毎回お世話になっている、F本観光で行く「沖縄」は僕にとって、3回目の旅である。初めての、衝撃的場所から、妙に懐かしい場所になってるようで、不思議である。
以下・初日の沖縄日記だけで、かなり長い。書きとどめなければならないことばかりだった。
観光も、日常から離れた遊びも、醍醐味だが、「沖縄の歴史や文化を知りたい」は、大きなテーマだ。
観光立県を目指す沖縄は、インフラ整備で、どこかしこが掘られ、ホテルが建てられている。
年間観光客が600万、それを1000万にする目標があり、ホテルも足らないと、建設が進められているようである。
道路建設で見つかった「琉球王朝」時代の遺跡(墓の跡)が発掘の最中だった。
まあ、基地をあずかる見返りに、建設の予算は沢山あると言うことか・・・
普天間基地・僕にとっては「沖縄国際大学」に落ちた「ヘリ」のニュースの記憶が生々しい。ご覧のように、密集する市街に隣りあわせで、存在していた。
大戦中の激戦の地でもあったらしい。
車を走らせて、程なく、整備された道の両側が「基地」となった。
走っても走っても、基地である。
有名な「嘉手納基地」である。
展望台からの嘉手納は、基地の始まりと終わりが「見渡せない」程の、すさまじい広さである。
北谷(チャタン)・嘉手納(カデナ)両町と沖縄市にまたがる広さなのだ。
1枚目の写真下の金網のフェンスから基地である。
そして、そこにある「農地」はコンクリートの高い塀との狭間にある。
「黙認耕作地」である。
元々、原野そして「農地」を接収して基地が作られた。奪われた農民が、あまり使われていない場所を、アメリカ軍の許可の元に耕作しているらしい・・
まさに、飴とムチなのかも知れない。
地代(返還後の地代はかなり良いらしい・・)をもらいつつ、耕作か?
しばし、広さに圧倒されて眺めた。
盛んにF-18が飛び立って行った。
読谷村(ヨミタンソン)に友人の「娘さん」が「陶芸の修行」で働いている。
26年前・あかんべ山コンサートが始まり、乳飲み子だった彼女も、あかんべ山で育ち、音楽を愛した。全国を相棒の「チエ」ちゃんと「歌の旅」をして回っていたが、今はこの職業を選んで3年か?
友人の娘であるが、一緒に音楽を作った、仲間でもある。
再会・・・をしに来たのだ。
人間国宝「金城次郎」氏一門の工房が、彼女の職場である。
懐かしい再会を果たして、しばし、消息を確かめ合う。
その後、普段見られない「登り窯」を見せてもらった。
鮮やかな「赤絵」の生活雑器で、酒が呑みたいと購入した。
工房の「おじい」は優しかった。コーヒーを入れてもらって、黒糖を食べた。
名残惜しかったが、仕事の邪魔をしてはと・・次へ向かった。
すでに12時ははるかに回っている。辺りをつけておいた「漁港」近くの「海産物レストラン」に向かった。
オリオンの生は旨かった。
シャコ貝の刺身も最高だった。
で、これには参った!
「田芋(ターンム)とスーチカーの塩炒め」「クブシミのゲソのバター炒め」
絶品!まだ、旅の途中・「泡盛」に行けないのが残念だった。
ちなみに、ビールは酒じゃないのよ・・麦スカッシュね。
どこにでも、「ブーゲンビレア」。
読谷村はアメリカ軍の、沖縄本土上陸の出発の地である。
残波岬を目印に、その南に雨のような砲弾を撃ち込み、上陸を果たす。
地上戦で追い詰められた住民は、このチビチリガマで「集団自決」を行う。
非難した140名・自決者83名・その内6割は18歳以下の子供であった。
圧倒する・迫る・押し寄せる空気がある。静かに手を合わせた。
その「残波岬」に行った。
紺碧の東シナ海が広がり、美しかった。
岩場では、地元に人が、ロープなどで身を結わえながら、釣りをしていた。
アタリはあるが、なかなか魚は上がってこなかった。
旅1日目は終盤・・那覇への帰路についた。
Oちゃんの希望で途中泡盛の蔵に寄った。
珍しい、地下貯蔵だ。その上が、見学や試飲の場所だ。
この、ベーベーの開けてくれた、泡盛のプールに飛び込みたかった。
ホテルで一息つき、シャワーやまったりの時間を過ごし、街に繰り出した。
土産の買い物を済ませ、宅急便で送った。
郷土料理「あんつく」で、食事となった。
