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館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2020冬マイルで行く島!4月予定の「オサム観光の旅」の下見。

2020-02-10 04:55:38 | 旅は続く
こう年に何度も沖縄に行っていると、つまらんうわさ話もないことは無い。
某会社では、従業員が「怪鳥は・・ここで小指を立てて・・現地にいるんだよ~」などとのたもうやからも・・

だが、その本人は3日目も相変わらず、訪ねる人は少ない、穴や小高い丘など徘徊しているのだった。



沖縄都市モノレール「ゆいレール」は空港と首里を結ぶだけだったが、昨年首里の先まで伸びた。
終点まで行ってみようと乗った。終点駅はまだ周辺には何もなかった。



3日目は今年の4月(今のところ)に敢行される「オサム観光の沖縄旅」(まぁ・・ミネさんせいごうさん珍道中だが)のメイン企画の下見である。



首里駅手前の儀保からの車窓の眺め・・・焼け落ちた首里城が目に入るのだった。



浦添前田の駅を降り、浦添城址を目指す。



小学校は花盛りであった。



浦添は史蹟の保存も良く、案内もしっかりしているのだった。



火の神様。





水の神様。



ヒージャーと呼ばれる湧き水は、ダムが出来て水に困らなくなるまで沖縄の住民の暮らしを守る大切な水場だった。

流れ落ちる湧き水から1mほど下るとこんな印をよく目にすることができる。この十字マークの中は飲料水なので、洗濯や野菜など洗ってはいけないという印だ。




このがここから発祥したしたという、大切な祈りの場などもある。



こうして、史跡など眺めながら、「ようどれ館」という、案内所・ミニ博物館として建てられた場所にやってきた。
ここは、「浦添ようどれ」という、琉球王朝の始まり、第一尚氏一族のお墓がある場所なのだ。





そして、「ハクソーリッジ!」前田高地の日米の激戦地なのである。

ミネさんもせいごうさんも、米軍が最初に上陸した座間味を見学し、集団自決の見識を深めた。さらに、本土上陸の地、読谷村も見学してある。そして、日本軍と米軍が最初に激戦を繰り広げる「嘉数・幸地」の地はすでに踏んでいる。

さらに言えば、首里大本営そして、南部敗走の終戦までの沖縄戦の行くべき場所の大方は回っているのだ。
しいて言えば、セイゴウさんは「白梅隊の足跡」、さらにこちらはミネさんも未体験だが「積徳女学院の足跡」あたりがわずか残っているのかな?なのである。

これら沖縄戦の足跡で抜けているのは、嘉数陥落後の「前田高地」の戦い、そして、「首里決戦の地・シュガーロフ・ハーフムーン」の戦いの足跡を回ってみるであろう。これを行えば、ほぼ4・5年に渡った「沖縄戦の足跡」の大方が終わるだろう。





今回はその次回4月に案内しようと思っている「前田高地」そして「シュガーロフ・ハーフムーン」の下見なのである。僕は4回はここにきているが、それでも新しい発見はある。




城址公園は歩いているとあちこちにガマが口を開けていたりする。




やがて、ハクソーリッジ!



ほぼ90度の絶壁である。




やがて、ハクソーリッジの東の少しなだらか(と言っても70度はあるねぇ・・)な場所にしたに降りる階段がある。

この激戦は主に北海道の兵たちが闘い死んでいった。慰霊碑は建立当時の北海道の知事が揮毫したようだ。
何故か?玉ねぎが供えてあるのだが、北海道と言えば玉ねぎ?なのかな?




あちらこちらにガマがある。この高地の中に、蟻の巣のようなガマを構築し、米軍を散々に悩ませる闘いだったのだ。



この下は蟻の巣に違いないのだった・・・
少し時系列で、激戦を追ってみよう。
➀4月1日、読谷村に米軍上陸。
➁嘉数高台をめぐって1945年4月8日(7日)からの16日間に行われた戦いで火ぶたは切られた。その間の両軍の戦死傷者は合わせて約10万にのぼった(諸説あり)。嘉数の激戦地は今は普天間基地になっているのだ。
(嘉数に投入された第62師団独立混成旅団には京都出身兵が多く(約3500名)、そのほとんどが故郷を見ずに嘉数にて戦死しているため、“京都の塔”が建てられている。)6日「菊水作戦」発動・・早い話が戦艦大和以下海上特攻隊の攻撃だが、沖縄にたどり着くこともなく、撃沈。若い命が大した戦果もなく、海に消えて行ったのだった。この作戦に呼応して、8日に嘉数で火ぶたが切られたわけである。
➂4月26日、嘉数を落とした米軍は、前田高地に攻撃を開始。「ありったけの地獄を一つにまとめた」と米軍が表現した激戦であった。5月6日、前田高地での戦闘は米軍による前田高地の占領と日本軍の撤退により終結を迎える。
④軍内部でも「総攻撃に転じるべき」の意見が大勢を占め、日本軍からの総攻撃が5月4日開始される。
⑤総攻撃の主戦場、首里の大本営に一番近い陣地でも戦闘がおこる。5月12日から18日にかけて行われたた。米軍の付けた高地の名から、シュガーロフそしてハーフムーンの戦いである。ここが落ちれば、首里大本営の瓦解である。シュガーローフの丘は戦闘が行われた1週間で11回も日本軍米軍と持ち主を変え、ハーフムーンに至ってはアメリカ軍に主導権がわたることは一度もなかった。この戦いで海兵隊側は、2,662名の戦死傷者と、1,289名の戦闘疲労患者(発狂者)を出したとされる。日本側の損害については、この戦闘に限った統計がないため明らかではない。
⑥5月27日、32軍司令部は南部摩文仁へ撤退。31日には首里城に星条旗が揚がるのであった。



4年前に発掘された琉球王朝時代の城の石垣などは、復元されたかと思ったが、まだ発掘途中であった。




ハクソーリッジからの嘉数高台・そして幸地の高台が良く見える。




日本軍の食料保管壕なども整備されていた。



見学コースも整備。




食料のあるこちらの壕などは、大将や将兵が脱出の機会をうかがっていたらしい・・・大将は食料の傍かぁ・・・




この後、那覇のおもろまちの「シュガーロフ」に向かうのだが、折角なので途中の儀保駅で下車。警察の職員などが一時避難していた壕を見学。



いよいよ本日の最終。米軍が作成したち密なシュガーロフとハーフムーンに向かう。




おもろまちに下車。車窓から、乱立するビルの中の小高い緑地がシュガーロフだ。



シュガーロフは前回11月のミッキースペシャルで初日に泊まった、ホテルの傍、今は水道の塔が建つ急峻な丘の一帯だ。
ここおもろまちは、米軍住宅地帯だったが返還され、新都心として再開発された場所だ。返還前の年の経済効果は52億円、それが返還後1634億円となり、この32倍の経済効果に、沖縄が「基地が無くても、いや?基地が無ければ沖縄はやっていける」と自信を深めた象徴的場所でもある。




トレーニングによさそうな、すごい傾斜の階段を登ると・・・・




戦跡を伝える表示などあって・・・



塔婆なども立つ。



シュガーロフを降りて、坂道を南に下る・・・



小学校に隣接して、小高い公園がある。周りも丘もすいぶんと削られ、小さくなったようだが、ここがハーフムーンだ。



発掘された銃や爆弾などの破片が展示され、この場所の由緒を伝えていたはずのモニュメントは、壊れ、補修されることもなく、残骸な姿であった。

だめじゃん!!!那覇!!!基地は経済発展の邪魔だが、戦跡は邪魔にはならないだろう。そればかりか、歴史に学び、これからに生かす大事なものだと思うが?

どうも、市町村によって戦跡を残す取り組みにかなりの差があると僕は感じている。読谷村・浦添市・コザなどは前向き、中心都市那覇や最終日の記事に出てくる豊見城市などは後ろ向きな気がする。まだまだ、沖縄は奥が深いか?


コメント
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