450頁、分厚い本である。
全10巻のうち、第9巻『社会とは何だろうか』晶文社に、先頃なくなった鶴見俊輔と野口三千三の「からだとの対話」が載っている。
その座談は、1972年、野口の最初の著書『原初生命体としての人間』が三笠書房から出版された年に行われた。
『鶴見俊輔座談』第9巻は1996年9月25日発行である。もし1年半ほど遅れていたら、野口が目にすることは出来なかった、と思うと感無量である。
カバーには、次のような言葉が記されている。
《「私は〈一人の大衆〉という考えかたでいきたいんです。大衆の一人じゃない、かたまりの一部じゃない、一個の人間として、自分をいつわらずに生きたい。一人がどう感じるかを大切にするということです。それには、かたまりから自分を引き抜く、かたまりの思想に対抗する立場をなんとかしてつくっておくことなんです」鶴見俊輔》
野口体操のものとしては、野口先生との座談が面白かった!と言いたいところなんですが、さにあらん。
『塀の中の懲りない面々』を書いた安部譲二さんとの座談「ボクシングとわたし」1988年が、実に面白い。
鶴見俊輔ここにあり、といった印象なのである。
時代を牽引する進歩的文化人、知の巨人と言われる知識人の代表、生のアメリカ文化に精通した哲学者が、「一人の大衆」として、ハグレ者の作家と見事なボクシング論を展開している。(これは、ぜひ、お読みいただきたい)
『思想の科学』大黒柱の面目躍如。深くてイキイキして、心浮き立つ話が展開されていく。
さて、『思想の科学」といえば、私個人のことだが、立教大学の旧図書館での一日が思い出される。
立教と言えば煉瓦造りの建物に四季を通して蔦が美しいことで有名だ。
池袋の雑踏から少し入ったところに、独特の雰囲気を漂わせている。
女子学生のなかには、建物に惹かれて入学を希望する学生も多いと聞く。
正門を入ると右手にチャペル、左手に図書館がある。最近になって現在の新図書館は、チャペルの奥に移転した。
この旧図書館の内部は、静謐な修道院の図書館を思わせる。外壁は趣深い煉瓦造りである。もちろんここにも蔦が這っている。
野口没後、2005年か2006年頃だったと思うが、ある調べごとでこの図書館に終日籠ったことがある。
創刊号から全て揃っている『思想の科学』を調べるためだった。
まずは「索引」を借りだして、お目当ての号を見つけようとした。この索引が素晴らしいのだ。
一冊一冊を丁寧に読み込む意味は深いが、索引を通して全体像を俯瞰すると、各時代の社会・大衆・文化、etc.、諸々がズシーンと明快なテンポで伝わってくるのだった。
放っておかれれば、歴史のなかに埋もれてしまう。
青史の影で虐げられ、いじめられ、泣かされ、どんなに一人一人が声をあげてもまともに取り上げてはもらえないこと。
文字に起こせる範囲は狭い。生の現実、生の出来事、一人ひとりが生を営む大衆の息づかい、そういったことの隅々までを全て書き残せないとしても、『思想の科学」の索引を読むだけで、ひしひしとつたわることは深く大きい。
むしろ索引だからこそ、伝わることがある、という方が正確な編集である。
この時、探し物とは別に『1976年6月 No ー63 臨時増刊号 〈対談〉「生き字引き」の思想』五木寛之+佃実夫』を発見した。小説家の五木寛之とは、少し違った雰囲気の対談のことばがそこにはあった。偶然とはいえ私にとっては貴重な資料であった。
さて、他にも野口から聞いたエピソードがある。
劇団「ぶどうの会」を解散に追い込んだ竹内敏晴が、路頭に迷いそうになった時期に、野口三千三は手を差し伸べていた。つまり一冊の本を誕生させることで……。
当時、「思想の科学」の出版部から単行本執筆依頼が野口にもたらされた。野口は即座に辞退し、代わりに竹内敏晴を紹介した、という。
そこで出版されたのが『ことばが劈かれるとき』であった。
この一冊がキッカケで、竹内敏晴は世の中に出る足がかりをつかんだのである。
こうしてみると「思想の科学」とは、浅からぬ縁があった野口体操である。
*******
昭和の巨人がまた一人、鬼籍に入られた。年齢からいって、いたしかたがない、としても今のこの時期に、非常に残念である。
息してくださっているだけでもよかった。
若者が、老いたる者が、鶴見俊輔の写真を掲げて、抗議行動を連日連夜続けている。
「欲を言えば、あなたにもここに居てほしかった」
切なる願いも虚しく、人は去っていく。
