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今回沖縄旅は写真も膨大過ぎてその整理だけで、疲れ果て、文字に起こす気力が中々沸いて来なかった。きっと駄文が続くに違いないのだが、興味のある人はどうぞ・・・しかも、あのミネさんから「マニアックな旅ですねぇ・・」などと言われたテーマでもあった。
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戦前の沖縄で、悪口を言われず、ある意味たたえられるような軍人や本土から送られた官僚を僕はまだ3人しか知らない。
海軍のトップで、最後は海軍司令部壕で自決した「太田実中将」・・警察本部長(県警のトップだ)荒井退造・・そして赴任から6カ月弱であったが機能不全に陥っていた県政の立て直しに奔走した「島田叡」という県知事だ。
太田中将は、自決直前本土に打電した「沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別のご高配を賜らんことを。」が彼を表現するに最適か?
太田中将はしばらく前に気になって、かなり調べた。そかし、他の二人は名のみ知る程度だった。
そんな折、昨年「キノコ展」を宇都宮博物館に見学に行った折、「荒井退造の特別展」に遭遇。
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栃木出身ってのも、なんとなく出合いと感じた。
そして、以下の2冊の本にこれまた出合い、むさぼるように読んだ。
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「10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡」・TBSテレビ報道局「生きろ」取材班・・ポプラ社
「沖縄の島守」・田村洋三(元読売新聞記者・ノンフィクション作家)・徳間文庫
二人の沖縄の足跡を追体験してみようと、ふつふつと、そんな想いに僕はとらわれてしまった。
赴任期間の短さ、すでに混乱の中の戦争の只中で、彼らの文字資料は少なく、彼らの転々としたガマを酔興に辿ってみるようなブログなどもほとんどない状態で、2冊の本が全くの頼りだ。
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1944年「十・十空襲」と呼ばれる沖縄大空襲で最初の写真の「知事公舎」(現在福州園となっている敷地にあった)は破壊され、焼け残った県庁の一角で、知事の仕事は始まったらしい。県庁も県警本部も現在の敷地にあったようだ。
「十・十空襲」では、延べ1400機の艦載機の爆撃によって、那覇の町の9割が焼失し、5万人が焼け出されたという。
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島田は1945年1月31日、沖縄県に着任。荒井退造は島田よりひと足速い1943年7月の着任だった。
前知事や高級官僚の何人かが、本土へ出張名目で逃げていたりと、行政の機能がマヒ状態だった事態を、適材適所の抜擢などで、立て直す。
そして、彼らは、手を携えて、「県民が戦火に巻き込まれないよう疎開の推進」を目標に定め奔走する。
県民は「疎開」に対しかなりの抵抗があった。身内といればなんとかなるという思い。ましてや、日本が負けるわけがないと教育され、神風などを信じていたのである。あの、ひめゆりの子どもたちさえ、南風原に送り込まれたころは「誰も負けることなど」想像もしなかったという状況だ。そして1944年8月に起こった疎開船「対馬丸」が1か月もアメリカの潜水艦に付け狙われたあげく、魚雷で撃沈され1484名の命が奪われた事件も疎開に対し相当マイナスに作用している。
そこで島田は着任早々疎開推進のため「人口課」を創設。島田、荒井、浦崎人口課長と疎開が必要な地域に足を運び「講演」の形で、住民に疎開を要請してゆく。
最終的な疎開数は、県外73000・沖縄北部に15万人、疎開だけで20万人が命を救われたと言われている。
不足する食料では、あの手この手のつてなど使い、大量のコメを台湾から調達するのだった。(この運搬などでは、海軍・太田中将が力となった)
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ある意味、組織的戦争が終わる6月23日まで5か月の事態だ。このころ、軍も行政もそして住民も村を上げで避難できる「ガマ」探しに奔走している。
まぁ、軍などは、住民が見つけたガマを暴力的に奪ったりするのだから、始末が悪いのだが・・・
警察も県庁も、執務が行えるガマの確保を目指し、転々としながら粘り強い行政を行い続けたようである。
やがて、首里決戦で軍は破れ、南部敗走が始まるのだが、彼らも住民も、安住のガマはなく、軍の南下に合わせ、いくつかのガマを渡り歩くのだった。
今回の僕の旅は、この彼らのガマを歩き、あるいは、車で移動し、現地に立ってみるがテーマだった。
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県庁から極めて近い「城岳」(わしゃ、しろだけと読んでいたが、いつもお世話になるタクシーのS氏からジョウガクですと教わる)。
今は削られ、少し小高い丘だが、当時はもっと広く高い森だったようだ。爆撃で使っていた建物が全焼し、警察も行政も、県庁職員用に掘ってあった、ここのガマに移る。
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城岳からの県庁の眺め。
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頂上には「二中健児の塔」という学徒碑が建っている。
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現在確認できるガマの入り口に立つ。
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入りきれない職員たちは、壺屋の自然壕なども使った。ここは、てんぶす館南の希望が丘公園で、何十回も通っているのに、気が付かなかったのだから、いかにぼ~と、沖縄を歩いていたかわかる。
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島田知事は首里にあった「与儀医院」に間借りしていたようだ。現在も、与儀さんの末裔が住んでいるらしい。
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やがて、新しい大きな壕が見つかり、皆移動することになる。首里城の南のすそ野、繁多川・・城岳から4・5キロほどか?
