羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

巡礼……八月十五日を前に−4−

2016年08月14日 08時53分45秒 | Weblog
 昨日、8月13日午前9時17分、常磐線ときわ53号は、土浦駅に時間通り到着した。
 西口に降り立った私は、「阿見公民館行」バス停を探した。
 それはロータリーを四分の一ほど左回転したところにある1番乗り場だった。
 土曜・休日・祭日の時刻表を見ると、9時台だけ一時間に3本。他の時間帯は一時間に2本しかなくラッキーだった。
 しばらく周辺を見回って、9時40分発のバスに乗り込んだ。
 凡そ20分もかからず、目的下車の「阿見坂下」に到着。
 降車して周りを見回し、バス停からすぐ脇の家に住む人に聞くと、近道を教えてくれた。
 2分くらいで「予科練平和記念館(平成二十二年開館)」の脇にある入り口から敷地にはいる。
 すると左手の芝生上にある「回天」の出迎えを受けた。
「人がやっと滑り込めるくらいの幅しかないんだ!」
 実物模型を目にして、衝撃をうける。

 天気は快晴。
 霞ヶ浦から吹き込む風は、気温の高さを緩和してくれるようだ。
 そのまま私は「回天」の傍に立ちすくんだ。
 目を閉じ、胸いっぱいに空気を吸い込む。
「この匂い、覚えておこう」
 霞ヶ浦の水と水面を渡る風、松・杉・梅・櫻などの樹木、池を埋め尽くす蓮の葉と花。
 なんといっても青い空はどこまでも広がっている。
 ここで学び訓練を積んだ若者が、太平洋に飛び立っていったのか……。

 かつて西巣鴨の自宅で、野口三千三に話を聞いたのは、かれこれ20年くらい前になるだろうか。日時の正確な記憶は、すでになくなっている。というか当時は野口の健康状態が波打っていて、話を聞いておいただけでもよかった、と後になって思った。
 ただ、そのときに聞き書きした原稿に、赤を入れもらい、没後は大切にしまい込んでいた。
 その原稿が日の目を見たのは、2004年に出版された『DVDブック アーカイブス野口体操』だった。
 それから12年目の今年、念願かなってここにやってくることができた。

《「佐野(小学校)の教師時代、僕らも参加した明治神宮国民体育大会で、土浦航空隊の実演は群を抜いてすごかったんだ」中略「どんな訓練をするとあそこまで上達するのか、この目で確かめたくて、土浦航空隊に出かけたことはあるんだ。そこで士官の人に小学校の子供たちの体育訓練の大事さを話された。僕は血気盛んな若者だったからね。自分には何ができるのか、真剣に考えたもんだ」》『DVDブック アーカイブス野口体操』52ページより
 それから鉄棒運動に集中して、野口の研究ははじまり、そして成果を見た結果、東京体育専門学校の助教授として迎えられることになる。

「明治神宮体育大会」が「明治神宮国民体育大会」と改称し、国防競技を採用したのがこの年。
 昭和十四年(1939年)五月だった。
 そこから計算すると、はやくて同年夏休みに出かけた可能性は否めない。そうであって欲しい、と勝手に決め込んだ。
 とすれば、77年前、大空のもと、炎天下、訓練を見学した野口が、士官の言葉を待つまでもなく、熱い思いをたぎらせただろう、と想像し、その場に私も立ってみたかった。
 昨日のまずの目的は、この場に立つことだった。
 そこで最初に「回天」のお出迎えだった。

 ゆっくりと進んで館内へと足を踏み入れた。
 展示は予科練志望者の憧れだったという七つボタンに因んで、七つのテーマに分けられている。
「入隊」「訓練」「心情」「飛翔」「交流」「窮迫」「特攻」
 海軍飛行予科練習生のすべてが網羅されている。
 遺品、遺物、映像、写真。当時の印刷物。貨幣。諸々。
 14歳から17歳、少年から青年へと成長していく過渡期に、彼らは考えられないほど十分なる教育と訓練を受けていた。
 頭上にひろがる大空は、七つの大洋につながっている。
 しかし、この地は彼らにとって“死出の旅路への滑走路”だった。

 昭和19年(1944年)、二ヶ月近く生活を共にして写真を取り続けた写真家がいる。
 彼の名は、土門拳。
 各部屋には「まぼろしの写真」として戦後封印した土門の写真がふんだんに展示されていて、当時の学びや訓練や暮らしがしっかりと見えてくる。『古寺巡礼』の写真家は、戦前・戦中に外国向けに日本を紹介する冊子を制作した「日本工房」でも、数多くの写真を残している。思わず「封印」という行為の向こう側にある惨さを思わずにはいられなかった。
 とはいえここに暮らした予科練生の写真は、はなむけ写真として美しい。
 美しすぎる。
 許されざる美しさである。

 さて、館の周辺には、公園がつくられていて、その一角には開かれた格納庫に「零戦」が展示されていることに気づいた。近づいてみる。
「この大きさなの?」
 小振りである。
「確かに」
 なんとなく納得してしまう大きさである。

 ぐるりと公園周囲を散策して、隣接する陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校内にある「雄翔園・雄翔館」にも立ち寄った。こちらの展示遺品は、生々しかった。一人ひとりに焦点が当てられていて、個人の死がはっきりと知らされる。
「なぜ、世界から戦争がなくならないのだろう」
 いや、ここで呟く言葉ではないのかもしれない。
 この建物の向こう側には、終戦当時に建てられたのか、と思わせる平屋の建物が残されていて、広い敷地の中には戦車が何台も止められているのが、遠くからでもはっきりと認められる。

 戦争の記憶を残す場には、かならず「平和」の文字が冠されている。
 その平和の対の言葉は戦争で、単独の平和ではない。
「平和・平和・平和」というこは、「戦争・戦争・戦争」ということなのだ。

 雄翔館を出て、自衛隊のフェンス沿いに、きた道とは逆方向に歩き続けた。
 太陽の光は燦々とふり注いでいたが、風は強くもなく弱くもなく、心地よい。
 私はひたすら歩いた。
 坂とは言えないほどのなだらかな坂を、ゆっくりとのぼった。
 のぼりきると霞ヶ浦を回る平らなサイクリングロードに出る。
 左は自衛隊のフェンスに阻まれているので、右折して道沿いに歩く。
 目の前に霞ヶ浦が広がっている。そこに立ち止まって眺めると、はるか遠方にヨットの姿が見えるが、他には一艘の舟も見当たらない。
 静かである。

 しばらく浦風に身を晒しながら、手元のメモを取り出して読み返す。
《 飛行機乗りで三十にもなればもうお爺さんと云われます。三十以上のパイロットなんて多くはいません。大概二十代で戦死します。海軍パイロット界に入ったら絶対にぬけられません。死ぬまで御奉公です。
 好きでなったがパイロット 娑婆の五十を三十で繰らす 左様奈良 》
「心情」の部屋壁にかかれていた言葉を写し取ってきた言葉だ。

 はたして野口三千三が封印した戦時は?
 私の巡礼は、平和を希求する複雑に畳み込まれた野口の戦時と終戦直後を、薄紙を丁寧に剥いで風を通すことなのだろうか。
 いったいどこまでが許されるのだろう。
 もしかすると、ここからは踏み込んでは行けない、と停止がかかるのだろうか。
 私が目にしたものとは全く違う風景を見ていた。
 77年前に野口が立ったこの地で
「もうしばらく巡礼を続けさせていただきます」
 そっと胸にしまった二つ目の言葉である。

 明日は、8月15日。
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