殿は今夜もご乱心

不倫が趣味の夫と暮らす
みりこんでスリリングな毎日をどうぞ!

薔薇色暮らし

2011年02月11日 11時08分58秒 | 前向き論
バリカンの故障というアクシデントにより

夫の頭が気の毒な形状となって十日。

理髪店でスポーツ刈りふうに、ごまかしてもらったところだ。


頭は全治?十日ですんだが、足のほうも困ったことになっている。

昨年の夏に傷めた右ヒザが、いまだに祟っているのだ。

デート中になにがしかの原因で、靱帯(じんたい)を損傷し

その足で彼女とバドミントンに興じて、さらに悪化した。

今も、右足を痛そうにひきずっている。

おそらく完治は難しいだろう。


色に溺れたオスが、ヒザを傷めたらどうなるか。

体勢的に、本能の全うが困難となる。

考えてみたまえ…

あれは、健康なヒザがあって初めて成立する行為なのである。


立って歩くだけでも難儀なのに

壊れたヒザにかかる負担は、大変なものだと察する。

最初のうちは、女の同情と両者の創意工夫でどうにかなるにしても

毎回となるとねえ。

よって、密会は自然に減っていく。


今の彼女は、夫より年上…つまり婆さんだ。

これよりマシなのが見つかるまでの、言わば“しのぎ”である。

浮気相手というのは、そもそも皆“しのぎ”だ。

これを唯一無二の一人前と錯覚したい男

ぜひともそう扱って欲しい女

そして、ご親切にもそう思い込んでやる妻。

この三者が揃うと、三角関係が成立する。

しのぎでしかないものを、わざわざ祭り上げてやることはないのだ。


はなからどうでもいい女に、目新しさが無くなると

やっぱり密会は減る。

頭髪に問題が生じて、しばらく姿が見せられなくてもどうってことない。

痛むヒザには、いい休養になったのではあるまいか。


一見、色とは無関係でありながら、実は意外に重要だった箇所が

ピンポイントでイカれるこの妙技。

困るのは本人ほか1名だけで、あとは誰も困らない。

「おみごと…」そっと天をあおぎ、つい口元がゆるむ私である。


そんな夫と私は、相変わらず、共に仲良く暮らしている。

仲良くというのは、ベタベタ・ラブラブのことではなく

腹の立たない間柄のことである。


昔は、この“仲良く”の意味がわからなかった。

誰からも愛され、尊重され、心に一滴の憂いも無い土台が大前提。

もちろんその土台は、夫が用意するものと思い込んでいた。

その上にどっかりと腰をおろして

あはは、おほほと笑い袋のようにはしゃぎつつ

手を取り合って暮らすのが、正しい“仲良く”だと思っていた。

毎日が手放しのバラ色でなければ、そのまま不幸…ということになっていた。


我らの結婚生活は、常によそのネエちゃんと三人四脚。

だもんで、私の毎日はバラ色でない…ということになり

したがって、気分はずっと不幸であった。

自業自得ならあきらめもつこうが、他者の笑顔のために

自分だけが人柱にされている気がした。

こんなにみじめな人生が他にあろうかと、悲しかった。


エラい人は、皆おっしゃる。

「あなたの持って生まれたカルマを刈り取っているんですよ」

旦那と女は楽しんで、わたしゃ草刈りかい!

自分で考えても、誰に聞いても、どんな本を読んでも

この不公平の決着がつかない。


しかし、過ぎ去ってみるとわかる。

あれは、不公平なんかじゃない。

弱い自分から、したたかな自分になるための

特別サービスであった。


年を取れば、子供も大きくなる。

大きくなれば仕事もするし、車の運転も、恋もする。

勉強しないとか、人参を食べません…なんてのとは

レベルが段違いの心配や悩みが出てくる。

親や親しい人も、いつまでも元気じゃないし、やがては死ぬ。

自分だって、顔やプロポーションの造作をチマチマ気にしていたのが

内臓の造作を気にしないといけなくなる。


若い頃と違って、1個1個の問題が重たいのだ。

気力体力が衰えてくると、いっそう重量を増す。

しかし今のところ、たいていのことは

「あの時よりマシ」で乗り切れている。

もし経験していなかったら…ゾッとすることは、たくさんある。


人はどうだか知らないが、私はこうなっていると思う…

子供を追いかけ回しながら、死人を思い出しては涙にくれ

ああつらい、ああ悲しいと、気に入らないことを探し歩く。

人をつかまえては、いかに自分が大変かを延々としゃべり

合間につまらぬ自慢をはさむ。

冷ややかな反応だと「あの人は冷たい」と、よそでふれ回り

なぐさめや同情を得られれば、今度はその人を追いかけ回し、恩を仇で返す。

年金の額を心配し、最期は何の病気で死ぬのだろう…と不安がり

死にたい、死にたいと世をはかなみながら、長生きをもくろむ。


若い者なら、見た目だけでもかわいげがあろうが

年寄りのこんなのは、どこへ行ってもノーサンキュー。

「イタい年寄り」…そう言われて、避けられるのは構わないけど

実際にやるとなると、きっと、すごくしんどいと思うのだ。


目の上にタンコブがあるからこそ、ひとときの喜びや楽しみが輝く。

落ちぶれて途方に暮れた日々があるからこそ、人の情けが身に沁みる。

それを知るチャンスを与えられたのは、幸運であった。

チャンスをなかなかものにできず、棒に振った半生とも言えるが

反面、泣いたり怒ったり、あきれたりしながら奮闘した年月が

心からいとおしい。

そのいとおしい年月を与えてくれたのは、他ならぬ我が夫である。

お礼の印に、せめてヒザの全快を祈ろう。
コメント (47)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする