羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

およそ40年前の写真から思うこと

2007年02月08日 19時33分51秒 | Weblog
 昨日の片づけで見つけた写真のなかに、父が40年ほど前の盆栽を写したものがあった。
 
 欅・松・もみじ等々、どれもみな幹も細く弱弱しい感じの姿だ。
 4年前に父が亡くなってから、ほとんど枝をおろすこともなく伸ばし放題なのだが、幹も太くなり根もしっかり張って、歳月が植物を育てる力を感じた。

 子供がすくすくと成長する様子はもちろんのこと、大人になって老化がありありと写しだされるとしても、写真の記録性は他のものに換え難い。

 片付け作業の途中で写真を眺めながら、せっかくここまで育って植物を枯らしたくないという思いが募った。
 たとえ姿かたちが崩れたとしても、春になれば新芽が顔をのぞかせ、初夏から夏にかけて緑を濃くし、秋には紅葉するものや葉の色が薄くなるもの、冬には身を縮ませながら寒さを避ける姿がみられると、植え替えをしなければと思う。

 今年は暖冬で植え替え時期に近いほど芽を成長させている木がある。
 松などは最後の植え替えから5・6年は過ぎているので、今年こそやらなければなるまいと、水遣りをしながら様子を見ている。

 そこで盆栽の育て方を記した本を見ながら、父が残したメモや植え替え記録などを参考に、作業の段取りや手順や方法をイメージした。つくづく思った。克明に記されたメモというのは、本よりも頭に入ってくる。キレイに整理されているだけに、一目で様子が入力されていく。

 そして春に父が植え替えをしている様を思い出し、メモの内容を具体化するのだ。最後は鉢から植物を引き抜くと、土の様子や砂の混ぜ方や小石の敷き方などが見えてくる。根の張り方でどのくらいその木が元気なのか、あるいは弱っているのかを見極める。
 あとはエイヤッと思い切りよく、やってしまうこと。

 本があり、メモがあり、そのものがあって、やっている様子を見ているということ、どれが欠けても難しいのだろう。盆栽学校に通えばいいと思うが、行く気がしないのは、そこまで時間をかけることが今は難しいと感じているからだ。
 せいぜい出来る範囲でやってみようと思っている。
 植物が枯れてしまったら、「ごめんなさい!」の一言。

 ただここで思うことは、クラシック音楽が「楽譜」を生み出したことの意味だ。
 こうした記録が残っているということは、次世代につなげるときに大きな力となっている。すべてが書き込めるわけはない。しかし、記録がもたらす力は大きい。

 野口体操に振り返れば、本があり、ビデオがあり、写真があり、今ではブログ上で公開し、教室があるということ。どれが欠けても立ち行かない。

 昔の盆栽の写真を見ながら、今、まだ生きている植物の姿を実際に見て、植え替え作業をし、水遣りを繰り返えす行動から、野口体操の現在のあり方はなかなかにいい線をいっているのだと思えた。

 何事にも共通する「道の伝え方」があることに今さらながら気づかされた。
 片付けは、時に、本気でするものだなぁ~、と。
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