あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

高崎・保渡田古墳群を訪ねる(群馬)

2015-03-06 21:56:53 | ウオーキング
 2015年3月4日(水)

 群馬は昔「クルマ」といい、その中心だった旧群馬県群馬町(現在は高崎市)は、古
くから住環境が優れていたことから県内でももっとも各時代の遺跡の密集する場所だと
いう。

 それら遺跡の一つである国史跡の「保渡田(ほどた)古墳群」を訪ねることにして、
JR武蔵野線新秋津駅で「青春18きっぷ」を求め、大宮駅経由で9時20分にJR高
崎駅で下車する。

 駅のコンコースにある観光案内所で、保渡田古墳群を紹介する「かみつけの里博物館」
のパンフレットなどをもらう。


 高崎駅西口9番乗り場から9時55分発高崎市営「ぐるりんバス」大八木線に乗り、
10時30分過ぎに井出町西バス停で下りた。


 バス道路を少し戻り、田んぼの中を北に伸びる車道に入ると、行く手に榛名連山の山並
みが広がり、その手前に保渡田古墳群のひとつ、芝生に覆われた二子山古墳が望まれる。



 開かれた田園地帯なので360度の展望が広がり、西方には独特の山容の妙義山塊↑が、
東北には昨日の降雪でうっすらと白い赤城山↓も望まれ、上毛三山は指呼のうち。

 日射しは暖かだが、向かい風がやや強く冷たさを感じる。

        
 二子山古墳や「かみつけの里博物館」近づいた右手路傍に道祖神が立ち、その向こうに
寺が見えたので先に立ち寄ることにする。

 大圓寺で、石彫の縁起によれば元和2年(1313)の開山で、京都仁和寺に縁があり、
親王から十六弁の菊紋を賜ったなどと記されているが、読みにくくて詳細は判読できない。


    
    本堂の屋根瓦には、確かに十六弁の菊花紋が見える。


 西側の阿弥陀堂には、鎌倉時代中期の造立と考えられるという、ヒノキ寄木造りで高さ
85㎝の漆塗り金箔を貼った阿弥陀如来座像が祭られていて、県内の木彫仏像の中でも優
品と評価できるものらしい。
        

 本堂前面壁面に「長野業盛奮闘の図」が掲額され、山門の横には、百個の「庚申」とい
う文字が刻まれた「一石百庚申」が、昨年11月に完成したお堂に祭られている。
        

 境内西側に隣接して吉井堤大明神があり、墓地の一角には古い双体道祖神が立っていた。

 寺を出て、三つの古墳と「かみつけの里博物館」、そして土屋文明記念館のある「上毛
野(かみつけの)はにわの里公園」のエリアに入る。


 正面にかみつけの里博物館↑を眺めて、まずは西南端の二子山古墳に上がる。


 遠くから見たときには芝生かと思ったが、近づいたら古墳は全面ササに覆われていた。


 この古墳群で最初につくられたという二子山古墳は、墳丘長108mの前方後円墳。周
囲に内堀と外堀を巡らし、外堀を含めた総長は213mあり、墓域面積は3万㎡とか。


 内堀の中に祭祀場と考えられる円形の中島↑が4つあり、墳丘頂上に設けられた埋葬施
設は大型の舟形石棺で、舟形石棺は、古墳時代の前期から中期にかけて国内の有力地域の
豪族が用いたものという。



 墳丘からは周辺の山々の展望がいっそうよく、西方の浅間隠し山の左肩には、残雪で真
っ白い浅間山↑が、北方にも残雪豊富な谷川連峰↓が望まれる。


 北側眼下には農産物直売所↓や土屋文明記念文学館などが見下ろせる。



 二子山古墳の墳丘から東に下りて、かみつけの里博物館に向かう。館の近くには、復元
したわらぶきの竪穴式住居があり、南側には140人収容という吹きさらしの休憩棟と、
はにわ工房やはにわ窯などがある。


 休憩棟に近づいたら、ここでボランティアをしておられるという男性が声をかけてきた。
県内各地の古墳めぐりをしていることなどを話したら、それならばと県内各地の古墳の解
説などを記した「東国文化副読本 ~古代ぐんまを探検しよう~」という学校教材に用い
ているという冊子をいただく。


