に変わる。何かが誕生するような生きた画面。始めて気付いた人では、塚田幸子さん、「礼文の岬」なんともいえない美しさを持っている。茅ヶ崎の人らしい。こうして新しい才能に出会えることも、ありがたいことだ。
それにしても、たくさんの作品が見本市のように飾られていて、とても見ずらい。絵を見て、味わっていただくには、申し訳の無い会場である。描く者の研究の場と言う事で許していただくしかない。それにしても、アクリル画が目立つ。ほとんど油彩画の会と変わらない様相である。これで水彩連盟展か。と言うような驚きであるが、とくに会員にアクリル絵の具を使う人が多い。3分の2はアクリルか、コラージュであろう。受賞作の大半がそうである。その意味では、アクリル画会と言う事になったのかもしれない。確かにアクリル画としては、他では見られないレベルの高さがある。どう考えればいいのかは判らないが、行く末を思うときこのままでいいのかと不安になる。
今年の収穫は、佐藤すみ枝さんの作品だ。「晩秋林間」という100号横の作品。深い心がある。覚悟というものがある。生きる人間の一歩ずつが絵に表れされている。この絵に出合えると言う事だけでも、水彩連盟展の価値はある。こう言う人は、絵が良いとか、完成度が高いとか言うのではなく、絵の前の人間の見ている世界が違うのだと思う。それが徐々に研かれて、ある日出現したのだろう。共に研鑽してきたものとしての大きな喜びが湧いてきた。青柳光枝さんも一段と世界を広げた。この人は前々から評価が高い人である。水彩画の可能性を切り開いている人である。既に世界を構築している人が、さらに高みに上がると言う事は、良しとされたものを、否定して行く事でもある。自分の絵画へのあくなき探究心があればこその事であろう。この姿勢は学ばせていただいた。
小室幸雄さん、「私の幸せな町」この人の作品のバイタリティーはすごいものがあるのだが、今回は抑制されて、それがとてもいい形での充実を見せている。以前の、アクリルを用いていた時の表面性とは、全くの違いである。細心と大胆。当然、世間の目では以前の派手な仕事のほうが、評価が高い可能性はあるが、この方向の先にこそ絵画というものがあると、楽しみに毎年見せていただいている。松永佳江さんも、良い作品を出されていた。いつもこの人の変貌には、驚かされるが、ここで留まるのか、さらに変貌するのか。何故、変貌するのか。何を絵に求めているのか。どうであれ、真剣な画面の緊張感が、絵が技法を越え始めていることを思わせる。その人の真実という所はなかなかわからないものだが、目を洗うような気持ちだった。北野喜代美さん。毎年楽しみにしている絵だ。こうした絵が見れるのも、水彩連盟の精神だろう。水彩絵の具の美しさが、傑出している。ただの色が、色彩に変わる。何かが誕生するような生きた画面。始めて気付いた人では、塚田幸子さん、「礼文の岬」なんともいえない美しさを持っている。茅ヶ崎の人らしい。こうして新しい才能に出会えることも、ありがたいことだ。
それにしても、たくさんの作品が見本市のように飾られていて、とても見ずらい。絵を見て、味わっていただくには、申し訳の無い会場である。描く者の研究の場と言う事で許していただくしかない。それにしても、アクリル画が目立つ。ほとんど油彩画の会と変わらない様相である。これで水彩連盟展か。と言うような驚きであるが、とくに会員にアクリル絵の具を使う人が多い。3分の2はアクリルか、コラージュであろう。受賞作の大半がそうである。その意味では、アクリル画会と言う事になったのかもしれない。確かにアクリル画としては、他では見られないレベルの高さがある。どう考えればいいのかは判らないが、行く末を思うときこのままでいいのかと不安になる。
今年もこちらに来たら、出かけたいと思います。
ご案内送らせて頂きます。
メキシコのシュケーロスなどの絵画運動が頭にあったのだと思います。
大きいことの意味。結局、社会性。
小さいのだけ書いていると、内向きになりやすい。床の間芸術に陥る。
日本の立体が、床の間にあれば光っていても、野外に出すと、矮小な印象に成る。と言うようなことなのかな。
結局、芸術の目指す所と言うか。
あの新国立と言う会場に出す以上。あの会場での意味、と言う事になるような具合で。もうあの会場では無理と言う気はしてきています。
ミケさん(山本さん)から『笹村さんがコメントされてますよ!』でやって来ました。(ぺこっ)
相変わらず招き猫(陶器)作りの合間に絵?を描いていますが、絵画では自分スタイルを求めつつも横道ばかり。
笹村さんも大作でしたが、でっかいサイズの絵を出品する時、描いていて楽しいですが、美術館に飾られると場所取り過ぎたかな?と思ったり。
透明水彩絵の具なのにガッシュかなと言う使い方しか出来ませんが(ガッシュも併用していますが)、当面水彩紙と格闘してみます。そして出品作、愛知県美術館でゆっくり対話してみます。
もし時間が取れたら行きます。
今後とも宜しくお願いいたします。 松永佳江
というか、幾つかの部屋を巡って、次、と廊下へ出たとき、向こうの突き当たりの部屋正面に柔らかな色調の風景。多分、きっと、そして、当たりでした。
帰りも廊下の遠くから、何度も見ましたが、あそこに置くべき絵、というそんな感じでした。
丘陵の伸びやかさが、絵の前に立つ人を心地よくさせてくれます。画面右上の色(ピンクというと扁平な表現ですが)、そうそう、この色、芽吹きだすときの色合い!そう思って鑑賞させてもらいました。
水彩人の皆様のご親切なアドバイスをたよりに、制作しています。水と紙と絵の具が出会って思いがけない効果を見せてくれる時が嬉しいです。また、知り合った方々の絵が変化していくのも楽しみです。
芽吹き時のまばゆい、畑の姿です。毎朝散歩する場所です。
北野さんの絵に出合えたのも、水彩連盟を続けてきたありがたさです。