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「親ガチャでなく、国ガチャ」

2021-12-09 04:16:26 | 暮らし


 ガチャというおもちゃ自動販売機がある。不愉快なものだと以前から思っていた。この時代らしいのかもしれないが、なんと親ガチャなどという腹立たしい言葉が登場した。何が出てくるかわからない、自動販売機でゴミになるかもしれないようなものを何故販売するのかが不愉快だった。

 たぶん、中にはとても高価なおもちゃが入っていて、それが当たるのかもしれないと思い買ってしまうのではないか。昔の縁日に、紐を引っ張るくじ引きの様なおもちゃ売りがあった。紐の先には目を見張るようなものがつられている。当然それは弾くことができない。

 子供のころの私はやりたいとも思わなかった。どうせ、仕組みがあっていいものにはひもは結ばれていないと疑っていた。嫌な子供と言えばその通りである。もしかしたら偶然が自分に味方してくれるかもしれないという期待感が嫌だったのだ。

 親ガチャ背景には今の社会の自己肯定感の問題が潜んでいる。どこかにある欠落感の代償として、偶然性の中に自分の幸運を期待する。自分の力ではないものに、期待する気持ち。同時に残念な自分の理由付けということにもなる。もしかしたら宝くじが当たるかもしれない。そうすれば人生の道が開けるだろうというあたりにしか希望が持てない時代。

 自分の人生は自分で決めるほかない。親ガチャなど言う発想はしてはいけないことだ。生まれてきたこと自体が、稀有な幸運なのだ。良い親とはたぶん金持ちの上級階級の親を意味しているのだろう。江戸時代であれば、武士階級に生まれ付いたものと、百姓に生まれ付いたものの、身分かもしれない。現代も上級国民という言葉が出て来る階層社会だ。

 百姓に生まれたから、つまらない人生に決まっている。今であれば富裕層の親の子供でなかったから、どのみちつまらない人生であるという思い込みがあるのだろう。こんな間違った考え方を増長しているのが、親ガチャなどといういやらしい言葉を使う連中である。

 確かに私は両親に恵まれたと思う。しかし、兄は両親に恵まれなかったと言ったことがある。同じ親である。要するに受け止め方の問題だ。好きなことを探せといつも言われて育った。私は絵が好きだと思う事にした。そう思う事に決めたのだ。好きだったとわかったのは60年もやってみた最近のことだ。

 祖父は日本画家に弟子入りした人だったし、叔父は彫刻家であった。そうしたこともあったのかもしれない。絵が好きだと言えば喜ばれると感じていたのかもしれない。実際はそうでもなかったかもしれないのだが。兄が好きだと思う事と両親の好みがずれていたかもしれない。

 絵が上手かったわけではないが、絵を描くことには熱中できた。誰かに決められたわけではないが、自分で絵を好きだと決めることにした。好きという事が良く分からなかったのだが、ここで自分で決められる性格だったことが幸いしたと思っている。

 自分で行く先を決めることのできた理由は、自分のどこかに自信が潜んでいた。自分にはできないことはないと思い込んでいた。それは絵描きになれなかったのだから、間違いでもあったわけだが、生きるという道では正解でもあったわけだ。絵を描くという事は誰にでも、いつまででもできることであった。

 社会的な評価は低いものであるとしても、絵を描き続けるという事は自分の問題としては何の問題もなかった。物は考えようで、都合よく考えてみれば、文化勲章を受章するいわゆる大画家の絵の大半を評価できない。世間の評価など生きる上では無意味だと思える。

 親ガチャどころか国ガチャだというのには驚いた。どこまでも人のせいにしてしまう。私は日本人に生まれたことを喜びにしている。稲作日本には誇りがある。江戸時代に構築した、循環型社会には大きな可能性を感じている。そして日本の文化としての絵画にも、深く感謝している。
 
 そうした文化を生み出すことが出来たのは、日本列島というたぐいまれな自然環境だと思っている。世界中には日本をはるかにしのぐ、絶景がいくらでもある。しかし、日本のように自然の中に融合した暮らしを、完結した美し場所は大切なものだ。見事に自然と人間が調和した暮らしがあった。

 国ガチャというのであれば、日本の藤垈の向昌院で生まれたことには感謝して生きている。結局のところすべてを良い方に受け止めているのだ。藤垈は生活の厳しい場所である。陽の当たらない、北斜面の標高350メートルの場所である。そこでの自給自足は大変なものであった。しかし、そのことに感謝している。その厳しい実態を見ることができたことに感謝している。

 何とかなると思えるようになったのは藤垈の暮らしを知っていたからかもしれない。どのような環境であるとしても、生きるという事の価値は少しも変わらない。そう考えることが出来るようになった。自分を幸運だと思えて生きてきた。そして楽観に至ることができた。

 自分の自給が出来たら、次はみんなの自給である。自然とそう考えることができた。自分の為よりも、みんなの為を考えた方が、元気が出てきた。絵を描くにしても私の絵が、みんなの何かになるようにという事をいまは考えている。

 どこまでも自分の為であることが、みんなのためにに繋がっているという意識である。私の絵など何の役にも立たないと現状では思っている。しかし、いつかは自分というものの底まで到達すれば、絵を見た人が楽観を感じてくれるような絵が描けると考えている。

 誰もが幸せに生きることが出来る。どのような産まれであろうとも、人間に生まれた以上、幸せな生涯を求め続けることが出来る。好きなことをやることが出来る。そうした社会にしなければならない。全体のことを考えると、確かに悲しくなるようなことが多いのだが。

 それでも自分の人生を他人のせいにしたところでなにも始まらない。そう考えるようになれたのは私の幸運である。石垣島でなかなか田んぼが借りられないできた。これは運の悪いことに見えた。ところが巡り巡って、崎枝の農地が借りられるようになった。これほどの幸運は無いだろう。

 多くの人の手助けがあったから実現できた幸運である。今までまとまりそうで、ダメになっていたのは、崎枝の農地にたどり着くためだったのだと気づく。ここで全力で最後の冒険を出来ることが、自分の幸運である。まだ体力が残っている間に楽園の農園に挑戦できる幸せ。

 自給農業の体験農園ができれば、どれほどの喜びかと思う。そこを目指して頑張れるという事が、何より面白い。この歳での挑戦なので、実現できるかどうかは危ういものである。全力でやってみるものができたと言うことが嬉しい。

 しばらく国全体ではどうにもならないだろうと思っている。それでも人間はそれぞれに暮らしてゆけるはずだ。その時に自分一人でも自分の人生を自由に希望に満ちて暮らして行ける技能を身に着ける。悪名高い技能研修生ではないけれど。

 それが、楽園の農園「楽観園」だと思っている。石垣島に戻り、いよいよ始める覚悟である。まずは正式契約はできた。次は今日農業委員会への申請である。つつがなく進むことを祈っている。
 
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