 県内の古墳のことや、そばのはにわ工房やはにわ窯↑の説明もしてもらい、思いがぬ嬉
しい出会いだった。

    
 東側の高崎市立「かみつけの里博物館」(一般200円、65歳以上無料)に入り、最
初に企画展示室で開催中の「イノシシの考古学」という企画展を観覧する。


 その後、常設展示場を回り、5世紀の榛名山麓の古墳社会の模型をはじめ、王の館だっ
たという近くの三ッ寺遺跡のこと、王の墓、小区画水田、火山灰に埋もれたムラ、埴輪の
物語など9つのコーナーを巡り、1,500年前のこの辺り、かみつけの里の様子を理解し
た(館内は撮影禁止)。 下は、博物館の中庭に並んでいた埴輪。


 「かみつけの里博物館」のウェブサイトはこちらを

 13時を過ぎたので昼食をしようとしたが、一帯は強風にさらされていて適当な場所が
ない。休憩棟の西側に回ったら吹きさらしだが風が弱かったので椅子に座り、高崎駅で買
ってきた鶏めし弁当を平らげる。

 食事を終え、東西に走る車道を隔てて北側にある八幡塚古墳に行く。

 八幡塚古墳は1,500年前につくられた前方後円墳で、墳丘は3段に造られていて全長
は96m、墳丘一面は葺石(ふきいし)で覆われ、周囲には内堀、外堀、外周溝を巡らし、
それらの間に内堤と外堤が設けられていたという。

 墓域の全長は約190mに及び、内堀の中には二子山古墳と同様に4つの中島があり、
この古墳の特徴となっている。


 この古墳は発掘調査の結果に基づいて、造られた当時の形に復元されていて、推定約
398,000個という膨大な数の葺石に覆われ、出土品を模して造られた円筒埴輪約
6,000本や人物や動物など、埴輪もたくさん並べられていて、当時の里にタイムスリッ
プしたような貴重な景観となっている。



 高さ8mの後円部に上がると、やはり360度の大展望で、4方向のパノラマ絵図があ
り、山容から山名確認などができるようになっている。



 ここからは西に浅間山上部↑がかなり望まれ、西南方には西上州の赤久縄山(あかぐな
やま)や稻含山(いなふくみさん)↓などもはっきりと確認できる。


 吹きさらしの墳丘上は、北西の風が強くて飛ばされそう。でも15℃を超えると思われ
る気温で、寒さをそう感じないのが何より。

    
 後円部頂部から中への階段を下りると、舟形石棺が発見当時の配置で復元されていた。


 内堀にある4つの中島は2段に整えられ、回りには円筒埴輪が巡らされているが、中島
の性格は①古墳における祭祀の場と、②近親者や従者の埋葬施設(陪塚)などが考えられ
るが、いまだ明らかになっていないという。


 北側に回り、眼下に見えた県立土屋文明記念文学館に入る(一般200円、企画展開催
中410円)。


    
 この文学館は、群馬県ゆかりの文学資料を収集し企画展示などで公開するとともに、文
学に親しんでもらうための様々な事業を展開しており、この地出身の歌人土屋文明の業績
を記念してその短歌とともに生きた生涯を紹介し、あわせて関連する短歌などの資料を公
開している。

 最初に、第87回企画展「近代を駆け抜けた作家たち ~文豪たちの文字は語る~」を
見る。

 会場では、夏目漱石、若山牧水、高村光太郎。北原白秋、斎藤茂吉、芥川龍之介、江戸
川乱歩、与謝野晶子、太宰治、高浜虚子というそうそうたる作家10人の原稿や書簡、色
紙などを展示しており、文豪たちの直筆の文字や記された思いなどに目を引かれた。