「あんつく」は浜辺などに良く生えている「アダン」の気根(これがおびただしく伸びているのだ)で編んだ籠だ。通気性が良く、弁当など運ぶのに最適らしい。
店の名前の通り、僕らの弁当の時間が始まった。
昼に頭に詰まってしまった、沖縄の歴史と垣間見た現在から開放の瞬間でもあった。皆、ほっとして楽しそうである。
空腹に「泡盛」はきついので、「沖縄そば」・ミミガー・ナーベラーンブシーである。ここのへちま(ナーベラー)は濃い目の味付けで旨い。
僕は、昼間の疲れ・寝不足・肩こりで食欲が無く、厳しかった。
で、皆に別れを告げ、ホテルでマッサージにした。
皆とは、11時「与世山さんの店」で落ち合うとなった。
その後、彼らは2軒回って、1日で4軒のはしごだから、恐れ入った。
ホテルでマッサージは60歳超の「おばさん」だった。
おばさんはほぼ1時間、沢山の話をしながら、揉み解してくれた。
その沖縄の話しは、深く・そして「昼間の基地の沖縄」を考える、1つの広がりを与えてくれたのだ。
話しの要約は以下である。
1・戦争が終わって、日本はすぐ「よその国」に私たちを預けたでしょ。
2・アメリカのおかげで、生活ができたのよ。
3・犯罪も起きるし、飛行機も落ちるけど、人が集まり、飛行場があればどこも同じよ(奇しくも、セスナが岐阜に落ちたばかりだった)。
4・建設なども盛んだけど、みな本土の大きな会社が元で受けて、その下で働いているの。
5・基地が無くなったら、本土から大きなのが乗り込んで、またそこに使われるだけ。
6・地元の企業で大きいけれど、オリオンだって名護の広い土地を使いきれないよ。
7・基地に出て行ってもらいたいなんて人は、少人数、皆それで暮らしてるの。
であった。
基地はいらない!と僕は今も思っている。
でも、返還後の県民の暮らしへの「豊かな」ビジョンが示せないで、説得力も何も無いと分かった。
マッサージで頭は混乱したが、体は楽になった。
僕の最大の沖縄・・日本の奇跡に近いJAZZシンガー「与世山 澄子」さんに会う時間が来た。
11時にステージと、事前に聞いていて、「インターリュード」に向かった。
与世山さんは、楽譜を整理していた。
シーバスのロックを頼んだ。店には、彼女の沢山のステージ模様の写真が飾られていた。
程なく、皆と合流。2杯目は、シーバスのハイボール。4軒目のOちゃんは、すぐに夢の中に入っていった。
ピアニストのソロが2曲続き、与世山さんがステージに上がった。
昨年の、スタンダードやポップと違い、ブルースが大半を占めた。
今夜にふさわしい・・と思った。
体を突き抜け、あるがままにね、と身も心も包む歌が響いた。
また、彼女に会えて、奇跡と思えた。
12月21日には、心斎橋「そごう劇場」でリサイタルがある。
ちょっと、遠くて行けないな。大阪は沖縄より、僕には遠い。
ちょっと、インフォメーションだけしておきます。
12月21日・「そごう劇場」・PM6:30開演。
大塚善章(P)中山良一(B)上場正俊(Ds)
前売り・4000円
そごう劇場・06-6281-3111
ホテルに帰って、すぐベッドに滑り込んだ。
あっという間に、朝だった。
こうして、僕の沖縄の1日が、終わった。
沖縄ってあの素晴らしい自然と優しい人々がいるから、余計色々と考えさせられちゃいますよね!
特に読谷はね!
これだけ盛りだくさんで、かつ纏まった記事が書ける。
という事は……
「当事者にしかわからない事情が色々ある」
と思いました。
実は向こうで書いてたんじゃないの?
でも、良い人多いね。
自然はすごい。
また、年が明けたら行きます。
ね!F本さん。
今回は、有意義なたびでした。
でも、タクシーに乗りながら、メモしまくりました。
写真も有効な、記録でした。
それに比べると、私のブログはお恥ずかしい限り(苦笑)、酒ばっか(再苦笑)・・・
いかに沢山・いたる所で・飲んだか、見事な記録です。
泡盛シリーズはないの?
僕と同じで、少し肥えましたね~
元気な証拠よ!
なるほど・・職業柄そんなとこ、行けるのね?
そんな考え方もあるか?
観光県を目指すと言うから、自然と暮し・諸刃の刃ですね。
今度は、もう少し早くの時間に会えたら、一緒に飲めますね。
あの時間、下痢で、ちょっと大変だったのです。