ふきのとう
Y支部と医療生協後援会が共同で「綿密に」計画した、Y地区の訪問活動でした。8人集まったので2人づつ4組できました。私はKさんと組みました。
「被災された方を見ると涙が止まらない」「私は東京大空襲で生き残った経験があるから、良く分かる」「原発だってどうなるの」「浅川ダムはどうなのかな・・・・そうですか。下に活断層があるんですか。それじゃダメだ」・・・・などなど沢山のご意見でした。
共通していたのは「選挙やる時じゃない。国民一丸となって救済活動だ」と、共産党の救済活動のチラシをよく見てくれました。「石坂さんはいち早く、栄村に行って村民を激励したんですよ」「栄村はどうですか?」などの質問も出ました。
福寿草
今日は、石巻に行った夫と娘から、時々メールや電話が入りました。
多賀城の坂病院に着いたのが朝7時頃でした。坂病院は、真ん中の娘が生まれた病院です。東北大学時代の夫の仲間が大勢います。
「病院は野戦病院みたい」「町はすごい有様だった」
実家はみんな無事でした!
姪も看護婦で、I病院に勤めていますが、病院から帰って来れないそうです。2千人も3千人もの患者でごった返しているとのこと。もう疲れ果てていることでしょう。
弟夫婦は、実家用に積んでいった食料と灯油をとても喜んでくれました。食料が手に入らないので、ひとつのパンを2人で分けて食べていたといいます。「灯油も友人と分け合っていたが、もう、自分の分もないから分けれなかった。寒いから助かった、本当に助かった。今日はたらふく食べた」と喜びの声をきいて、みなさんひもじい思いをしているのかと、涙が出ました。
物資の集まっているセンターに行けば少しは手に入るのでしょうが、車がないから歩きで行かなければなりません。弱い人にはとても無理です。何とかならないものでしょうか。それに8時間も9時間も並んでも、ろくに手に入らないと言います。
トイレも、水洗が使えませんから、新聞紙を敷いてやるんだそうです。弟は自宅の2階で寝れるのでそこに寝泊まりしていますが、「バッドを持って寝ている。留守宅に泥棒が入るんだ」そうです。
病院から施設に戻っていた母は、具合が良くなったから退院したではなく「野戦病院」で優先順序があったのですね。施設はやはり電機も通ってないから暖房なしだそうです。お年寄りがかわいそう。
3時に石巻を出発し、帰路につくとの連絡。母は点滴をしながら長野に向かっていますが、体が大変弱っています。でも、みんな母のように移動できればいいのですが、どうすることも出来ないお年寄りは施設で亡くなっています。私はそれも切ないです。
車はそろそろ、東北道から磐越道に入るころかと思います。
今日の写真は庭に見つけた春です。せめて写真だけでも明るく行きましょう。長野市の鷲沢市長が、性懲りもなくまた、権堂地域の一角を都市開発する案を出してきました。乱開発ではなくて、耐震など強くした計画的な町作り、普段から医療や介護、子育てを大切にしている政治が、災害時に強い町をつくります。選挙はそこを訴えたい。命を最優先すると言うことです。人を大事にする心です。
夫が植えたエンドウ豆
ホトトギス