羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

誰が訳したの?

2016年09月17日 09時40分07秒 | Weblog
 かれこれ5ヶ月が過ぎようとしている。
「誰が訳したのでしょう」
 その日は朝日カルチャーの教室で、『現代語でよむ日本国憲法』柴田元幸翻訳 木村草太監修 アルク出版 を紹介したときだった。
 ホワイトボードの下で、この本を手に取ってページをめくっていた方のつぶやきが耳に入った。
「エッ?」(私)
 耳の奥にその言葉がしっかりと刻まれた瞬間だった。
「誰が訳したのでしょう」
「はじめに」に書かれていた1946年11月3日、「英文官報号外」に、日本側が作成した英文の日本国憲法が発表された、という記述を読んでのつぶやきだった。

 そのつぶやきに促されて、まず最初に『日本国憲法成立史』佐藤達夫著 有斐閣 第四巻を手に入れた。
 開いてみると「帝国議会の審議ー衆議院」憲法議会の開幕 第九〇回 から始まっている。
「やはり一巻から読み進まないといけないわ」

 Amazonの古書を検索して、全巻が揃うには、多少の時間がかかった。
 とくに二巻が手に入るのがいちばん遅かった。これだけは目の玉が飛び出るほどの値段だったし。
 
 全巻揃ったところで、一巻からノートにとって、頭を整理しながら読みはじめた。
 その間、戦時中の本等々も次々手に入れて、そちらも並行しながら読んでいった。

 はや9月も半ばにさしかかった今週になって、「誰が訳したのでしょう」の答えが書かれているページに到達した。
 時系列を遡ってみる。
 昭和21(1946)年2月8日に日本側がGHQに「憲法改正草案(松本案)」を提出した。
 2月13日、草案が拒否され、GHQ草案が提示された。
 2月26日、それに基づいた日本案の起草を決定。
 そしていよいよ、
 3月4日午前一〇時に草案は民政局に届けられた。このときには、英文翻訳もままならない状態であった。
 松本国務大臣に、翻訳の手伝いに同行を求められたのが、この著者である佐藤達夫(法制局第一部長)だった。
 著者が日比谷の第一相互ビル(現・第一生命ビル)六階 六〇二号室に入ってみると、白洲次郎(終戦連絡中央事務局次長)と外務省嘱託の長谷川元吉及び小畑薫良の三名がすでに到着していた。この外務省の嘱託両氏は、翻訳のベテランだと佐藤には紹介された、という。
 司令部側の将校二、三名、婦人一名、二世の青年一名とで、英訳がはじめられた。婦人一名の婦人は、音楽家のレオ・シロタ氏の娘で優秀なミス・シロタ。
 
 この瞬間から、3月6日に日本政府とGHQとの協議に基づいた「憲法改正草案要綱」が発表されるまでの攻防が記されている第二章は、読みながらも先へ先へとページを繰りたくなる緊迫感が伝わってくる。私は焦るきもちを抑えて、ゆっくり読み進んだ。世に伝えられているマッカーサー・ノートに基づいてつくられていくのだが、このノートの存在は国民には極秘とされた。こんな注がある。
《この草案を日本の法文として自然な形に仕上げたい》そのやりとりのなかで、とりわけ日本側が留意したことは、先方からの注文に《「そういう表現をすると、いかにも法文が異国調になって、国民は、外部から押し付けられたのではないか・という疑問を抱くであろう」ということで抗弁をした》とある。
 こうした思惑をもってつくりあげられ3月6日に発表された草案は新聞紙上でも掲載され、それを読んだ日本人の中には、文体や用語が日本式とは思えない、あるいは独立宣言やルーズベルトの演説からの引用等々《新聞は常に草案が内閣のものではなく最高司令部の作品であることを陰に陽にいうた。(土屋正三 〈レファレンス〉四八号》と注に補足してある。

 ところでこのマッカーサー草案立案に関係した民政局員はホイットニー准将をのぞいて25名という報告を、後から佐藤は受けたらしい。
 さらにもう一人、部外の関係者としてノースウエスターン大学のコールグローブ教授の名前があがっている。
 3月4日から5日の徹夜の攻防戦に、影の人物としてこの教授の存在が鍵を握っていることが記されている。
 この人物は、アメリカにおける日本政治・日本憲法の数少ない専門研究者として知られていた。その教授が1946年3月初旬に「GHQ憲法問題担当政治顧問」という肩書きで来日していたことが、日本側関係者にも伝えられていた、という。
 佐藤は推測する。
《総司令部の作業に関与していたのではないかとも推測されていた。》
 アメリカ側の関係者は軍人が、軍人である前に法律家でもある。
 そこにもう一人、大学の研究者であり政治学の教授が加わっていたのが実情のようだ、と読める。

