水彩画はかなり技術的な要素が強い画法である。熟達しないと自分の望む表現をすることが難しい。画面の状態がどのようであっても、自分の進めたい方向にできる技術を持つ所まで、熟練しなければならない。技術は絵を描く手順ではなく、自由になるためのものだ。ルネッサンス期の油彩画であれば、下塗りから、仕上げのワックスまで、一貫した手法が求められた。しかし後期印象派のように、野外で制作するというような即時性を必要とされ、技法そのものが変化をする。現代の油彩画は伝統技法が壊されながら、出来上がったようなものである。そこで、塗装用の素材であったアクリル絵の具が登場し、臨機応変な描写に対応する絵の具が出来上がる。一方水彩画は、すでに古代文明時代に存在するような素朴な材料である。顔料をアラビアゴムで溶かして紙に描くだけである。この素朴な技法を自分の思いに従い自在に扱える必要がある。
私絵画における水彩技法は、いかなる前提も持たないという事が大切である。例えば空は最初に塗るというような、前提を捨てるところから始まる。描く手順とか、方法は捨ててしまわないと、自分の目で見ているという事に従うことが出来なくなる。常に新鮮に、目の前にある何者かに対して先入観を捨て、素朴に向かう。描写手順というようなものが、画面に現れればそれは自分の想念の広がりを妨げることになる。ただただ見ているものを描く。その見ているという自分の実相を探りながら描く。その為に必要なことは、あらゆる状況に対応できる柔軟な技法である。どんな状態の画面であれ、自分の見えたことに進路を向けることのできる技法である。こんな仕上げをするので、まずは下塗りとしてこの色を置くというようなことは、無意味である以上に害悪になる。描きたいと感じたものにまず向かう。なかなかとらえられない。方法を変え、手法を変え、何とかその見えているものをとらえるために、動いていく。変幻自在な水彩技法でなければならない。
水彩画が困難な手法であるのは、一度描いたものは取り返しがつかないという事になりがちだからである。だから、水彩画の技法は一般に人まねのできない巧みさのある手順で描き、神業のような表現を求めることになりがちだ。出来嗚呼刈りの画面という結果からくる逆算の技法に陥りがちである。こうすると決めて、手順を考え作業をしてゆく。迷いとか、混乱は、問題を生むことになる。技術のない内は、分からないけれどやってみるという事では、良い結果を得られないのだ。その為に、結論を先に出すことになる。ところがこれが絵をやせたものにしてしまい、心の広がりや揺らぎから遠ざかる絵にしてしまう。人間の心は留まることはない。見えていることも変化を続けるし、見えていなかったことに気づくことの方が多いいものだ。人間が考えるという事はそういう事だと思う。数学の問題を解くときには、答えは分からないが、探る方法を身に着けていて、様々な角度から答えに向う。そして、試行錯誤の結果答えが突然降りてくる。絵はさらなる難問である。
何かこの先にあるという事に気づいたら、そこに向って探求を開始する。この探求の仕方がその人なのだ。探求である以上自由で、枠がない、あらゆるところに行けるものでなければならない。探求の方法は、無限に身に着けていなければならない。そしてその自分の方法もいつでも超えて探らなければならない。私絵画では答えなど分からないのだから、画面から次に進むための自由で多様な変化を可能にする技術を持っていなければならない。抜けるような空を描く方法が一つではだめだ。何度でも変わりながら、戻りながら、いつでもどんな空を可能にする水彩の技法である。ここが難しい。何度も塗り返し、洗いなおせばある種の調子に落ち込む。これを全く新鮮な紙に描いたように戻せる技術がなければ、水彩画は自由にならない。しかし、その技術を身に着けた時には、自分の心の反応に従い、画面は動いてゆくことが可能になる。水彩は心を一番反映しやすい、やはり素朴な材料であるからだろう。