 さらに当館収蔵の資料展として「群馬ゆかりの俳人 -鬼城・零余子・自得-」も開催
中で、私は知らなかった3人の句の色紙などを観覧する。

 常設展示室の「土屋文明-ひとすじの道-」「短歌の世界」では、当地、現在の高崎市
保渡田の生まれで文化勲章も受章した日本を代表する歌人、土屋文明(つちやぶんめい)
(1890~1990)の生涯と作品について、さらに万葉集から現代までの短歌や和歌
の資料の数々などを観覧した(全館撮影禁止)。

 土屋文明記念文学館のウェブサイト

 観覧を終えたら15時を過ぎており、下車した井出町西バス停15時28分発のバスに
は間に合いそうにない。保渡田古墳群の3つのうちの残る一つ、薬師塚古墳のある西光寺
にも回ることにした。


 西光寺は文学館からは西に200mほどのところ。本堂の背後が方墳部で、東北東の円
墳部の上に薬師堂があり、古墳の北側部分は道路などで切り取られて、古墳全体の形状は
判別しにくい。


 短い参道に2本のシダレザクラが並び、本堂前には以前の本堂に上がっていたらしい大
きな鬼瓦が残されていた。


      
 白梅の咲く横の石段を上がった円墳上に薬師堂が祭られ、お堂の前の小屋には、この古
墳に埋葬されていた石棺が展示されている。


    

 次の、前橋駅行きのバスまでは1時間以上ある。土屋文明記念文学館の北側にある公園
に戻り、わずかなエリアの公園内を一巡する。


 公園には、県内館林市出身の宇宙飛行士、向井千秋さんが、1998年にスペースシャ
トル「ディスカバリー」に持ち込んだ種子を育成したという、「宇宙クロマツ」の若木や、
土屋文明の歌碑、やはり当地出身の歌人、山村暮鳥(やまむらぼちょう)の「風景」歌碑
などがあった。




 まだ時間があるので土屋文明記念文学館↓にも再入し、映写コーナーの椅子で映像を見
ながら時間待ちをさせてもらう。


 土屋文明記念文学館バス停発16時55分の関越交通バスに乗り、17時30分過ぎに
JR両毛線前橋駅に着く。連絡よく17時41分発高崎線直通の上野行き上り電車に乗り、
大宮駅に向かう。

(天気 晴、距離 3.5㎞、地図(1/2.5万) 下室田、歩行地 高崎市)




関東地方 ブログランキングへ



にほんブログ村 アウトドアブログ ウォーキングへ
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

杉並・善福寺池の周辺を巡る(東京)

2015-03-01 23:12:21 | 江戸・東京を歩く
 2015年2月28日(土)

 西武新宿線の上井草駅で下車して10時10分にスタートする。ホームは上り下りが別
で、連絡通路はない。南側の下り改札口を出たところに、機動戦士ガンダムの「大地から」
と名付けられた銅像が立っていた。
          
 
 上井草にアニメ製作会社サンライズがあり、機動戦士ガンダムを町おこしに使用してい
るらしい。

 南西すぐ先に、上井草スポーツセンターがある。ここは上井草球場の跡地で、戦前には
巨人の大投手・沢村栄治投手が投げ、プロ野球公式戦も83試合行われたとか。


 戦後は拡張して4万5千人収容の球場となり、神宮球場が米軍に接収中は、2リーグ分
列直後のプロ野球や、東京六大学野球、高校野球などで盛んに利用され、私も中学時代に
観戦に来たような記憶がある。

 東京オリンピック開催の昭和39年(1964)に上井草給水所の配水池となり、4年
後には配水池上に軟式野球場を造成し、現在はプール、体育館、テニスコートなどもある
杉並区最大の総合体育施設。体育館の廊下には、球場時代の写真が掲示されていた。


  巨人 沢村栄治投手(昭和11年)   東京セネタースの名手 苅田久徳二塁手




 現在はサッカーなどに利用されているグランドの脇を少し進み、南側を西進すると、都
立農芸高校の農場があり、広大な果樹園などが望まれる。



 周辺の上井草四丁目には、広い敷地の古くからの農家も残り、そのひとつ西山家には、
杉並区有形文化財の穀櫃(こくびつ)があり、長い塀の一角が開かれて公開されていた。
        
 飢饉などに備えて雑穀を貯蔵するもので、江戸時代の村人たちは社会保障を領主政策に
任せず、民間でも積極的に整備したという。広い敷地内には、ケヤキの高木などがたくさ
ん残されていた。

