羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

巡礼……八月十五日を前に−3−

2016年08月05日 14時11分35秒 | Weblog
 本日、昨年からたずねたいと思っていた巡礼のひとつの地にようやく立つことができた。
『明治大学平和教育登戸研究所資料館』である。
 小田急線生田駅から歩くこと20分。
 まず難関は、登校路門から入るとすぐに出くわす急な登り坂である。
 ただし樹木が日光を遮ってくれるので涼しいことが救いである。
 坂を上がり切ったところにある「弥心(やごころ)神社(現・生田神社)」を右手に見て、さらに奥へとキャンパス内を進む。
 資料館は校内のいちばん奥まったところにひっそりと佇んでいる。
 館内は5つの部屋にわかれていて、秘密裏に研究されていた内容を分けて、展示している。
 各部屋で、ビデオ装置を操作して、15分くらいにまとめられた解説をきく。

 中でも話には聞いていた風船爆弾を小型化した展示物があり、使われた和紙を生紙の状態からこんにゃく糊で重ね合わせ、さらに弾力を持たせる加工を行ったものまで、行程ごとの紙に触れることができる。
 考え方も作り方もなかなかのもので、「風船」という名前からイメージする可愛らしさとは裏腹なものであることをしった。

「この地で、偽札つくりやら、スパイの道具やら、いろいろあるのだけれど、多いときには千人に近い日本人が研究・開発・製造に携わっていた」と思うと複雑な思いを抱かざるを得ない。
 香港から持ち込んだ紙幣印刷機は、終戦間際まで中国のお札を印刷し続けていたというから、驚きである。
 昨年から今年の春にかけて読んでいた『満州国演義』に描かれれていた陸軍特務機関の描写の大本を、ここで見ることになった感慨は深い。
 戦時中にもかかわらず、軍国少年、軍国少女たちは、一般から隔てられた多摩丘陵の木々のなかで、(ここがすごいことだけれど)極めて穏やかに働いていたという。
 現在は、明大の理工学部と農学部で学ぶ同年代の若者がキャンパス内を闊歩している。
「平和っていいなー」
 樹木に囲まれた敷地内は、程よく風が抜けて暑さをしのぐことができる。
「あの時代も、同じように風が吹き抜けていたのだろうか?」
 歩いてきた道ですれ違った若者の姿を思い出す。
 
 一時間以上かけて見て回った資料館を出て、倉庫跡(通称 弾薬庫)を見て、ヒマラヤ杉の並木が残されている場に佇んだのは、お昼近くだった。
「時世が変われば、掌を返すように、平和利用から兵器開発研究に転換するのは実に簡単なことなのだ」
 言葉は胸の奥にしまった。 
 
 実は、終戦間近に長野に疎開した登戸研究所も、終戦と同時に焼却命令が通達された「戦時ポスター」同様に、というかもっと切羽詰まった状態で、GHQの目に触れさせないためにさまざまなものを秘密裏に隠し、なきこととした経緯がある。
 今では不都合な真実(事実)を、展示公開している明大に敬意を表したい気持ちになった。(というのもこの大学で六年間、野口体操を体育授業で指導してきたことも、こうした気持ちにさせてくれたひとつの理由かもしれない。)

 横目で通り過ぎた弥心神社に帰りには立ち寄った。
 お宮の右手に立てられている句碑を読んでいると、当時を懸命に生きた若者たちの複雑な思いが伝わってくる。簡単に善し悪しを言うことができなくなってしまった自分に気づく。

《すぎし日は この丘にたち めぐり逢う》と刻まれている。
「すぎし日」とは、かつてこの研究所に勤めていたことを、誰にも語れなかった人々が、「墓場まで持って行こう」と胸の奥にしまい込んでいた記憶を、戦後數十年を経て再び丘の上に立ち、ようやく話し合うことがゆるされた、という気持ちを詠ったものだという。
 碑には「昭和六十三年建立」と彫られている。
 翌年六十四年(1989年)一月には昭和天皇が崩御され、昭和から平成へと元号はかわった。
 ちょうどその境界に立つ碑である。
 それを機に、研究所記憶の継承を希求する市民運動がおこり、登戸研究所資料館建設の道がひらかれていった、という。
 二十数年後の平成二十二年(2010年)に、この資料館は一般公開されることになった。

 明日は戦後七十一年目の八月六日である。
 改めて、合掌。
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