今から30年近く前のこと。
長男が小学生の頃
私はPTA役員で研修部長という役をやっていた。
この役はそもそも、夫が引き受けたもの。
でも彼、PTA活動に勤しむうちに
長男の副担任と不倫関係に陥り、短期間ながら駆け落ちしやがった。
このことは学校の内外で評判となったため
PTA会長以下、役員が激怒したのは言うまでもない。
当時のPTA活動は活発で、縦の関係が運動部並みに厳しかった。
彼らは夫がしでかした行為の善し悪しよりも
「会長以下三役の監督不行き届き」という事態になるのを恐れていた。
問題が問題だけに、先生たちも困っていた。
「駆け落ちで、役員が一人抜けました」
では、全校の父兄に申し訳が立たないからだ。
そこで私に夫の身代わりを務めるよう、P&Tからお達しが。
仕方なく引き受けた。
自分の亭主の不始末なんだから、そうするしか無いではないか。
夫がいなくなったのは夏休み中のこと。
夏休み明けの9月には、研修部長率いる研修部主催の
大きな行事が待っていた。
その行事ってのが、体育館に集めた全校児童と親に向けて
研修部が何か出し物をするというもの。
これまでやってきたのはアマチュアの指人形や紙芝居、演奏会など。
テーマは道徳や差別など、年ごとに決められていて
その年は平和教育だった。
「できれば戦争のこととか‥」
研修部付きの教師は言う。
何をやるかは、研修部長に一任されていた。
そこで私は「児童書を元に影絵でも作ったれ‥」と考えた。
ところが、会長以下三役からストップがかかる。
著作権がどうのこうの言い出したのだ。
その数年前、研修部は当時流行した
『一杯のかけそば』という紙芝居をやった。
父親を亡くした母子が3人で蕎麦屋に入って
一杯のかけそばを3人で分けて食べた話。
日本中が泣いた!みたいな大宣伝で、一大ブームが起きたものだ。
余談になるが、私はこの話、好きじゃない。
蕎麦屋へ一緒に入れるお母さんがいるのだ。
うらやましい話ではないか。
どこが泣けるというのだ。
話を戻すが、その『一杯のかけそば』を紙芝居にするにあたり
著作権をお気になされた思慮深いPTA会長様は
作者のおじさんに会いに行って、本人から直接承諾を得たと言う。
それは武勇伝めいた伝説になっており
これをやらなきゃ著作権侵害になってしまうと、彼らは口々に言う。
亭主の不始末で女一人、役員に紛れ込んだ私を
彼らは温かく迎えてくれはしたが
こういう時は、女がどこまでできるか
薄笑いを浮かべながら試している雰囲気を感じた。
男って面倒くさい。
はるばる作者に会って許可を得る気なんて、怠け者の私にはさらさら無い。
「作りゃええんじゃ、作りゃ」
と思い立ち、一晩でオリジナルのシナリオを作った。
母親の被爆体験を元にした、ほぼドキュメンタリー。
子供の頃からさんざん聞かされていたので、簡単だ。
これで影絵を作って、スライド上映をするつもり。
こっぱずかしいので自作というのは言わずに
役員会で原稿を配り、この計画を発表した。
影絵の方は、統一感を出すために私が何十枚かの下絵を描き
それを皆に塗ってもらえば全員参加になると提案した。
どうなったと思う?
私は三役を始め、役員の人たちに詰め寄られた。
「著作権をちゃんしておかないと、後で厄介なことになる」
「これを公にしたら、この体験をした人は傷つくのではないか」
「本人の許可は取ってあるのか」
めんどくさ。
自分で作ったと言い、本人はもう死んでいるので
許可は取れないと言ったら静かになった。
ここで、読み聞かせの会で活躍している学校事務の女性が
「どうしてもこれを子供たちに読み聞かせたい」
と言い出してナレーターに立候補。
さらに役員の一人の職業カメラマンが
影絵を撮影してスライドにしてやると言った。
その人たちの援護もあって、研修部主催の影絵は
すんなりと実行が決まった。
良かった良かった。
これで行事は楽勝よ!