 杉並工高の横から少しの遊歩道を進んで、切通し公園横に上がる。井草川の源流に位置
するこの辺りは、縄文時代の遺跡だったとか。


 すぐ先、青梅街道の走る五差路の南側一帯の森は井草八幡宮。東日本大震災で損壊し、
2年後に再建したという北鳥居から入る。


 八幡宮の周辺からは縄文中期の住居跡や多くの土器が発見されていて、中世初頭には武
蔵野台地の交通の要衝となり、文治5年(1189)に源頼朝が奥州征討の際には、戦勝
を祈願して境内に松を手植えしたとか。



 のち文明9年(1477)、太田道灌が石神井城の豊島氏を攻めた際には戦勝を祈願し、
慶安2年(1649)には三代将軍家光が社殿を造営させ、歴代将軍は朱印地を寄進した
という。


 社殿前に、源頼朝手植えの松の二代目の松が大切に育てられている。
      


 境内西側には井草民俗資料館があるが、公開日ではなかった。


 参道を挟み、区有形文化財の富士講灯籠(とうろう)2基が並んでいた。

 シダレウメの咲く南側を西進し、善福寺四丁目の善福寺境内へ。りっぱな本堂はコンク
リート造り。


 善福寺の開山時期は不明だが、本尊阿弥陀如来立像は鎌倉末期の作とか。「新編武藏風
土記稿」には「往古に善福寺池の池畔に善福寺という寺院があった」と記されているよう
だが、当寺が善福寺と改称したのは昭和17年(1942)のことで、関連はないらしい。

      
 本堂横に戦死者のための「鎮魂」碑と「清浄光塔」が立ち、南側の紅梅がわずかに開花
していた。門の周辺には、ソメイヨシノの古木が数本枯れ枝を広げている。


 周辺にはケヤキなど高木の多い農家が残り、新しい住宅地の一角に大和市(おおわし)
神社の小さな社殿がある。
        

 ご神体ははく製の大ワシで、大正14年(1925)に近くの一本松に止まっていたの
を散弾銃で撃たれとか。あまりにも大きかったのではく製にして、翌年村人が話し合って
お社を建てて祭り、大和市神社としたという。
    
 さい銭入れからのぞいたが見えず、デジカメを斜めに入れて撮ったら写っていた。

 南に下り、善福寺池を主とする都立善福寺公園の北端に入る。善福寺池は、かつて神田
上水の補助水源として利用され、武蔵野三大遊水池の一つとして知られていた。現在は上
池、下池に分かれ、両方で約3万7千㎡あり、公園全体の47%を占めるという。


 上池の西側を南に向かう。湖畔のネコヤナギがふくらみ、池にはカモが遊んでいる。


 斜面下に回ると、源頼朝が奥州征討から戻った際、干ばつだったので掘った「遅の井
(おそのい)」と呼ぶ湧水が枯れたので、井戸を掘ってポンプで汲み上げて復元したとい
う小さい湧水がある。
        
 「遅の井」とは、頼朝の軍勢が折からの干ばつで渇きに苦しんだのに、水が湧き出るの
が遅かったので出た言葉だという。

 そばの弁天島には、江戸時代、「善福寺の弁財天」といわれ、建久8年(1197)に
江ノ島の弁財天を勧請したのが始まりという市杵嶋(いちきしま)神社が祭られている。
      

      
 かすかに芽吹きの色づきを見せる対岸のヤナギなどを見ながら池畔を進み、渡戸橋で車
道を横切り下池へと進む。


 下池には枯れアシが茂り、湖の中の枯れ木に鳥が羽を休めていた。
    

 東端付近まで進むと、早咲きの桜が濃い色の花びらを見せている。
    

 善福寺池を離れ、善福寺川源流の橋となる美濃山橋から南下して、善福寺さくら公園か
らさくら児童遊園の横を通過する。

 都道113号に入って地蔵坂交差点や荻窪中の前を通り、原寺分橋から善福寺川右岸の
歩道へ。

 この辺り、川の両岸はコンクリート張り、そのうえ湖岸には住宅が接していて景観はい
まひとつだが、自転車も通れぬ細い歩道なので安心して歩ける。井荻橋で左岸沿いに回り、
西荻窪駅に延びる関根橋で善福寺川を離れた。