最初にここ真和志村住民たちが確保しておいた壕・・「新壕(ミーゴー)」に警察・役場職員は移動し150人ほどが避難していたようだ。(この壕は5月11日軍が占拠し、住民一部職員は追い出されるのだった)
そして、シッポウジヌガマという大きな壕が見つかり、拡張工事なども突貫工事で行い、島田・荒井・県庁職員・警察部職員は移動することになり、ここを拠点に、軍からの情報収集、住民避難の指示など、しごとを続けたようである。
本にあったメモのような地図が頼りだったが、タクシーでランドマークの「識名宮」に下ろしてもらったら、立派な地図が道路に建っていて、両方の壕がかなり明瞭に表示されていて(細かい部分はあやふやだが・・)助かった。
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識名宮は思ったより立派だった!また、アツコたちの沖縄があったら「御朱印」だな。
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地図にあった「なごやか通り」を目指したら、ネットで調べた新壕付近の風景にほぼ同じ場所が目に入った。
あの木が生えた場所に違いないとほぼ確信。
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この土留めの上だろうな・・などと近くをうろついていたら、おばぁが「墓を探してるのかい?」と声をかけてくれた。俺は「戦争の時使った新壕を探してるのだが、この上かな?」おばぁは「ガマがあるさ」と・・・・・
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絶対ハブ注意のもりの中に、ぽっかり口をあけてガマがあった。
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次に向かったのは「シッポジヌガマ」・・広大な識名霊園にあるのは分かったが、似たような墓ばかりで迷路!
かなり迷い、人にも聴くが、分からず・・・・写真に収めた先ほどの地図をじっくり解析・・・「もっと奥だな」と歩いた。
この壕は行った人のブログで豪までの写真があり、目印が特徴的な墓となっていた。その墓を探すのだが無い。これが迷う原因だったのだ・・
墓だって立て直す・・・さ!!!!!
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そしてやっと標識を発見する。
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壕の前についに!
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古い説明書きのそばに新しい説明書き。いまだ、大切にされているようだ。
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入ろうとすれば、手続き踏めば入れるようだが・・・・
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内部は相当広い(当時は)らしい・・・入り口もいくつもあったらしい・・・そして今はこの入り口だけのようだ。
ここからほど近い、首里城の沖縄大本営に何度も出向き、情報収集・軍の動向を探る。そして軍に対し、南部への撤退は多大な住民を巻き込むことになると、軍に直言する。(彼は首里陥落で戦争を終わらせるべきと考えていたようだ)戦場行政・・幾度も会議が開かれ、島田はこう告げている「住民を飢えさせては行政責任者として最大の恥辱。住民の食料を確保することが至上命題だ」と。しかし、軍民が混在し、「捨て石が命題の軍」が居る戦場で知事の要求を満たすことは不可能だった。
こうして、島田叡と荒井退造の足跡をたどる旅の初日は終わった。那覇市内から繁多川まではタクシーを拾ったが、他はすべて歩いた。23000歩の一日が終わった。
やはり、穴をさがして徘徊する俺は、変人かもしれない。
ここまで読んだ方には、いつものように、わしゃ頬刷りをしたい。