実家の納戸を整理していたら、1960年代の車雑誌、バイク雑誌を切り抜いてファイルしたアルバムが出てきた。
高校生の頃、教室の後ろで車雑誌やバイク雑誌を読みふけっていた。
進学校だったが、落ちこぼれ生徒が教室の後ろにかたまって悪さをしていた。
日本がまだまだ世界水準に達していなかった、、、発展途上の国だった。
しかし、すべてに勢いがあった時代です。
追い付け、追い越せ、いけいけどんどんだった。
車のカーレースの世界でも、日本グランプリでポルシェカレラ4=ポルシェ904に打ち勝とうとスカイラインが頑張っていた。カレラ4は市販とはいえ純然たるレーシングマシーン、それに対するスカイラインは5人乗りの四角いセダンだった、、、。生沢哲がドライブするスカイラインが純然たるレース車のカレラを抜いたときには、、、日本中が沸きました!
その翌年にはプリンスは同じエンジンを使い、車体からレーシングマシーンに仕上げてきた、プリンスR380(プリンスは日産に合併された。プリンスとスバルは戦前の中島飛行機を母体にする兄弟会社だった)が登場した。
子供ながらに興奮して、日本グランプリの実況中継にかじりついていた。
砂子さんのR380が優勝したんじゃないかな、、、。
もしかしてライバルのポルシェカレラ6=ポルシェ906が優勝したかもしれない。
遠い記憶なんで、、、。
R380は220馬力ですが、今では実用セダンのパワーですが、、、すごいなーーーて思ってあこがれていた。
雑誌の世界ではフランスのルマンでの激闘を息を凝らして見つめていた。
レースの世界では、当時はイタリア車が強くてフェラーリの天下だった。
それにアメ車のフォードGT40が登場してきて、大排気量に物を言わせて、小排気量のフェラーリを打ち負かし始めていた。
フェラーリは小排気量といっても3000ccあたりだったが、フォードやシャッパラル、マクラレーンは6000ccから7000ccもあった。最後のフォードJあたりになると8000ccにまで肥大していた。大排気量でOHVの古めかしいエンジンが、精密機械の素晴らしいデザインのフェラーリを打ち負かすのが「ずるいよーーー」と子供の心に感じていた。
今では強くなったポルシェは、カレラでも2000ccでそれらとは格が違った。
*シャッパラルのパワーソースはGMエンジンだった。リア―に高く大きな羽を付けて、可動式なのでコーナのたびにパタパタと鷲のように羽ばたいていた。奇想天外な発想のジム・ホールおじさんはオーナーでありレーサーであったし、ビックレースで優勝したこともあった。フェラーリやフォードさえ真っ青だった。レース中の事故でお亡くなりになったが、子供はこういう変人が大好きだったので、とても残念だった。
フェラーリ―は3000ccじゃかなわないとみると4000ccに排気量アップしたが、それでも何の変哲もないアメリカ製大排気量車に負け始めた、、、。
世界を制覇したアメリカのフォード車は、なんと、社長自らヨーロッパのレース文化を破壊したことを詫びて、レースから撤退した。
何の変哲もない8000ccのOHVの大排気量レース車が、精密機械で美しいヨーロッパの文化たるフェラーリ―を打ち破って、、、社長みずからヨーロッパ文化に謝ったのだ!
美しいものは美しくあれ~~~とフォードの社長は思ったそうだ。
醜いアメ車が、ヨーロッパ文化の輝きを破壊しちゃいかん、ということです。
以後、アメリカとヨーロッパでは、カーレースは別々のカテゴリーで開催されている。
そんな話は高校生にとっては、雑誌で知ることで遠い遠い世界だった。
バイクの世界はもうちょっと身近ではあった。
川崎の2ストローク120ccはC2SSだ。
軽快なデザインは今見ても素晴らしい!
90ccの車体に120ccのエンジンを載せていて、さぞかし速かっただろう。
いくらバイクと言えども、高校生の私には新車など買うお金もない。
雑誌で見てため息をつくのが精いっぱいだった。
まだまだ日本は(自分は)貧しかったのだ!
実際に高校2年の時に手に入れたバイクは、安い中古車だった。
事故車だったので125ccのベンリイc92(1959年製)が3000円だった。
ブレーキはプアーだし振動が多いし、ライトは暗いし、しょっちゅう各部が壊れるし、、、維持が大変だった。
伊豆半島に1人でツーリングに行ったとき、2気筒エンジンの片一方のプラグがロケットのように飛んで行ってしまった。
エンジン自体の金属材質が悪かったので、プラグ交換やチェックのたびに、ねじ山が削れてしまったからだ、
片肺エンジンで伊豆から帰ってくるのは、地獄のような運転だった。
坂道は登らないしバランスは悪いし、、、いろんなことをベンリイ号で学んだ。
エンジンは何度ばらして組み立てたかわからないほど。
車体の配線から、ブレーキ整備いろんなことを1人でこなした。
高校生活は何だったんだろうというくらい、バイク整備と陸上競技に明け暮れていた。
川崎の350は速そうでうらやましい限り。
ヤマハのデザインはキュートで素晴らしいかった。
2ストロークのエンジン音も大好きだった。
バラバラ安定しない排気がカッコ良かった。
バイクのエンジンは、当時から相当高性能にチューンされているからアイドリングが安定しないのだ。
ヤマハM2は305cc。
なぜかホンダのCB77も305ccだった。
その頃は、250ccのバイクをちょっとボアアップした大きめのバイクをホンダもヤマハも作っていた。
私が最初に手に入れたのがホンダC92という125ccの実用車。
大学に入りやはり中古車のCL72(250cc、ロードスポーツがCB72で、CLはダート用でスクランブラーと呼ばれていた)を手に入れた。
たしか7万円か8万円だったと思う。
友人の兄が乗っていたので新車のようにきれいだった。
それから数年後に、W1スペシャルの中古車を手に入れた。
W1sが一番距離を乗ったバイクかもしれない。
CL72はエンジンをおろしたことがない。
壊れなくなったのだ。
それから仕事をするようになってからバイクから少しの間離れるようになりました。
バイクレースの撮影は自分の中のメイン(気持ちだけで収入は違った)であった。バイク専門誌、写真誌、スポーツ誌から一般男性誌などをやらせてもらった。バイクレースの写真展を3都市で開催させていただいた。でも今は、スクーターを5年前に廃車してから乗っていません。健康の為もっぱらチャリ族になりました。
懐かしいアルバムですが、思い出は頭の中だけでいい、破棄します。