羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

巡礼……八月十五日 ある本に当たる……そして思いがけない見学

2016年08月16日 13時31分57秒 | Weblog
 終戦記念日の国会周辺では、警察車両と警察官ばかりが目立っていた。
 昨日、私は、国会図書館に出かけた。我が家から行くには、交通の便がすこぶるよい。
 滅多にない本を調べたいときはここに限る。

 さて、本館に入ってみると、さすがに来館者は少なかった。
 江口隆哉・宮操子、お二人が1931(昭和6)年末に、ドイツに留学し、当時ベルリンには「舞踊」と「体操」をコラボさせた教室が200〜250もあった、という記述を『江口隆哉芸術年代史』で読んでいた。そこで当時の体育事情を知りたくて出かけてきた。
 その文章は、1938(昭和13)年10月6日、《掲載紙不明『舞踊と体育』》江口による。
《日本でも体位向上運動が起こり、最近では国民舞踊の提唱もなされているが、その前に根本的な体育の設計が建てられるべきである。その具体策としては体育思想の普及と実際方法の検討及び実施普及が挙げられる》
 この提案の前にも「舞踊体操」についてドイツの例を引きながら、ドイツの体育政策の素晴らしさを語っている。

 敗戦後、舞踊家・江口隆哉に出会ったことで、野口三千三はドイツ仕込みの身体観や体操の理論、方法について学び、少なからず影響を受けたに違いない、と、ずっと思っていた。
 ただ、具体的に1930年代のドイツに於ける体操について調べることはしてこなかった。

 野口は東京体育専門学校で、スエーデン体操・デンマーク体操の研究をまかされていた、と聞いていた。
 そのときにはドイツ体操と言葉は一度も聞いたことがなかった。
 それもあって調べる時期が今年までずれ込んでしまった。迂闊であった。

 ところで先日、8月13日に出かけた「予科練平和記念館」で、海軍体操の映像を見た。You Tube でも「海軍体操」「海軍と体操」で、動画で見ることができる。
 たとえば「上体のぶらさげ」のやり方は、野口体操独自のものかと思っていたが、海軍体操の紹介動画で、前屈運動をしているシーンのなかに、「おろして行くとき、おり切るギリギリの段階で首が緩められて頭が下にむく」そして「起きてくるときは、頭が最後になっている」その動きを発見した。これは意識的に行おうとしている、というより、二つに折れ曲がるほど柔らかいからだで動く「前屈」で、スピードも速い場合、安全に行うにはこの順序がいちばん自然であることを実証しているに違いない、と思えた。若い海軍兵士の動きであった。
 この海軍体操はデンマーク体操からヒントを得て、堀内豊秋大佐が考案したとされているらしい。
「一人の完成は全体の完成」を目指して、体操が行われていた。

 それはそれとして、昨日は、1930年代のドイツ体操に関する翻訳本に当たるべく国会図書館に出向いた、というわけ。
 お目当ての本は、デジタル化されていて、館内のみの閲覧だった。
 1943(昭和18)年に翻訳出版された本で、ドイツ体育の創始者フリードリッヒ・ルードヴィッヒ・ヤーンの体育論に負うところが多い、と訳者序文にあった。
《チャンピオンシップ及び競技のための競技を排斥し、従って全國民の一般體育能力水準の全體的昇揚化を圖っている》

 訳者の著作権に抵触しない枚数を計算しながら、コピーをとってきた。
 実に楽な作業だった。例えば、3コマ〜18コマまで、とか23コマ〜44コマ、というように印刷指定を次々打ち込んでゆく。それが終わったら、印刷担当カウンターに「登録利用者カード」を提出する。しばらく待っていると名前が呼ばれる。料金を支払い印刷物と預けたカードを受け取とるまでに、14〜15分ほどですべてが完了する。

 このデジタル化は、本の色合いや手触りに拘る方には不評らしい。
 ただ、古い本で冊数が限られているものを守るためでもある。
 土曜日の朝日カルチャーのクラスには持参したいと思っているが、ここに書名を記すことは御勘弁いただこう。
 ご想像にお任せしたい。

 本を検索し、手元にかり出して、印刷をすませるまでに長時間がかかるものと心づもりしていた。
 夕方にはなるに違いない、という予想に反して、国会図書館本館を出たのは入館して1時間半くらいしかたっていなかった。
 わずかに曇っていたが、真昼間だ。
「このまま帰るのも……どこかに寄っていこうかしらー」
 信号機を渡って、国会議事堂裏手を地下鉄丸ノ内線駅に向かって歩いていた。
 途中、参議院の裏口前にさしかかったとき、一般人らしい数名の人だかりを認めた。
 不思議に思った私は、塀の脇にある立て看板に目をやった。
「参議院見学のお知らせ」
 文字を目でおいながら立っていると、声をかけられた。
「どうぞ中で書類を書いてください。次の回は2時からです」
 そう話しかけられても、参議院建物内を参観する人たちだった、と得心するまでに少しの時間が必要だった。

 なんとなく、意思もなく、ぼーっとしたまま、書類に必要項目を書き込み「参議院 見学ガイド」横幅10センチ、縦21センチほどの立派なカラー刷り冊子をもらった。これが通行証になるらしい。
 列をつくって10分ほど待っていると、入場手続きが始まった。
 一人ずつ前に進んで、持ちもの検査、バックを開き中身を見せ、金属探知機を通り抜け、地下ロビーへと案内された。

 ロビーで待つ間に、或る方のFBで、国会議事堂の建物は石材・木材、室内装飾すべてが国産で建てられている、と読んだ記憶が甦っていた。
 次々見学して行くうちに、日本で産出する大理石をはじめとする石材の多様なこと、欅の彫りものには目を見張るものがあることに気づかされた。
「ステンドグラス、通気口の装飾蓋、各階から投函可能な郵便受け、消印は銀座ですが。これらは輸入品です」
 皆がほーっと声を出した。
 なにより驚いたことは、本会議場の音響だった。グァングァンというような種類の反響はなく、人の声が明瞭に聞こえる響きのよさを生み出す空間だったのだ。

 1920(大正9)年1月地鎮祭、1936(昭和11)年11月完成と冊子にはある。
 まるまる17年の歳月をかけてつくられた議事堂である。
 約254万人の作業員が工事に携わったという。
 完成は、昭和11年というと「2・26事件」が起こった年である。
 日中戦争前夜のことである。
 見学途中の待ち時間に、冊子を読んで、建物は先の戦争をまるごと生きて見続けていたことになる、と気づく。
 それからは気持ちを立て直して、これまで考えたことがなったことに驚きながらの見学となった。

 建物内を見回って、違った意味の二つ溜息をついてしまった。
 大理石や木彫を見たいために参加したのだったが、皮肉な巡り合わせの時に誕生したものだ、と。

 見学もそろそろ終盤、表の庭に出て都道府県の“樹木の道”を抜けて、正門の前に誘導された。
「ここが写真をとっていいスポットです。自由にお撮りください」
 一緒に見学した二十数名は、入れ替わり撮影スポットに立ってカメラを向け、記念撮影をしている。
 少し離れたところから、蜃気楼でも見るかのように眺めていた。
 静かに門から外にでる。振り返ると議事堂の建物が悠然とたっている。

「そうだ『1941ー決意なき開戦 現代日本の起源』をバックにいれてきたわ」
 まさか家を出た3時間半ほど前には、議事堂内を見学するとは予想だにしなかった。
 人生はわからないもの……。
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