と言いたいところだけど、そうは問屋が卸さない。
私の前に立ちはだかったのはサヨクという生物。
この人、うちの子と同級生の母親だが、確固たる思想をお持ち。
夫婦共に在日枠の中途採用、無試験の地方公務員とご紹介すれば
その厄介な品質がわかるだろうか。
一家はその前年、いずこからか引っ越してきた。
夫婦が国を相手取って複数の訴訟を起こしているのは
報道によって周知の事実。
係争中の案件や裁判費用の出どころを考えれば
強大な組織の一員ということも、やはり周知の事実。
授業参観後の懇談会では、人の言葉尻を取りまくり
自分の演説に持ち込もうとするので、毎回そりゃもう大変だった。
下手に関わると、いつ、何を理由に訴訟を起こされるかわからない。
周りは遠巻きにして、様子をうかがうしかないのだった。
シナリオの添削会議で、その人が得意げにおっしゃるわけ。
「昭和という元号の使用は認められませんっ!」
「お嫁入りという言葉は、使ってはいけないんですっ!」
キャンキャン、うるさいのなんの。
吠えるモンチッチみたいなこの人
当時は自費出版で童話を出したばかり。
これも組織のバックアップなのか
新聞やテレビがもてはやしたので、皆知っていた。
だから本人はプロのつもりで
「私が出版した童話なら、表現に問題はありません」
と言い出した。
つまり自分の作品を取り上げて欲しかったらしい。
それならそうと、早く言ってくれればいいものを。
が、しかし‥
「元号を認めない」などと
上から目線で言う権利がどこにあるのか。
しかもそのついでに自分の作品を売り込もうとする小ズルさ。
私はこれに反発し、絶対にやらせるものかと心に誓った。
とはいえ相手は、百戦錬磨の組織的思想人。
教師たちは日教組の方針で彼女寄りの思想を持っていて
君が代を歌わないの国旗は揚げないのと騒いでいたが
この時はモンチッチの剣幕にたじろいで無言。
日頃、そんな教師たちに批判的な三役もおし黙り
チュンタローに甘んじる構え。
そこで私も討論を避け、昭和は「今から◯十年前」に変えて
「お嫁入り」のフレーズが出てくる部分はバッサリ割愛した。
自作だから、どうにでもできるもんね。
彼女の繰り出す思想発言に、皆もうんざりしていたのか
腕組みをしながら次々と難癖をつける彼女を置き去りにして
影絵の製作は盛り上がった。
塗り絵は楽しかったらしく、日が暮れると学校に集まっては
役員一同、嬉々として取り組んだ。
影絵の上映は、リハーサルを経て本番を迎えた。
事務先生のナレーションは観客の涙を誘い
カメラマンの作ったスライドは見事な出来栄えで
行事はまずまずの成功をおさめた。
私は大任を果たし、ホッとすると同時に
公平や平等を振りかざし、特殊な思想を強制しようとする人間が
組織によって身近に配置され始めていることを改めて思い出した。
世の中がおかしくなっていることに気づいた、最初の出来事だった。
長男が小学生の頃
私はPTA役員で研修部長という役をやっていた。
この役はそもそも、夫が引き受けたもの。
でも彼、PTA活動に勤しむうちに
長男の副担任と不倫関係に陥り、短期間ながら駆け落ちしやがった。
このことは学校の内外で評判となったため
PTA会長以下、役員が激怒したのは言うまでもない。
当時のPTA活動は活発で、縦の関係が運動部並みに厳しかった。
彼らは夫がしでかした行為の善し悪しよりも
「会長以下三役の監督不行き届き」という事態になるのを恐れていた。
問題が問題だけに、先生たちも困っていた。
「駆け落ちで、役員が一人抜けました」
では、全校の父兄に申し訳が立たないからだ。
そこで私に夫の身代わりを務めるよう、P&Tからお達しが。
仕方なく引き受けた。
自分の亭主の不始末なんだから、そうするしか無いではないか。
夫がいなくなったのは夏休み中のこと。
夏休み明けの9月には、研修部長率いる研修部主催の
大きな行事が待っていた。
その行事ってのが、体育館に集めた全校児童と親に向けて
研修部が何か出し物をするというもの。
これまでやってきたのはアマチュアの指人形や紙芝居、演奏会など。
テーマは道徳や差別など、年ごとに決められていて
その年は平和教育だった。
「できれば戦争のこととか‥」
研修部付きの教師は言う。
何をやるかは、研修部長に一任されていた。
そこで私は「児童書を元に影絵でも作ったれ‥」と考えた。
ところが、会長以下三役からストップがかかる。
著作権がどうのこうの言い出したのだ。
その数年前、研修部は当時流行した
『一杯のかけそば』という紙芝居をやった。
父親を亡くした母子が3人で蕎麦屋に入って
一杯のかけそばを3人で分けて食べた話。
日本中が泣いた!みたいな大宣伝で、一大ブームが起きたものだ。
余談になるが、私はこの話、好きじゃない。
蕎麦屋へ一緒に入れるお母さんがいるのだ。
うらやましい話ではないか。
どこが泣けるというのだ。
話を戻すが、その『一杯のかけそば』を紙芝居にするにあたり
著作権をお気になされた思慮深いPTA会長様は
作者のおじさんに会いに行って、本人から直接承諾を得たと言う。
それは武勇伝めいた伝説になっており
これをやらなきゃ著作権侵害になってしまうと、彼らは口々に言う。
亭主の不始末で女一人、役員に紛れ込んだ私を
彼らは温かく迎えてくれはしたが
こういう時は、女がどこまでできるか
薄笑いを浮かべながら試している雰囲気を感じた。
男って面倒くさい。
はるばる作者に会って許可を得る気なんて、怠け者の私にはさらさら無い。
「作りゃええんじゃ、作りゃ」
と思い立ち、一晩でオリジナルのシナリオを作った。
母親の被爆体験を元にした、ほぼドキュメンタリー。
子供の頃からさんざん聞かされていたので、簡単だ。
これで影絵を作って、スライド上映をするつもり。
こっぱずかしいので自作というのは言わずに
役員会で原稿を配り、この計画を発表した。
影絵の方は、統一感を出すために私が何十枚かの下絵を描き
それを皆に塗ってもらえば全員参加になると提案した。
どうなったと思う?