 西荻北二丁目の通りを東進し、少し先で左折して西荻図書館前を通過する。図書館前に
「城山と七ッ井戸」の説明板があり、近くの荻窪八幡神社周辺の台地上の、明治中頃まで
のことが記されていた。

 北側の杜橋から次の間中橋まで、再び善福寺川右岸の細い歩道を進む。左折して北に向
かうと青梅街道の手前右手の杉並会館に、「杉並アニメーションミュージアム」の表示が
出ていたので入館する。
      


 アニメーションミュージアムは3階。館内には、日本のアニメの歴史年表や、アニメが
できるまでの工程の説明、デジタルアニメの現状、アニメの原理の体験コーナーなどがあ
り、子ども連れの家族などで賑わう。
    





 中3階の企画展示室では、赤塚不二夫誕生80年記念の企画展(撮影禁止)が開催され
ていた(入館は無料)。

      
 道路を挟んだ西側の森は、旧上荻窪村の総鎮守だったという荻窪八幡神社。


 拝殿の前には、文明9年(1477)に太田道灌が石神井城攻めの戦勝祈願の際に植樹
したという、ご神木で「道灌槇(どうかんまき)」と呼ぶコウヤマキがあり、杉並区天然
記念物に指定されていた。
      


 都道4号・青梅街道の荻窪警察前交差点を渡り、すぐ東にある薬王院に行くが、門が閉
ざされていたので門のところからコンクリート造りのお堂を眺める。

 これから行く観泉寺の薬師堂らしい。

 交差点に戻って北へ、上井草駅に延びるバス道路を少し進むと、松乃家というそば屋さ
んがあった。もう13時半なので入り、つけとろそば(800円)で昼食とした。
    

 すぐ先左手には、広大な原っぱの広がる公園があった。

 杉並区立「桃井原っぱ公園」で、ここにはかつて大正14年(1925)に開設した中
島飛行機の原動機工場があり、国産第1号の飛行機用エンジンをはじめ、零戦のエンジン
も設計・製造されたとか。

 戦後は幾多の変遷を経て日産自動車荻窪工場となり、日本のロケット第1号も開発され
ているらしい。平成10年(1998)に工場が移転し、公園が開設されたのは平成23
年(2011)という。

 次の交差点から、中大杉並高の横を真っ直ぐに北進すると、たくさんの樹木が目に付く
広い境内の観泉寺である。


 観泉寺は、慶長2年(1597)に下井草村にて観音寺として創建された。それを今川
家十三代直房が上井草村のこの地に移転して、伽藍(がらん)を建立して寺領を寄進し、
今川家の菩提寺として観泉寺と改めたとか。

 慶安2年(1649)には幕府から10石の朱印状が与えられたという。


 どっしりした山門を入ると正面に大本堂があり、右手前にはシダレザクラの古木がまだ
枯れ枝で立つ。


 鐘楼のそばの紅梅が開花し始め、境内の植栽はよく手入れされていて気持ちよい。


 本堂左手の墓地の一角には今川氏累代の墓があり、都の旧跡に指定されている。


 墓地には、桶狭間の戦いで敗れた今川義元の子孫と、当地との関わりの説明板がある。


 寺域の東側から都道438号・早稲田通りに出て、ひとつ西の交差点から北へ、上井草
駅へ向かう。スタートした上井草駅には14時37分に戻った。

 今日歩いたのは東西、南北とも2・5㎞程度のエリアだったが、古代から近代までの種
々興味ある歴史を知ることができた。

(天気 晴、距離 9㎞、地図 (1/2.5万)吉祥寺、杉並区史跡散歩地図、歩行地
 杉並区、歩数 17,300)




アウトドア ブログランキングへ 



にほんブログ村 アウトドアブログ ウォーキングへにほんブログ村
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする