殿は今夜もご乱心

不倫が趣味の夫と暮らす
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現場はいま…冬の陣・3

2021年11月25日 14時49分11秒 | シリーズ・現場はいま…
コロナ感染で在宅ワーク中のダイちゃんが

頻繁に電話をかけてくる日々は半月余り続いた。

夫が言うには、「どう?ちゃんとやってる?」から始まり

だんだんテンションが上がってキーキー言い出すのだそう。

キーキーの中には、ダイちゃんの無知から来る内容も多分に含まれていて

夫はいつも説明に苦慮するのだった。

何十年も前からやってきて感覚の一つになっている事柄を

マニュアルとして説明しろと言われても、口下手な夫の手に余る。

夫の説明で理解できないとなると、ヒステリックに責めるのが彼の常套手段だ。


この展開は、合併当初からあった。

ほんの一例だが、ある日の彼が投げかけた疑問はこれ。

「雨が降ると、何で休んだり早仕舞いするの?

僕たち事務方は、雨でも出勤してるよ?

事務も現場も1ヶ月分の給料なのに、天気で出欠が変わるなんてズルいよね」


バカタレが…そりゃ言いたい。

部屋の中でパソコンをつついていて、後ろから車に轢かれたりはしないし

何かミスをしても、それが即座に人命に関わるなんてことはまず無いだろう。

けれども現場は、常に危険と隣り合わせ。

特に雨天はハイリスクだ。

交通事故の可能性が高まるし、スリップや地盤の緩みなどの不可抗力も起きやすく

視界の悪化によって起きるアクシデントも増加する。

だから雨の日は、動かない方が身のためだ。


そしてそもそも、このようなリスクを避けるために顧客が休む。

搬入が止まるのだから、こっちも休むことになる。

雨は、現場で働く労働者の神経を休ませる日でもあるのだ。


とはいえカエルじゃあるまいし、雨が降ったからと喜んで休んでいては工期が遅れる。

建設の仕事は、まず工期ありき。

この日に着工、この日に竣工という前提で予算を立てるので

竣工予定日をオーバーすると赤字になるばかりか、工期を守れない会社は信用を失う。


そこで雨天の休業をカバーするため、祝祭日を使う。

建設業界は、祝祭日にあんまり重きを置かない。

盆正月やゴールデンウィークには、まとまった連休を取るが

それ以外の単発の祝祭日は、貴重な予備日という扱い。

予備日を使うことになるか否かは、お天道様と運任せだ。


雨で休んだ分は予備日の出勤で相殺され、わずかだが休日出勤手当が付く会社もある。

するとダイちゃんは、減らず口で言うのだ。

「休日手当の分だけ、得だよね。

僕らは休日出勤が無いから、もらうことは無いよ」

バカか…

晴れ間が出たら、いつでもスタンバイできるように待機するのが雨天休業じゃ。

再開の指令が出れば、夫は重機のエンジンを暖め、社員は駆けつけてダンプに乗り込む。

休みに酒飲んで寝るお前とは違うんじゃ。


現場は事務仕事と違い、電卓で割り切れるものではない。

何か造る時には地鎮祭をすることでわかるように、時には神様にもお出ましいただく。

安全を全うするためには、天の力までお借りする世界だ。

雨の日に休むのがズルいなんて、ホザく範疇のものではないのである。


素朴と言うにはあまりに残酷な疑問をいきなり投げかけられて

夫はいつも、その無知と傲慢に驚愕する。

重たい口でこれらのことをうまく説明できようはずもなく

精一杯説明したところで、口の減らない男ダイちゃんは

はなから納得するつもりなど無い。

「じゃあ、もしも1ヶ月間、雨が降り続いたら、君らは丸儲けってことだよね?」

万一そうなったら、給料の何割かを削られて最低保障金額になるだけだが

言いがかりはネチネチと続く。


とまあ、ずっとこんな感じよ。

10年前の合併で、金銭的な救済と安定を得た一方

このように現場を知らないド素人の介入で消耗することも増えた。

未知の世界のことに、自分の知る世界を無理やり当てはめて勘違いを重ねる姿は

見苦しくあさましいものだ。

その見苦しくあさましい言動によってストレスをかけ

現場の安全をジワジワと脅かしていることなど、彼らは生涯知りはしないだろう。

この繰り返しが10年続いているのだから、夫の苦労もわかるというものだ。


「窓際のあいつから、ちゃんとやってるかどうか聞かれるいわれは無い」

夫は最初のうちこそプリプリと腹を立てていたが

あれは家族向けの演技だと教えてからは、あまり気にならなくなったという。

相手が隠したい本意がわかれば、怒るのがバカバカしくなり、むしろあわれに思えるものだ。


10月の末が近づいた頃、ダイちゃんの電話攻撃はぷっつりと止んだ。

自宅待機が終わって、出勤を始めたらしい。

本社はこういった都合の悪いことを一切、こちらに知らせないが

ダイちゃんもまた、自分がコロナに感染したことを言わないまま騒ぎは終了した。



さて、松木氏は復帰して以降、非常におとなしい。

もはや嘘をつく元気も野心を燃やす気力も失せたようで

抗癌剤投与のために休んだり、出勤してソファーで寝るのを繰り返していた。

が、11月に入って、彼は転属願いを提出。

希望したのは、こちらへ配属されるまで居た県東部の生コン工場だ。

そちらの方が通院する病院に近いという理由だが、真相は旗野さんだと思う。


なぜなら彼女は、スマホのゲームをライフワークにしている。

そしてゲーム中は、いつもくわえタバコだ。

勤務中にくわえタバコでゲームをする事務員なんか

辞めてもらった方がいいのはともかく、肺癌の手術をした松木氏にとって

チェーンスモーカーの副流煙は拷問に等しい。

注意しても聞いているんだか、いないんだかわからないのもあるが

あんまり厳しく言って、辞める辞めないの話に発展した場合

自身の勤務態度が露見する恐れがあるので、松木氏はそれを公にできない。

旗野さんのタバコが煙たいのは、彼が一日中、事務所で寝ているからで

それを本社に知られると自分の身が危ないではないか。

そのため究極の選択により、こちらを去ることにしたと思われる。


松木氏の転属願いは受理され、彼は先週から来なくなった。

ずっと寝ている人間がひとまず消えて、夫や社員は清々しい様子。

こうなると、我々は冗談交じりにささやき合う。

「旗野さんには隠れた才能があるのかもしれない…」

たまたまとはいえ、ダイちゃんをコロナ感染で、松木氏をタバコで撃退したからだ。

彼女の隠れた才能とは、魔除けである。

《続く》
コメント (6)
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