 極東委員会に対するアメリカの思惑、アメリカ本国とGHQの微妙な関係といった切羽詰まった状況。
 とりわけ急かれる時間のなかで、GHQ側の周到な誘導のもとに、おもに天皇制の問題、戦争放棄の問題、基本的人権の問題を三本柱に、(その他も検討されているのだが)日本の戦後が形づくられていく。
 3月5日午後4時ごろ、司令部での作業が全部終了した。
《そのときには、それまで一度も顔を見せなかったホイットニー准将も出てきて、大いに安心した表情で、われわれの労をねぎらい、深い謝意を表明したのであったが、その喜びようは、私たちから見ると不自然に感じられるくらいであった》
 それに対して著者は複雑な気持ちであった。
《そのときの足取りの重さはいつまでも忘れない》
 そう吐露している。
 いずれにしても、3月4日、5日、そして6日の発表までの記録を読みながら、ひたすら息をのむ。

 佐藤は書いている。
 作業の間、机の上にはミルクと砂糖がふんだんにおかれ、コーヒーは飲み放題。食べ物に救われ、火急の大仕事にまったく疲労を感じなかった、と。

 その後、4月にも修正が加えられ、4月10日新選挙法による第22回衆議院議員選挙が行われ、4月17日には日本政府が口語体の「憲法改正草案」を発表する。

 1946(昭和21)年、巷ではインフレが猛烈な嵐を呼び起こしていた。
 庶民生活は困窮。
「憲法よりもコメよこせ!」の声が大きかった当時である。
 ようやく外地からの復員、帰国も軌道に乗りはじめたときである。
 そうした状況のなかで、どのくらいの日本人が、憲法改正に関心をもつことができただろう。
 この選挙は、新憲法への信任投票といってもよさそうな国民投票的な性格をもっていたようだが、どれほどの考えをもって投票にでかけたのだろうか。ましてや口語体による「憲法改正案」は、選挙後に発表されている。

 いずれにしても、そのことはおいても、新聞紙上で発表された憲法草案を読むことができる人々は存在していたのだ。
 日本人の識字率の高さは世界に冠たるものがあるとはいえ、漢字とカタカナで綴られた文章をある程度読む力があってこそ戦後の復興が可能だった、と成立史を読みながら、感慨を覚えた。(私自身この本が遅々として読み進めないのは、慣れないとはいえ、漢字とカタカナの文章を読むのに時間がかかっている)

 このように英文と日本文を双方から翻訳する力こそ、日本文化の底力にちがいない。
「誰が訳したのでしょう」
 この疑問こそが、すべての始まりである。
 万葉仮名がつくられる以前から、私たちは外国の言葉を翻訳し、咀嚼し、新たに構築し、自分たちの文化を血の通うものにしてきた。法文までも、というかすべては法文(律令・法律・法令のホウブン、経・論・釈など仏法を解き明かすホウモン)から始まっていたのだ。なにはともあれ記紀・万葉を持つ日出ずる国である。

 おっと、話が飛んでしまいそうだ。
 話を戻そう。
 この発表された改正案に対して毎日新聞が行った輿論調査が載っているが、「天皇制、戦争放棄、国民の権利・自由・義務、国会、草案審議方法」主な5項目に対する肯定的な答えは、平均で70%〜80%に及ぶ結果が出ている。細かな数字をみていると”なるほどそうか”と頷ける。
 戦後民主主義で教育され、戦後民主主義のなかにとっぷりつかって生きてきた世代の私としては、バランスのとれた良識を感じさせる数値だと思った。
 アンケート対象者は、個人企業者、財界人、医師、官公吏、農業者、宗教家、会社員、法曹人、教育者、文筆家、学生、労働運動家といった職業別内訳だから、もっともな数値といえるだろう。
 ただ一抹の不安を感じるのは、女性がはじめて参政権を得た選挙だったが、はたしてどれだけの女性が自分の意思で投票したのだろうか、といった点である。選挙権がある、と言われて「はい、そうですか」と手放しで喜んだ後にくるだろう「誰に入れたらよいのかな?」
 とまどいを多くの女性が持ってもふしぎではないだろう。
 しかし、彼女たちには、戦時中の暮らしの窮屈さ、失われた命への思い、戦後の想像以上の困窮の実感がある。あるにはあるが、その実感が投票に生かされたかどうか、である。
 91歳の母に、21歳当時のことを聞いてみた。
「なにしろ生きるのが大変で、選挙の記憶ははっきりしないわ」
 ちょっと残念だったが、正直な答えがかえってきた。

 さて別の本の年表をみると、11月3日憲法が公布されたあと、憲法普及会が冊子をつくって啓蒙活動をすすめた、とある。
 当然、教育界にも戦後民主主義の波が本格的に押し寄せてきた。
 野口三千三が終戦を迎えた東京体育専門学校を中心にして、GHQのなかにあるCIE(民間情報教育局)の指導のもと、戦後の体育指導要綱作成が相当なスピードをもって開始される。
 校長・大谷武一のもとで、三十代前半の野口は腹の皮が背中の皮にくっつきそうな状態をひたすら我慢しながら、おもにモダン・ダンス(創作舞踊)とフォークダンスの研究に没頭する。
 そして自らの身体に負った二つの傷を抱えて、新しい時代を必死に生きはじめたのである。
 野口に限らず、日本人のすべてが、ゼロからの出発である。

「誰が訳したのでしょう」
 小耳に挟んだ新井英夫さんのつぶやきから始まった私の読書。
 備忘録−2−である。
コメント (5)
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