合掌。
全10巻のうち、第9巻『社会とは何だろうか』晶文社に、先頃なくなった鶴見俊輔と野口三千三の「からだとの対話」が載っている。
その座談は、1972年、野口の最初の著書『原初生命体としての人間』が三笠書房から出版された年に行われた。
『鶴見俊輔座談』第9巻は1996年9月25日発行である。もし1年半ほど遅れていたら、野口が目にすることは出来なかった、と思うと感無量である。
カバーには、次のような言葉が記されている。
《「私は〈一人の大衆〉という考えかたでいきたいんです。大衆の一人じゃない、かたまりの一部じゃない、一個の人間として、自分をいつわらずに生きたい。一人がどう感じるかを大切にするということです。それには、かたまりから自分を引き抜く、かたまりの思想に対抗する立場をなんとかしてつくっておくことなんです」鶴見俊輔》
野口体操のものとしては、野口先生との座談が面白かった!と言いたいところなんですが、さにあらん。
『塀の中の懲りない面々』を書いた安部譲二さんとの座談「ボクシングとわたし」1988年が、実に面白い。
鶴見俊輔ここにあり、といった印象なのである。
時代を牽引する進歩的文化人、知の巨人と言われる知識人の代表、生のアメリカ文化に精通した哲学者が、「一人の大衆」として、ハグレ者の作家と見事なボクシング論を展開している。(これは、ぜひ、お読みいただきたい)
『思想の科学』大黒柱の面目躍如。深くてイキイキして、心浮き立つ話が展開されていく。
さて、『思想の科学」といえば、私個人のことだが、立教大学の旧図書館での一日が思い出される。
立教と言えば煉瓦造りの建物に四季を通して蔦が美しいことで有名だ。
池袋の雑踏から少し入ったところに、独特の雰囲気を漂わせている。
女子学生のなかには、建物に惹かれて入学を希望する学生も多いと聞く。
正門を入ると右手にチャペル、左手に図書館がある。最近になって現在の新図書館は、チャペルの奥に移転した。
この旧図書館の内部は、静謐な修道院の図書館を思わせる。外壁は趣深い煉瓦造りである。もちろんここにも蔦が這っている。
野口没後、2005年か2006年頃だったと思うが、ある調べごとでこの図書館に終日籠ったことがある。
創刊号から全て揃っている『思想の科学』を調べるためだった。
まずは「索引」を借りだして、お目当ての号を見つけようとした。この索引が素晴らしいのだ。
一冊一冊を丁寧に読み込む意味は深いが、索引を通して全体像を俯瞰すると、各時代の社会・大衆・文化、etc.、諸々がズシーンと明快なテンポで伝わってくるのだった。
放っておかれれば、歴史のなかに埋もれてしまう。
青史の影で虐げられ、いじめられ、泣かされ、どんなに一人一人が声をあげてもまともに取り上げてはもらえないこと。
文字に起こせる範囲は狭い。生の現実、生の出来事、一人ひとりが生を営む大衆の息づかい、そういったことの隅々までを全て書き残せないとしても、『思想の科学」の索引を読むだけで、ひしひしとつたわることは深く大きい。
むしろ索引だからこそ、伝わることがある、という方が正確な編集である。
この時、探し物とは別に『1976年6月 No ー63 臨時増刊号 〈対談〉「生き字引き」の思想』五木寛之+佃実夫』を発見した。小説家の五木寛之とは、少し違った雰囲気の対談のことばがそこにはあった。偶然とはいえ私にとっては貴重な資料であった。
さて、他にも野口から聞いたエピソードがある。
劇団「ぶどうの会」を解散に追い込んだ竹内敏晴が、路頭に迷いそうになった時期に、野口三千三は手を差し伸べていた。つまり一冊の本を誕生させることで……。
当時、「思想の科学」の出版部から単行本執筆依頼が野口にもたらされた。野口は即座に辞退し、代わりに竹内敏晴を紹介した、という。
そこで出版されたのが『ことばが劈かれるとき』であった。
この一冊がキッカケで、竹内敏晴は世の中に出る足がかりをつかんだのである。
こうしてみると「思想の科学」とは、浅からぬ縁があった野口体操である。
*******
昭和の巨人がまた一人、鬼籍に入られた。年齢からいって、いたしかたがない、としても今のこの時期に、非常に残念である。
息してくださっているだけでもよかった。
若者が、老いたる者が、鶴見俊輔の写真を掲げて、抗議行動を連日連夜続けている。
「欲を言えば、あなたにもここに居てほしかった」
切なる願いも虚しく、人は去っていく。
合掌。