私は三役を始め、役員の人たちに詰め寄られた。
「著作権をちゃんしておかないと、後で厄介なことになる」
「これを公にしたら、この体験をした人は傷つくのではないか」
「本人の許可は取ってあるのか」
めんどくさ。
自分で作ったと言い、本人はもう死んでいるので
許可は取れないと言ったら静かになった。
ここで、読み聞かせの会で活躍している学校事務の女性が
「どうしてもこれを子供たちに読み聞かせたい」
と言い出してナレーターに立候補。
さらに役員の一人の職業カメラマンが
影絵を撮影してスライドにしてやると言った。
その人たちの援護もあって、研修部主催の影絵は
すんなりと実行が決まった。
良かった良かった。
これで行事は楽勝よ!
と言いたいところだけど、そうは問屋が卸さない。
私の前に立ちはだかったのはサヨクという生物。
この人、うちの子と同級生の母親だが、確固たる思想をお持ち。
夫婦共に在日枠の中途採用、無試験の地方公務員とご紹介すれば
その厄介な品質がわかるだろうか。
一家はその前年、いずこからか引っ越してきた。
夫婦が国を相手取って複数の訴訟を起こしているのは
報道によって周知の事実。
係争中の案件や裁判費用の出どころを考えれば
強大な組織の一員ということも、やはり周知の事実。
授業参観後の懇談会では、人の言葉尻を取りまくり
自分の演説に持ち込もうとするので、毎回そりゃもう大変だった。
下手に関わると、いつ、何を理由に訴訟を起こされるかわからない。
周りは遠巻きにして、様子をうかがうしかないのだった。
シナリオの添削会議で、その人が得意げにおっしゃるわけ。
「昭和という元号の使用は認められませんっ!」
「お嫁入りという言葉は、使ってはいけないんですっ!」
キャンキャン、うるさいのなんの。
吠えるモンチッチみたいなこの人
当時は自費出版で童話を出したばかり。
これも組織のバックアップなのか
新聞やテレビがもてはやしたので、皆知っていた。
だから本人はプロのつもりで
「私が出版した童話なら、表現に問題はありません」
と言い出した。
つまり自分の作品を取り上げて欲しかったらしい。
それならそうと、早く言ってくれればいいものを。
が、しかし‥
「元号を認めない」などと
上から目線で言う権利がどこにあるのか。
しかもそのついでに自分の作品を売り込もうとする小ズルさ。
私はこれに反発し、絶対にやらせるものかと心に誓った。
とはいえ相手は、百戦錬磨の組織的思想人。
教師たちは日教組の方針で彼女寄りの思想を持っていて
君が代を歌わないの国旗は揚げないのと騒いでいたが
この時はモンチッチの剣幕にたじろいで無言。
日頃、そんな教師たちに批判的な三役もおし黙り
チュンタローに甘んじる構え。
そこで私も討論を避け、昭和は「今から◯十年前」に変えて
「お嫁入り」のフレーズが出てくる部分はバッサリ割愛した。
自作だから、どうにでもできるもんね。
彼女の繰り出す思想発言に、皆もうんざりしていたのか
腕組みをしながら次々と難癖をつける彼女を置き去りにして
影絵の製作は盛り上がった。
塗り絵は楽しかったらしく、日が暮れると学校に集まっては
役員一同、嬉々として取り組んだ。
影絵の上映は、リハーサルを経て本番を迎えた。
事務先生のナレーションは観客の涙を誘い
カメラマンの作ったスライドは見事な出来栄えで
行事はまずまずの成功をおさめた。
私は大任を果たし、ホッとすると同時に
公平や平等を振りかざし、特殊な思想を強制しようとする人間が
組織によって身近に配置され始めていることを改めて思い出した。
世の中がおかしくなっていることに気づいた、最初の出来事だった。