羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

一服の茶

2009年09月05日 09時00分08秒 | Weblog
 とにかく腕が太くなった、というと大袈裟ではあるけれど、二の腕の力が漲っているのだ。
 なぜか?
 それは夏の片づけだ。
 このあたりは一週間の間に‘可燃ごみ’は二日、‘不燃ごみ’は一日、さらに粗大ゴミの手前の大きさのゴミは小家電製品収集日は月に二回、そして‘資源ごみ’が一回となっている。

 そのすべてに捨てさせてもらった。
 まだ昭和のものが主である。
 母のものは、すこしだけ手をつけさせてもらった。

 45リットルの袋に満杯にして20袋はくだらなかった。
 そのほかまとめて縛り付けて出すものもあった。

 こうしてみると次に何がしたいのかが明確になってきたのは有難い。
 還暦に絶つことで、新しく立ち上げる可能性が見えてきた。
 普段使わない頭も使ってみると、見えなかったことが見えるようになり、決して‘固執’とは思っていなかったことが実は‘執着’や‘固執’であったことに気づかされたり、片付けは片付けの域を超えて、新たな道を照らしてくれることだった。
 
 久しぶりの晴天、今朝は、一服の茶が美味しかった。いつもと同じお茶なのに~。
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2 コメント

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捨てるということ (モンジロー)
2009-09-11 15:50:01
野口先生が、当時70歳を越えていたと思いますが、自分くらいの年齢になると余分なものを捨てていくことが大切になってくると言うのを聴いた記憶があります。確かに興味関心あるすべてのことに若いときと同様エネルギーを注ぐことには、精神的にも身体的にも、経済的にも時間的にも、制約が多くなっているのを感じざるを得ません。そうやって贅肉になってきたものをそぎ落としていった先に、普遍に通ずる何か、真実が見えてくるのでしょうか。
家の事情があって野口体操も活発な運動系のものはできず、どちらかといえば静的なやすらぎのポーズや間の動きを中心に、寝る前の30分を過ごしています。静かな動きですが、身体の中の微細なエネルギー(気)がつながり、つたわり、ながれ、とおる、感覚を毎晩味わっています。
またいつか、教室で羽鳥先生の動的なエネルギーもいただいてみたいです。
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捨てることの難しさ (羽鳥)
2009-09-12 12:18:17
年をとると物が自然に増えてくるのは、誰でも共通かもしれません。
余分なものを捨てる、という人ほどなかなか捨てられないかもしれません。
野口先生がそうだったとはあえて申しませんが。
体操も‘そぎ落とすこと’‘余分な力を使わないこと’。そこからエネルギッシュな生命が発露するような体操でありたいですね。矛盾してます?
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